[#表紙(img/表紙.jpg)] 火山列島の思想 益田勝実 目 次  黎  明——原始的想像力の日本的構造——  幻  視——原始的想像力のゆくえ——  火山列島の思想——日本的固有神の性格——  廃王伝説——日本的権力の一源流——  王と子——古代専制の重み——  鄙に放たれた貴族  心の極北——尋ねびと皇子・童子のこと——  日知りの裔の物語——『源氏物語』の発端の構造——  フダラク渡りの人々  偽悪の伝統  飢えたる戦士——現実と文学的把握——  あとがき  新装版あとがき [#改ページ]  黎 明——原始的想像力の日本的構造——    黎明の異変  原始社会における日本人の想像力の状況は、今日からはにわかに推測することができない。それは、ことさらに揣摩臆測《しまおくそく》を事とするものでなければ、あげつらう勇気を持ちえぬほど、確かな手がかりの少ない、茫々たるそのかみのことである。しかし、すべてが湮滅しさり、埋没しはてたかに見える原始の日本人の想像法が、ずっと後々まで強力に生き続けて、日本人の想像のひとつの鋳型の役割を果たしていることもあり、生き続けてきていると、かえってその古さに気づかないから、奇妙なものである。わたしたち日本人の脳裏では、実に永い間、闇の夜と太陽の輝く朝との境に、なにか特別な、くっきりした変り目の一刻があった。異変が起きるのは、いつもその夜と朝のはざま[#「はざま」に傍点]、夜明けの頃でなければならなかった。  夜が明ける——伝承の世界では、それはずっと後世までも、単なる時間の推移ではなかった。第一に、それは鬼の退場の時刻であった。 [#ここから1字下げ]  鬼、よりて、「さはとるぞ」とて、ねぢてひくに、大かたいたき事なし。さて、「かならずこのたびの御遊びに参るべし」とて、暁に鳥などなきぬれば[#「暁に鳥などなきぬれば」に傍点]、鬼共かへりぬ[#「鬼共かへりぬ」に傍点]。翁顔をさぐるに年|比《ごろ》ありし|※[#「病だれ<嬰」、unicode766D]《こぶ》、あとなく、かいのごひたるやうに、つや/\なかりければ、木こらんことも忘れて、家にかへりぬ。 [#地付き](『宇治拾遺物語』「鬼に※[#「病だれ<嬰」、unicode766D]とらるゝ事」) [#ここで字下げ終わり] 「こぶとり」の鬼は、爺の頬から瘤をもぎとって帰っていった。夜明けに鳥たちが鳴きはじめたからである。こういう話の運びをあたりまえしごくに思い、少しもふしぎと感じないのが、わたしたち日本人である。鳥が鳴きはじめて帰っていかない鬼の話など、日本ではありえない。ところが、実際に山の中に泊まって実験してみると、日の出まえ一時間ぐらい、小鳥たちがあちらこちらで囀り、チーチビ、チーチビ、ツピ、ツピとにぎやかだが、またいつのまにか静かになり、朝がきているのである。村里の鶏のコケコーローのように、そら鳴いた、といったきわだったものではない。そのいつのまにやら始まるチーチビ、チーチビ、ツピ、ツピに聞き耳を立てて、あわてて退参する「こぶとり」の鬼どもは、敏感で繊細な神経の持ち主ということになる。  鬼どもはなぜこうも敏感なのか。それはさておいても、第二に、一度夜が明けたら、かれらのやりかけた仕事はそこで停止してしまわねばならない。それは、それ以後の継続も許されないし、やり直しも決して認められないのである。各地にある鬼の築いた九十九段、もしくは九百九十九段の石段の伝説でも、問題は夜が明けたという点にある。 [#ここから1字下げ]  羽後の国|男鹿《をが》半島に、神山、本山といふ二つの山がある。どちらも、峻しく容易に登れないが、不思議なことには、神山の方には、昔から九十九の石段が出来てゐる。素晴らしい大きい石の石段で、迚《とて》も人間|業《わざ》とは思へぬ位の工事である。  昔、神山の奥深くに、一匹の鬼が棲んでゐて、毎年々々、近くの村に現れて、田畑を荒すので、村の者は困り果て、鬼に向つて一つの難題を持ち出した。其難題といふのは、鬼は一晩のうちに、百の石段を神山に築上げることで、若しそれが出来なかつたら、此から後は、決して村へ出て来てはならぬ、其代り、若し百の石段が出来たら、此から後は、毎年人間を一人づゝ鬼に食はせる、と云ふ約束であつた。鬼は此約束を承知して、或夜、石段を築きだした。何しろ、一生懸命である。見るうちに、工事が捗つて、九十九の石段が見事に出来上つた。ところが、今一段と云ふところに成つて、一番鶏が啼いて、東雲《しのゝめ》の空が明るく成つた。鬼は驚いて、姿を晦《くらま》した。 [#地付き](高木敏雄『日本伝説集』一九一三年) [#ここで字下げ終わり]  鶏が鳴いて夜が明けたので、九十九パーセント完成している仕事が永遠の未完成工事になってしまう。夜から朝へ、朝からまた昼・夜へと時間は流れていくであろうに、この夜明けの境界線での中絶は再興が許されない。永遠の凝固が見舞う。時間はそこで立ち止まるのである。  夜明けという、夜と朝の間を断つふしぎな断絶のクレバスの底知れない深み。——そこではどのような魔力ある者のやりかけの仕事も、すべて停止するばかりか、一瞬にしてそのまま岩となり、山となる——これが第三の約束事である。役《えん》の行者が紀伊半島の突端の串本から大島へ橋をかけた時もそうだった。もう少しのところで夜が明けた。作りかけの橋杭すべてが岩と化した。有名な橋杭岩の伝説だが、魔性の者どもの魔力の限界、そこでの永遠の中止、すべての状況のさながらの凝固——わたしたちの国では、そういう夜と朝のはざま[#「はざま」に傍点]での異変の想像を当然のこととして受け容れる体質が育っており、疑いをさしはさむ人はごくまれであった。  黎明の異変という想像のしかたは、ずっと溯って『常陸《ひたちの》国|風土記《ふどき》』の「うなゐの松原」の伝説でも、重要な想像展開の基軸をなしている。夜が明けるということ、朝が訪れるということは、なぜそのように重大なのであろうか。 [#ここから1字下げ]  その南に童子女《うなゐ》の松原あり。古《いにしへ》、年|少《わか》き僮子《うなゐ》ありき。俗《くにひと》、加味乃乎止古《かみのをとこ》・加味乃乎止売《かみのをとめ》といふ。男を那賀の寒田《さむた》の郎子《いらつこ》と称《い》ひ、女《をみな》を海上《うなかみ》の安是《あぜ》の嬢子《いらつめ》と号《なづ》く。竝《とも》に形容《かたち》端正《きらきら》しく、郷里《むらざと》に光華《かがや》けり。名声《な》を相聞きて、望念《ねがひ》を同存《おなじ》くし、自愛《つつし》む心|滅《うせ》ぬ。月を経、日を累《かさ》ねて、|※[#「女+櫂のつくり」、unicode5B25]歌《うたがき》の会《つどひ》、俗《くにひと》、宇太我岐《うたがき》といひ、又、|加我※[#「田+比」、unicode6bd7]《かがひ》といふに、邂逅《たまさか》に相遇《あ》へり。時に、郎子歌ひけらく、   いやぜるの 安是の小松に   木綿垂《ゆふし》でて 吾《わ》を振り見ゆも   安是小島はも 嬢子、報《こた》へ歌ひけらく、   潮《うしを》には 立たむと言へど   汝夫《なせ》の子が 八十《やそ》島隠り   吾を見さ走り 便《すなは》ち、相語らまく欲《おも》ひ、人の知らむことを恐りて、遊《うたがき》の場《には》より避け、松の下に蔭《かく》りて、手携はり、膝を役《つら》ね、懐《おもひ》を陳《の》べ、憤《いきどほり》を吐く。既に故《ふる》き恋の積れる疹《やまひ》を釈《と》き、還《また》、新しき歓びの頻なる咲《ゑまひ》を起こす。……|※[#「玄+玄」、unicode7386]宵《こよひ》|※[#「玄+玄」、unicode7386]《ここ》に、楽しみこれより楽しきはなし。偏《ひと》へに語らひの甘き味《あぢはひ》に沈《おぼ》れ、頓《ひたぶる》に夜の開けむことを忘る。俄かにして、鶏《とり》鳴き、狗《いぬ》吠えて、天《そら》暁け日|明《あきら》かなり。爰《ここ》に、僮子|等《たち》、為むすべを知らず、遂に人の見むことを愧《は》ぢて、松の樹と化成《な》れり、郎子を奈美《なみ》松と謂《い》ひ、嬢子を古津《こつ》松と称《い》ふ。古《いにしへ》より名を着けて、今に至るまで改めず。 [#地付き](香島郡) [#ここで字下げ終わり] 「神のをとこ」「神のをとめ」と呼ばれた那賀の寒田のいらつこと海上の安是のいらつめは、神に仕え、神の代弁者となる聖少年・聖処女であったかもしれない。それゆえにその密会を人目にさらすことができないにしても、「愧《は》ぢて、松の樹と化成《な》れり」というような神異力を具えているのは、どうも少年少女自身ではないらしい。わが国では、その時刻には、そのようなメタモルフォーシス(変態)が可能になるというとりきめ[#「とりきめ」に傍点]があったのである。問題はあくまで夜明けという時刻の方にある。    原始的時間構造の想像力規定 [#ここから1字下げ]  大晦日の晩を年の夜と称した。家々晩飯に御馳走を拵へ家族揃つて之を食べた。御膳には何か意味は分らぬが、葱の白根をおき、箸を取る前に指で一端を裂いて「ハブの口開けよ」と云つた。晩飯によつて人々は年を一つとつたものとされた[#「晩飯によつて人々は年を一つとつたものとされた」に傍点]。 [#地付き](佐喜真興英『シマの話』一九二五年) [#ここで字下げ終わり]  沖縄で、おおみそか[#「おおみそか」に傍点]の夜、晩飯を食べるとすでに新しい年齢をひとつ加えたことになる、と考えられていたということは、まだ遠くないごく少し昔のものの考え方だが、実は、これにも原始社会以来の思考法が残留している。早く柳田国男の指摘したように、わが国の原始の一日は、夜の闇のとばりが地上を覆うときから始まったらしい。日の出に始まる一日の朝から夜へという時の流れ方は、むしろ後の時代のもので、夜から朝へと時が流れていくのがより古い一日のあり方であった、とみられる。佐喜真興英の記録している沖縄の新年の訪れ方は、そのことをよく伝えている、といえよう。「西洋の年の境は夜中の零時かも知れず、支那では朝日の登りを一日の始めと考へて居たかも知らぬが、我々の一年は日の暮と共に暮れたのである[#「我々の一年は日の暮と共に暮れたのである」に傍点]。それ故に夕日のくだちに神の祭を始め、その御前に打揃った一家眷属が、年取りの節の食事をしたのである。日本人の祭典には必ずオコモリといふことがある。神の来格を迎へて、謹慎して一夜を起き明かすことである」(柳田国男『新たなる太陽』「年籠りの話」一九五六年)という一日の始まり方は、もの日の場合だけでなく、つねの日もまたそうであったろう。そして、夜は〈聖なる半日〉として、一日の最初の部分を占めていたらしい。単なる睡眠の時間ではなかったようである。  わが国の原始社会の夜については、まだ少しも解明の試みはなされていないけれども、レヴィ・ストラウスはブラジル奥地のボロロ族の夜について、次のように報告している。 [#ここから1字下げ]  ボロロの村では、一日の中にひじょうに大切に思われている時間がある。それは夕方の呼び出しである。日が暮れると、踊りの広場に家長たちが集まってきて、そこで焚火をする。伝令が大きな声で各集団の名を呼ぶ。バデッジェバ(酋長)、オ・チェラ(イビ鳥の頭《かしら》)、キー(貘の頭)、ボコドリ(タトーの頭)、バコロ(英雄バコロロの名)、ボロ(|飾り棒《ラブレ》の頭)、エワグドウ(ビュリティ棕櫚の頭)、アローレ(毛虫の頭)、パイウエ(針鼠の頭)、アピボーレ(意味不明——原註)……彼らが出頭して来るに従って、一番遠い家々にまで言葉が聞えるくらいの高い声で、明日の命令が関係者に伝えられる[#「明日の命令が関係者に伝えられる」に傍点]。それにこの時間には、家には誰もいないか、ほとんど空っぽである。蚊がいなくなる日没と共に、六時頃にはまだ皆が一しょにいた住居から出はらっていた。一人一人、手に手に筵を持って、男たちの家[#「男たちの家」に傍点]の西側にある丸い大きな広場の踏み固めた地面に横になりに行くのだ。ウルクを塗りつけた体に永い間触れているので、オレンジ色の染みついた木綿の掛け蒲団にくるまって、皆が寝る。そこでは、保護局はそこにいる者の一人でも見分けることは難しいだろう。大きな筵の上には、五、六人が一しょに横になって、ほとんど言葉も交わさない。二、三人だけが別になって、横になっている者たちの間を廻っている。呼び出しがつづいて、名ざされた家長たちが次々に立ってゆく。命令を受けると、星を見上げながら帰って来る。女たちも小屋から外へ出ている。女たちは自分たちの家の入口の下にかたまって、口かずも次第にとぎれがちになってゆく。すると、最初は二、三人の祭司に先導されて、集まる者が増すにつれて次第に大きく、|男たちの家《バイテマナージヨ》の奥から、それに広場から、歌や、吟誦する声や合唱が聞え始め、それが夜中つづく。 [#地付き](室淳介訳『悲しき南回帰線』一九五五年、邦訳一九五七年) [#ここで字下げ終わり]  この二十世紀の裸族について、かれはまた、「民族誌学者としての務めを果たすには、私はあまりに疲れていたので、日が落ちるとすぐに、疲労と暁までつづいた歌声とで神経を苛立たせながらうとうとと眠った。その上、こうした行事がこの部落を去るときまで毎日のようにつづいたのだった。夜は宗教生活に充てられていて、原住民は日の出から昼すぎまで眠るからだ」と別の箇所ではぐち[#「ぐち」に傍点]をこぼしている。夜行性動物のような未開生活者の生態が昼行性動物と同じような文明生活者を悩ませるのだが、大切なことは、そのボロロの広場の夜の行事が、次の日中の実務の手配からはじまることではなかろうか。生活のための労働に対する計画と手配のような準備と、歌と踊りが結びついて、ボロロの夜の行事の階梯を構成している。ボロロ族の部落は、中央に広場を持つ環状集落で、ちょうど、日本の縄文時代の姥山貝塚(千葉県市川市)の直径五十メートルの円型広場を取り囲む集落形態(1)や、南堀貝塚(横浜市港北区)の馬蹄型広場を持つ集落形態(2)やを髣髴させる形状を持っているが、その広場でストラウスのいう「明日の[#「明日の」に傍点]命令」が伝達されはじめる夜は、実は、企画・差配→舞踏→仮眠→狩猟・採取労働というリズムを持つ原始・未開生活の一日の最初の段階がすでにはじまっているのではなかろうか、と思われる。  地球の文字どおりの対蹠的な位置に住むボロロ族の生活からは、原始・未開一般の推定しか許されまい。わが国の原始のつねの日々の、夜の具体的な個性は、いまのところ推測のいとぐちもないが、もの日の夜が〈聖なる半日〉であり、その神聖な半日と白昼の間には、劇的な神々の退場がくりかえされていたらしいことだけは、考えてみることができる。ずっと後々までも、祭の夜の神々の退場の時刻は、つねに劇的であった。 [#ここから1字下げ]  湯ばやしの舞は、舞子の中でも、もっともすぐれたものから採る。しかも舞いそのものがはなやかなところから、見物が期待の的となっている。湯ばやし湯ばやしと前夜からいい暮していた舞いである。……舞いの番数もおわりに近づいて、夜もどうやら、あけてきた頃である。舞戸のすきからみえる谿むかいの山が、雪で白く光っているのも、いかにも冬の夜明らしい気持である。夜っぴて、どなりわめき踊りぬいた「せいと」の客達も、さすがに疲労したのか、人影もだいぶまばらになったときだ、長い長い「おきな」のかたりがおわって、これまでとは一種異なった壮快な拍子がおこってくる、湯ばやしの呼出しである。そら湯ばやしだと、人びとは急によみがえったように、近所の家などへもぐりこんで転寝していたらしい連中も、女も子供もわれがちにあつまってくる。 [#地付き](早川孝太郎『花祭』一九三〇年。一九五八年の岩崎書店版に拠る。) [#ここで字下げ終わり]  早川孝太郎は、三河の北|設楽《しだら》の村々の花祭の夜明けを、こういうふうに叙述することからはじめている。 [#ここから1字下げ]  だんだん次第もすすんで、竈の前の式がおわり、竈の「くろ」へうつる。釜にはあたらしく水がおぎなわれて、竈には薪がどっしりとくべられている。いまやっているのが袖しぼりだ、もうすぐ鳥とびだ、鳥とびにかかったら湯をふりかけられるぞ、そら片手湯立てだ、束子《ゆたぶさ》を湯へいれたなどと一時にうきあしだった際に、わっとあがる歓声とともに、さっとのぼるまっしろい湯けむり、なまあたたかい湯沫がもう顔へとんできた、われ勝ちに逃げる馳けだす、拍子は一層急になって、太鼓をうつ者は懸命に叩いている、四辺は狂乱の渦中である。もうもうとのぼる湯気の中を束子をかついで舞子がはしる、逃げた見物がまたひきかえしてくる。……こうして舞戸から神座へ、ありとあらゆるものが、水だらけになってしまうのである。 [#ここで字下げ終わり]  そして、いよいよ朝鬼の舞になる。「役鬼」とも呼ばれる「朝鬼」(あるいは「茂吉」ともいう)が多数の鬼を従えて登場して舞う。「いずれも異相をあらわしたもので、神または神に近いものと考えられ」ていて、鬼に対する村の人々の考え方は、「畏怖というより畏敬の方である」と早川が五年間にわたって観察した、それらの鬼たちは、「舞いの最後であり、祭りのおわりであるために、名残をおしむもののように、いつまでも舞って舞って舞いぬく」のである。本田安次の言をかりれば、「夜通しの祭の朝方になったころ、大勢の鬼がまさかりをとって出、どこともなく釜のまわりをまわっては舞い、火などをかき散らして入る」(『図録日本の民俗芸能』一九六〇年)というフィナーレである。しかも、おもしろいのは、夜中、「ハア鹿でも喰ったか、よう飛ぶな」と褒めるかと思うと、「爺しっかり摺古木《すりこぎ》をたたけ」「しっかり竹んつぼをふけ」と太鼓や笛を叱咤し、「こうみえても阿兄《にい》様などは、名古屋の黄金《きん》の鯱鉾《しやちほこ》で逆立ちをした」と舞い方に悪態をつきとおした「せいと」の客(見物)の明け方のていたらく[#「ていたらく」に傍点]であろう。早川は実に慧眼にも、こう観察している。 [#ここから1字下げ]  みんな湯ばやしの湯を頭からあびて、ちりぢりに蜘蛛の子をちらすように退散する。これが最後で、みんなつかれた顔をして村へかえるのである。あたりが明るくなっては、もう「せいと衆」の存在の意義はなかった。土地によると、夜があけても行事はまだ中途にあるが「せいと」の客は、退散しないまでも態度があらたまる。あかるくなって顔中を煤煙にしているところは、前夜の人とは別であったのも不思議である。 [#ここで字下げ終わり]  夜が明ける、ということがすべてを一変してしまう。北設楽の村々の花祭の神の明け方の退場は、神々の座からすべり落ちて、魔性の者としてだけふるまう昔話の鬼が、「和尚は一所懸命走つたが不案内の山の中ではあり、すぐに草臥《くたび》れて、間もなく鬼に追ひつかれさうになつてしまつた。和尚は困り切つて、口の中で南無阿弥陀仏と祈りながら馳けてゐると、漸う夜があけて東の山からお天道様が上つて来た。鬼は日に当つては駄目のものだから、たう/\仕方ァなくそこから引き返して行つた」(土橋里木『続甲斐昔話集』一九三六年)というふうに仕方なく逃げもどっていくのと、並べて考えることのできる、夜明けの注目すべきことがらであろう。  日本の神々は、どうも、夜のひき明けを待たずに退場しなければならないのが、伝統的なもの日のしきたりではなかったか、と考えられる。神祭りの日々である祭の季節にあっても、一日一日の夜と朝の間には、神々降臨の時間と人間たちの生活の時間のけじめがあり、その神聖なるはじめの祭りの半日と次の半日との間には、しっかりとした境界線が作られていたようである。人々の心の中には、時間はそのようなしくみで横たわりつづけ、その時間のしくみが人々の想像力の展開のしかたをまた規定していったのではなかろうか。  日本の神々の物語は、そのような原始的時間構造の制約を多分に蒙っているらしい。たとえば、『播磨《はりまの》国風土記』飾磨《しかま》郡のところに見えるオオナムチノミコトの逃走譚の最後の〈急変〉などは、どうも、その点を抜きにすると理解しにくいもののように考えられる。 [#ここから1字下げ]  昔、大汝命《おほなむちのみこと》のみ子、火明命《ほあかりのみこと》、心行甚強《こころしわざいとこは》し。ここを以ちて、父の神|患《うれ》へまして、遁《のが》れ棄てむと欲《おもほ》しましき。乃《すなは》ち、因達《いだて》の神山に到り、其の子を遣りて水を汲ましめ、未だ還らぬ以前《さき》に、即《やが》て発船《ふなだち》して遁れ去りたまひき。ここに、火明命、水を汲み還り来て、船の発《い》で去《ゆ》くを見て、即ち大きに嗔怨《いか》る。仍《よ》りて波風を起して、其の船に追ひ迫まりき。ここに、父の神の船、進み行くこと能はずして、遂に打ち破られき。この所以《ゆゑ》に、其処《そこ》を船丘と号《なづ》け、波丘と号く。琴落ちし処は、即ち琴神丘と号け、箱落ちし処は、即ち箱丘と号け、梳匣《くしげ》落ちし処は、即ち匣《くしげ》丘と号け、箕《み》落ちし処は、仍《すなは》ち箕形丘と号け、甕《みか》落ちし処は、仍ち甕丘といひ、稲落ちし処は、即ち稲|牟礼《むれ》丘と号け、冑落ちし処は、即ち冑丘と号け、沈石《いかり》落ちし処は、即ち沈石丘と号け、綱落ちし処は、即ち藤丘と号け、鹿落ちし処は、即ち鹿丘と号け、犬落ちし処は、即ち犬丘と号け、蚕子《ひめこ》落ちし処は、即ち日女道《ひめじ》丘と号く。その時、大汝の神、妻の弩都比売《のつひめ》に謂《の》りたまひしく、「悪《さがな》き子を遁れむと為《し》て、返りて波風に遇ひ、太《いた》く辛苦《たしな》められつるかも」とのりたまひき。この所以《ゆゑ》に、号けて瞋塩《いかしほ》といひ、苦《たしなみ》の斉《わたり》といふ。 [#ここで字下げ終わり]  父親がわが子の猛勇を恐れて遁走を企てる話(3)は、しばしば他の民族の伝承にも見出される、原始社会の一側面をよく写しているものである。後にヤマトタケルの伝承などになると、父親の景行天皇は、兄息子オオウスノミコトをつかみひしいで殺した、この弟息子の暴勇を恐れて、生涯、西から東へとまつろわぬ者どもの征伐に追い使い、遂にタケルを旅で死なせてしまうのだが、神話の世界では、父の神の方が子から逃げ出そうともがく。世代の交替が〈力〉(呪力と武力)の交替でしかない社会では、父子の相続もまた争奪の様相を採り、打ち倒されるものと打ち倒すものの立場をとらざるをえなかったらしい。出雲ではオオクニヌシとも呼ばれているオオナムチが、わが子を陸に水汲みにやっておいて逃げ出すこの話は、この話の中に登場するヒメジ(かいこ)の丘が、現在姫路城の聳えている丘であるために、人々に相当によく親しまれているものだが、話のなかみには時刻の指定がない。息子の神ホアカリが因達の神山に怒り狂って立ち、波を送り、風を吹きかける。父神は船上の荷を片端から投げ棄てては船脚を軽くしようとするが、ますます波風は荒い。遂に船は難破してしまった、という。ところが、この話でおもしろいのは、子の神がどんなに恨もうとも呪おうとも、父神は船は破られたが、結局身ひとつで逃げのびたのであり、子の神もその父に追及することはできなかった点である。また、オオナムチ・妻のノツヒメ・子のホアカリ、神々はみな事件の後も健在で石に化したりはしない。そして、それらの神々が事を終えて立ち去った後に、神々にゆかりの物ばかりは、難破船は船丘となり、波までも波丘となるという形で、さながらに山々と化して残っていくのである。すべての状況は、死にものぐるいで遁走するオオナムチの難破の一瞬で、永遠に停止してしまっている。  日本の神話がしばしば採る、この最後の瞬間の永久固定化という想像の仕方を、わたしはかねがねいぶかっていた。なぜ、そういうことになるのか。なお断定は許されないけれども、神々の時間であった夜が明け放たれ、時間切れの神々が退散していった後の朝の風景の中で、神々の時間に語られ演じられた伝承の残像を見出そうとする心の営みが反覆されてきて、このような想像の方式が形成され、固定していったのではなかったろうか。わたしは、いまはそう考えている。すなわち、原始社会の人々の心の中に共通に横たわっていた時間様式、異質な夜と朝の連続としての一日の構造が、かれらの想像力を制約し、その想像の展開の仕方を規定する作用をした。その結果、黎明の一刻のふたつの異質な時間のはざま[#「はざま」に傍点]で体験しつづけた心の衝撃が、神々の物語の最後のクライマックスでの、大団円直前の中止・永遠の凝固という特色ある想像を生む。やがて、社会構造は変り、歴史は新しい段階に歩み出たが、そのような想像の社会的基盤(生活と人々の心の営み)を喪いながら、想像のひとつのパターンとして、そこで養われた想像のあり方が、独自に強力に生きつづけていく——そういうことになっているのではないだろうか。 [#ここから1字下げ]  付記 こういう歴史的事実は、もっともっと多くの事例をあげ、つぶさに精細な検討を加えつつ論定されなければならないが、いまはいそいで予報的にその大筋を報告するにとどめたい。同時に、わたしは、後代に残留したさまざまの断片を組み立てつつ、しだいに原始の日本人の心の中にもどっていき、そこで第一次の形成を体験した、民族の想像力のなかみを調べ上げる、想像力史研究の前途は、やはり困難きわまるもので、楽観を許すひとつのよりどころもないことを痛感しているとも、付け添えて報告すべきであろう(4)。 [#ここから2字下げ、折り返して4字下げ] (1)和島誠一「原始聚落の構成」(東大歴史学研究会編『日本歴史学講座』一九四八年) (2)岡田清子「南堀原始集落の発掘」(『歴史地理教育』一九五五年一一月)。『横浜市史』第一巻、一九五八年。 (3)『出雲国風土記』大原郡海潮郷の条にも、ウノジヒコノミコトが、父のスミネノミコトを恨んで、高潮を起こして苦しめた、という話が見える。 (4)残留文化を検討してはるかな前代を推測しようとする倒立立証法は、従来神を立証するために、ないしは神への信仰の内容を立証するために用いられることが多かった。わたしは、それを人間、特に見えざる人間の想像力の内容を立証するためにもっと利用したい、と考えている。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]  幻 視——原始的想像力のゆくえ——    原始の眼  幻視の眼ははりつめた心にささえられている。その眼に見えるもの以上のものを、幻視者の心は見ていた。 [#ここから1字下げ]  天に響《とよ》む大主  明けもどろの花の  咲いわたり、あれよ  見れよ、きよらやよ  地天響む大主  明けもどろの花の  咲いわたり、あれよ  見れよ、きよらやよ [#地付き](『おもろさうし』七の三五) [#ここで字下げ終わり]  祭の夜の終わりに、沖縄の巫女《ノロ》たちは、水平線のかなたから天に鳴り響《とよ》もして上ってくる、太陽《アガリ》の大神《オオヌシ》の姿を拝したのだった。その黒点をみつめて、くるめく眸に、「明けもどろの花」——五彩の暁光のもどろ[#「もどろ」に傍点](混沌、本土の「しどろもどろ」の「もどろ」と同じ系列の語)が、空いっぱいの大輪の花のイメージとなって重なってくる。見よ。なんという美しさ。——「咲いわたり、あれよ!」  さし上る朝日|子《ご》に光と音[#「音」に傍点]のカオスを感じとるノロたちは、そこに神の姿をみ、大空の花を見る。まだ沖縄全島が統一される以前の、地方ごとに按司《あんじ》が割拠していた三山時代から伝わってきた唄《オモロ》とみられるこの歌には、沖縄の古代の心が生きている。 [#ここから2字下げ]  ゑ、け、あかる 三日月や  ゑ、け、かみぎや、かなまゆみ  ゑ、け、あかる あかぼしや  ゑ、け、かみぎや かなままき  ゑ、け、あかる ほれぼしや  ゑ、け、かみか、さしくせ  ゑ、け、あかる、のちくもは  ゑ、け、かみか まなききおび [#地付き](『おもろさうし』一〇の二四) 〔あれ! あがる三日月は  あれ! 神のかな真弓  あれ! あがる赤星は  あれ! 神のかな細矢  あれ! あがる群れ星は  あれ! 神のさし櫛  あれ! あがる横雲は  あれ! 神の愛御帯《まなみおび》〕 [#地付き](仲原善忠『おもろ新釈』) [#ここで字下げ終わり]  夜の海上を漕ぐ船人たちも、漆黒の空に神の弓矢を、神の櫛を、帯をみて、讃嘆する。その眼に映じている三日月や宵の明星(あかぼし)の姿が、ありのままに見えないのではない。横雲は横雲——しかし、同時に、かれらの眼は、そこに神の愛用の美しい帯を現に見てもいる。その背後の空に、かれらが、頭に刺し櫛、腰に帯をし、左右の手に弓と矢を持つ、巨大な神の像を見たかどうかしらないが、現に神の身に添うそれらの品々は、空に懸っている。物を物そのものとしてみ、また、信仰の上でのイメージにおいてみる。二重構造の視覚、それは原始以来の眼であった。夜の視覚でもあった。  本土にも、かつて、同じ二重構造の視覚を持った人々がいた。『風土記』の出雲《いずも》の神門《かむど》郡の人々は、やはり「天《あめ》の下作らしし大神」オオナムチの所持品を、その眼でありありとみていた人々であった。 [#ここから1字下げ]  宇比多伎《うひたき》山 郡家《こほりのみやけ》の東南《たつみ》のかた五里五十六歩なり。大神の御屋なり[#「大神の御屋なり」に傍点]。  稲積山 郡家の東南のかた五里七十六歩なり。大神の稲積なり[#「大神の稲積なり」に傍点]。  陰山 郡家の東南のかた五里八十六歩なり。大神の御陰なり[#「大神の御陰なり」に傍点]。  稲山 郡家の東南のかた五里一百一十六歩なり。東《ひむがし》に樹林《はやし》あり。三つの方は竝びに礒《いしはら》なり。大神の御稲種なり[#「大神の御稲種なり」に傍点]。  桙《ほこ》山 郡家の東南のかた五里二百五十六歩なり。南と西とは竝びに樹林あり。東と北とは竝びに礒なり。大神の御桙なり[#「大神の御桙なり」に傍点]。  冠《かがふり》山 郡家の東南のかた五里二百五十六歩なり。大神の御冠なり[#「大神の御冠なり」に傍点]。 [#地付き](『出雲国風土記』神門郡) [#ここで字下げ終わり] 『風土記』の世界は、神々の伝承の記念物の実在する世界であり、伝承を構成する呪術的原始的幻想が、現に眼に見える物として、その一部分を顕現していなければならないとりきめが生きていた。伝承は、そのかみのことがらの、事実としての伝承であったが、伝承の権威は、伝承に関連する数々の証拠が、厳然としていまここにあるがゆえに、ゆるぎないのであった。南島の神歌《オモロ》の世界のように、出雲の人々は、そこに天の下作らしし大神の御桙を、ここに大神の御冠をみる。時間は眠っている。時は過ぎ去らない。時がいっさいを押し流す、というような思考法と異る、信じて受ける者の心の働きがそこにあった。神がかる者の眼、神語《かむがたり》を信じて受ける者の眼、それは相寄って、幻想を外在する物で保証していく作用をもっていた。そういう外在物の媒介なしでは展開しにくいところが、呪術的原始的幻想の個性でもあった。  大和で、天《あめ》の石屋戸《いわやと》の前のアメノウズメノミコトが、「天の香《かぐ》山の天の日影をたすきに繋《か》けて、天の真拆《まさき》を鬘《かづら》として、天の香山の笹葉を手草にゆひて」空笥《うけ》をとどろに踏み鳴らし、胸乳《むなち》掻き出で、裳紐《もひも》を陰《ほと》に押し垂れて踊った、と語られるがよい。そのイメージは鮮烈で、具象的に聞く人々の脳裏に焼きつけられる。かれらが、高天が原の天の香山[#「高天が原の天の香山」に傍点]の地上に降った一分身である、大和の天の香久山[#「大和の天の香久山」に傍点]をその眼で見得る人々であり(『伊予国風土記』逸文、『釈日本紀』所引)、さらに、アメノウズメノミコトの子孫と信じている、猿女《さるめ》の君たちでさえあるからである。オモイカネノミコトの子孫たち、イシコリドメノミコト・タマオヤノミコト・アメノコヤネ・フトダマ・アメノタジカラオの子孫たち、……。神話に登場するかぎりの高天が原の神々の子孫たちが、眸を輝かせ、耳をそばだてて現にそこにある。高天が原のイメージはそういう現実の保証をもって、あくまで具体的イメージたりうる。  それに比べれば、平安期のかなもじの物語は、神々を見失った者たちの根のないフィクションにすぎない。その意味では、幻想の現実性・具象性を欠く。物語の語り手たちは、登場人物である神々ともどもに、そうした幻想外在化の方法をも見捨てていったのである。事実としての伝承でない新たな空想は、その細部を形あることば(消え去らないことば)=文字によって保証されようとする。|幻 想《イマジネーシヨン》の内在化といってもよい。空想の細部を一々具象化し、それを足がかりに次の空想の部分が展開するのは、ただ文字記号に助けられてである。もはや、イメージを、外物とかかわりあい外在化させつつ、顕然と展開していく方途はない。語り手と読み手とがおのもおのもに、文字によって、内面にイメージを築いていくほかないのである。そらごとは人々の内部世界で展開する。内面にのみ閉じ籠って展開する想像力の時代になっていく、ともいえよう。    晴れのイメージ  かつて、B・マリノウスキーは、メラネシアのトロブリアンド群島の未開民族の知性についてこう述べた。 [#ここから1字下げ]  彼等(メラネシア人たち)は最も幼稚な道具の、尖つた掘鑿杖や小さな斧を用ゐて、稠密な人口を支持するに充分な収穫を獲得し、なほ剰余をさへ挙げることが出来る。……農業に於ける此の成功は、恵まれた良好な自然的条件もさること乍ら、又土壌の種類や、種々の栽培植物や、此の両因子の相互的適応性についての広汎な知識と、更には適確な勤労努力の重要性に対する、彼等の知識によるのである。彼等は土壌と実生を選ばなければならず、又叢を取除いて焼き、植附けと除草をなし、山芋の蔓を這はせるために、適当に時期を選定しなければならない。これらの凡ての事柄に於いて、彼等は天候と季節、苗と害物、土壌と球根、等に関する明確な知識と、又この知識は真実で信頼に足るものであり、当てにすることが出来るから、従つて、慎重に従はれなければならない、といふ確信とに導かれるのである。  にも拘らず、彼等の凡ての活動に混り合つて、必ず呪術が、即ち毎年厳重な次第順序に従つて、畑に対して営まれる一連の儀礼が、見出される。畑仕事の指導は呪師の握るところであり、儀礼と実際的作業が密接に結合してゐるために、皮相な観察者は、神秘的態度と合理的行動とが混り合つてをり、それらの効果は土人によつて識別されず、又科学的分析に於いても弁別し難いものである、との仮定に導かれるかも知れない。これ真に然るであらうか。  呪術は確かに土人達によつて、畑の福利のために、絶対欠く可からざるもの、と認められてゐる。呪術を行はなければどうなるか、といふことは、誰人も語ることが出来ない。……  若し諸君が土人に、畑を作るのに主として呪術でやり、仕事はいい加減にすべきだ、等と暗示でもしやうならば、彼れは只、諸君の単純さを、微笑で迎へるに決つてゐる。彼れは諸君と同様に、自然的条件と原因があることを知つてをり、又これらの自然力を、精神的肉体的努力で統御し得ることを、観察によつて、弁へてゐるのである。勿論、その知識は狭いものではあるが、その範囲に於いて、健全で、神秘主義に陥らないものである。若し垣が崩れたり、種が壊れるか、乾いたり流れて了つたりしてゐる場合、彼れは呪術に訴へないで、知識と理性に導かれて、労働に依頼するであらう。然るに、他方では又、彼れの経験は、彼れの予めの慮りにも拘らず、又その努力をも超えて、因力と力があり、それが或る年は雨と日照りが時を得、害虫は影をひそめ、秋には山のやうな収穫があがる、といふ風に、万事をうまく滑らかに運ばせて、常にない、思ひがけぬ恩沢を賚《もたら》すが、他の年にはその同じ力が、不運や不仕合を賚し、徹頭徹尾彼れに附き纏つて、彼れの不撓不屈の努力と、根拠の最も確実な知識とを、失敗に帰せしめることを教へたのである。これらの力を、而して唯これらの力丈けを、支配するために、蛮人は呪術を用ゐるのである。  かくしてそこに、截然たる区別が存在する。先づ生長の自然過程や、囲墻とか除草によつて避けらるゝ、普通の有害物と危険の如き、よく知られてゐる諸条件の一組があり、他方には、説明することの出来ない逆行勢力や、幸運な偶然の、思ひもよらぬ、大きな儲けの如き領域がある。第一の条件に対しては、知識と労働とが拮抵し、第二に対しては、呪術を以てするのである。 [#地付き](B・マリノウスキイ、松井了穏訳『原始民族の文化』) [#ここで字下げ終わり]  わたしたちの祖先の場合も同様であろう。かれらの幻視の眼は呪術的・神話的信仰からきているが、もとより、見るものすべてが、見るごとにそう見えるのではない。 [#ここから1字下げ]  飯盛嵩《いひもりだけ》 右、然か号《なづ》くるは、大汝命《おほなむちのみこと》の御飯《みいひ》を、この嵩《たけ》に盛りき。故《かれ》、飯盛嵩といふ。  粳《ぬか》岡 右、粳岡と号くるは、大|汝命《の》、稲を下鴨の村に舂《つ》かしめたまひしに、粳《ぬか》散りて、この岡に飛び到りき。故《かれ》、粳岡といふ。 [#地付き](『播磨国風土記』賀毛郡) [#ここで字下げ終わり]  かれらが褻《け》の日の日中、野に出て仰ぐ山は樹木の茂った山そのものであり、山以外ではない。しかし、晴れの日の祭の庭では、それは神々の世界の舞台・道具立てとなる。祭の庭のかがり火の傍から、月明の夜空に浮かび出る山々のシルエットを望み見る時、かの山は、まぎれもなく、オオナムチの神の握り飯であり、この山は、同じ神が舂かせた米の糠の堆積となる。幻視は、晴れの日の祭の庭の心の神秘が生むイメージであり、それゆえに、けの日のものごとのイメージ、かれらの生活体験に基く認識と、せめぎあうことはなかった。時間としては、それは夜に属するものであった。 『日本書紀』には、神武天皇が、大和平定に苦闘中、敵の聖地|天《あめ》の香山《かぐやま》の埴土《はに》を盗んでこさせて|八十平※[#「公/瓦」、unicode74EE]《やそひらか》を作り、さまざまな呪祷を試みるくだりに、こういう箇所がある。 [#ここから1字下げ]  時に道臣命《みちのおみのみこと》に勅《みことのり》すらく、今|高皇産霊尊《たかみむすびのみこと》をもちて、朕《われ》、みづから顕斎《うつしいはひ》をなさむ。汝をもちて斎主《いはひのうし》として、授くるに厳媛《いつひめ》の号《な》をもちてせむ。しかして、その置ける|埴※[#「公/瓦」、unicode74EE]《はにべ》を名づけて|厳※[#「公/瓦」、unicode74EE]《いつべ》となし、又火の名をば厳香来雷《いつのかくつち》となし、水の名をば厳罔象女《いつのみづはのめ》、粮《くらひもの》の名をば厳稲魂女《いつのうかのめ》となし、薪の名をば厳山雷《いつのやまつち》となし、草の名をば厳野椎《いつののつち》となしたまふ。冬|十月《かみなづき》癸巳《みづのとみ》の朔《つきたち》、天皇、その厳※[#「公/瓦」、unicode74EE]の粮《をもの》を嘗《な》めたまひて、兵をととのへて出でたまふ。 [#ここで字下げ終わり]  そして、はたせるかな、国見の丘でヤソタケルを撃破し、大勝を博した、という。出陣前の祭の庭では、男性のミチノオミノミコトも、神主としては、イツヒメと女性の巫女でなければならず、火はカクツチ、水はイツノミズハノメ、食物はイツノウカノメ、薪はイツノヤマツチ、草はイツノノツチというふうに、みな神的存在となる。祭の庭は神々の世界とならねばならない。ひとたびはれの日の祭の庭に立つと、すべてが変ってくる。呪術者の眼は、すべてのもの・すべてのことに、霊力の存在を察知するのである。  祭の庭では、祭具のひとつひとつが神格をもつ、——薪がイツノヤマツチとあがめられ、草がイツノノツチとあがめられる。とすれば、逆に、たとえば、同じ『書紀』の、アマテラス大神《おおみかみ》の天《あま》の石窟《いわや》隠れの条の「一書」の、諸神が石窟の前につどうところに、 [#ここから1字下げ]  時に、もろもろの神《かみたち》、憂へて、すなはち鏡作部の遠祖《とほつおや》、天糠戸者《あまのあらとのかみ》をして、鏡を造らしむ。忌部《いむべ》の遠祖太玉には幣《にぎて》を造らしむ。玉作《たますり》部の遠祖豊玉には玉を造らしむ。また、山雷者《やまつち》をして、五百箇《いほつ》の真坂樹《まさかき》の八十玉籤《やそたまくし》を採らしむ。野槌者《のつち》をして、五百箇の野薦《のすず》の八十玉籤を採らしむ。 [#ここで字下げ終わり] とある「山雷者をして、五百箇の真坂樹の八十玉籤を採らしむ」は、いま諸註釈がそう考えているように、ヤマツチという山の神がこういうことをした、というのではなくて、榊《さかき》の玉串そのものがヤマツチなのではないか、と考えられる。草がノツチ(野の神)ならば、ノツチが草であってよいはずで、「野槌者をして、五百箇の野薦の八十玉籤を採らしむ」も、すず[#「すず」に傍点](すず竹)の玉串そのものがノツチと考えられる。だから、実際としては、榊の玉串とすず[#「すず」に傍点]の玉串が用意された、というだけの意味ではなかろうか(「AがBを作った」が、実際は「AであるBがある」という意味でしかない、ということになる)。神話の細部描写をささえているものに、こういうはれの祭祀の場での想像の方法がある、といいうる。神聖な竹がノツチであるのが、祭式・儀礼の論理であり、その上に立って、「神聖な[#「神聖な」に傍点]竹の玉串がある[#「ある」に傍点]」事実を「ノツチが[#「ノツチが」に傍点]竹の玉串を作った[#「作った」に傍点]」と、歴史叙述的に発想するのが神話の論理である、というふうにいえるかもしれない。    神話的叙述  原始の呪術的想像力は、認識と表現に関してこのような特異性を持っていた。それ自体が、本来、広義の呪術の一領域でもあるはずの神話は、呪術的でありつつ、その想像力のあり方において、呪術の実際儀礼を越えようとするものを内蔵し、より旺盛な想像の世界であった、といえそうである。 『古事記』は、サルダビコの神の天孫降臨に際しての先導の功を語った後にこういう。 [#ここから1字下げ]  故《かれ》、その|※[#「けものへん+爰」、unicode7328]田畏古《さるだびこ》の神、阿邪訶《あざか》に坐《ま》す時、漁《いざり》して、比良夫《ひらぶ》貝にその手を咋《く》ひ合はさえて、潮《うしほ》に沈み溺れたまひき。かれ、その底に沈みゐたまひし時の名を底度久《そこどく》御魂《みたま》といひ、その潮の泡《つぶ》立つ時の名を都夫多都《つぶたつ》御魂といひ、その沫裂《あわさ》く時の名を阿和佐久《あわさく》御魂といふ。 [#ここで字下げ終わり]  ヒラブ貝とは何貝か、もう現在ではわからないが、この溺れかけたサルダビコの伝承には、天孫降臨の際、天の八衢《やちまた》に立ちはだかっていた巨人の神サルダビコというより、南方《みなかた》熊楠が内外の類話を挙げて指摘したように、浜に遊びに出て貝に手を出してはさまれた、野猿の姿を思わせるものがある(「猴に関する伝説」『十二支考』所収)。松村武雄は、サルダビコを漁民の氏族の神とみており、その祭儀に神が海に溺れてあやうく助かる所作があった、と推測している(『日本神話の研究』第三巻)。それはそれとして、わたしがこの話に注目したく思うのは、そこに残っているひとつの古い思考法のおもかげである。サルダビコの底著《そこど》く姿、水底で貝に手をはさまれてもがいている時が、ソコドクミタマという御魂、すなわちひとりの神であり、やっと貝から手を抜いて、海の中ほどで泡を吹いて上昇している姿は、ツブタツミタマ、その泡が水面に浮かび出て割れる時のサルダビコは、アワサクミタマと呼ばれている。水中でもがいている神の三態が、そのまま三種の神の名となる。  神が行動すれば、その状態ごとに次々と命名されていく。次々と別の名の神を呼び上げていくことが、ひとりの神の行動の変化・状態の変化の描写である——三神が一柱《ひとはしら》であり、一柱が三神である。そういう神話の語り方が、かつてあったらしい。もっといえば、ソコドク→ツブタツ→アワサクと次々に列挙される神の名が、実は変化していく一連の状態の形容[#「一連の状態の形容」に傍点]そのものなのである。  こういう神話叙述の論理によって読み解くと、『古事記』の神代の巻の各処に延々と展開されている神々の系譜が、ごく少しずつわかってくる。たとえば、スサノオには、ヤマタの大蛇《おろち》の犠牲《いけにえ》候補者だったクシナダヒメとの間に生まれたヤシマジヌミの神があり、オオヤマツミの神の娘カムオオイチとの間に生まれたオオトシの神、ウカノミタマの神があり、さらに他の多くの妻との間に子の神々があったという。それを述べてから『古事記』は、そのひとりであるオオナムチ(オオクニヌシ)の神の伝承に入り、その神の子孫たちのことを語り、さらにオオナムチのスクナビコナとの共業である出雲統一について物語る。それから、なぜか、突如、オオトシの神にもどって、その系譜を綿々と述べるが、それはそれで終わり、地上に降されたスサノオの側の叙述から転じて、高天が原のアマテラスの物語にもどっていくことになっている。このオオトシの神の系譜叙述などは、それが全体に対して、いったい、どのような意味をもつものか、にわかには理解できない、介在物である。 [#ここから1字下げ]  故《かれ》、その大年の神、神活須毘《かむいくすびの》神の女《むすめ》、伊怒比売《いのひめ》を娶《め》して生める子は、大国御|魂神《の》。次に韓《からの》神。次に曾富理《そほりの》神。次に白日《しらひの》神。次に聖《ひじりの》神。また香用比売《かよひめ》を娶して生める子は、大香山戸臣《おほかがやまとおみの》神。次に御年神《みとし》。また天知迦流美豆比売《あめちかるみづひめ》を娶して生める子は奥津日子《おきつひこの》神。次に奥津比売《おきつひめの》命、またの名は大戸比売《おほべひめの》神。こは諸人《もろひと》のもち拝《いつ》く竈《かま》の神ぞ。次に大山咋《おほやまくひの》神、またの名は山末《やますゑ》之大主の神。この神は近淡海《ちかつあふみの》国の日枝《ひえ》の山に坐《ま》し、また葛野《かづの》の松の尾に坐して、鳴鏑《なりかぶら》を用《も》つ神ぞ。次に庭津日《にはつひの》神。次に阿須波《あすはの》神。次に波比岐《はひきの》神。次に香山戸臣《かがやまとおみの》神。次に羽山戸《はやまとの》神。次に庭高津日《にはたかつひの》神。次に大土《おほつちの》神。またの名は土之御祖《つちのみおやの》神。九神《ここのはしら》。   上《かみ》のくだりの大年の神の子、大国御魂の神|以下《よりしも》、大土の神|以前《よりさき》は、あはせて十六神《とをまりむはしら》。  羽山戸の神、大気都比売《おほけつひめの》神を娶して生める子は、若山咋《わかやまくひの》神。次に若年の神。次に妹|若沙那売《わかさなめの》神。次に弥豆麻岐《みづまき》の神。次に夏高津日の神、またの名は夏之売《なつのめの》神、次に秋比売《あきひめの》神。次に久久年《くくとしの》神。次に久久紀若室葛根《くくきわかむろつなねの》神。   上のくだりの羽山の子|以下《よりしも》、若室葛根|以前并《よりさきはあは》せて八神《やはしら》。 [#ここで字下げ終わり]  この出雲の神統譜は、『新約聖書』の「第一福音書」の冒頭のイエス・キリストの系図、 [#ここから1字下げ]  アブラハムはイサクの父であり、イサクはヤコブの父、ヤコブはユダとその兄弟たちとの父、ユダはタマルによるパレスとザラとの父、パレスはエスロンの父、エスロンはアラムの父、アラムはアミナダブの父、アミナダブはナアソンの父、ナアソンはサルモンの父、サルモンはラハブによるボアズの父、ボアズはルツによるオベデの父、オベデはエッサイの父、エッサイはダビデ王の父であった。…… [#地付き](「マタイによる福音書」) [#ここで字下げ終わり] を思い浮かべさせるように長たらしい、一読するにも根気のいる叙述である。そして、それが神々の名の羅列以上のどういう意味を持つものか、その神々がどういう機能を負う神かも、多くはまだ判明していない。しかし、最後のハヤマドの神以下の一節について、上田正昭の『神話の世界』が、「この神名は、若年というのが稲と関係あり、沙那売《さなめ》というのが田植の女という意味であり、弥豆麻岐《みずまき》というのは、水播きであり、夏・秋というのも水田農耕と関係の深い神名であることを思えば、こうした神々の発生の場が、農耕生活をぬきにしては不可能であることが理解される。しかも、こうした神名の展開の中に、農耕の経過とその神を生みだす農耕の祭りのあったことを想像させるのである」と指摘していることは重要である。  神統譜的な神の名の列挙は、単なる系図|誦《よ》みではあるまい。たとえば、やはり『古事記』が、イザナミの神の死をこう物語っている。 [#ここから1字下げ]  次に火之夜芸速男《ひのやぎはやを》の神を生みき、またの名は|火之※[#「火+玄」、unicode70AB]毘古《ひのかがびこ》の神といひ、またの名は火之迦具土《ひのかぐつちの》神といふ。この子を生みしに因りて、陰灸《みほとや》かえて病み臥《こや》せり。嘔吐《たぐり》に生《な》れる神の名は金山毘古《かなやまびこの》神、次に金山比売の神。次に屎《くそ》に成れる神の名は波邇夜須毘古《はにやすびこの》神。次に波邇夜須毘売《はにやすびめの》神。次に尿《ゆまり》に成れる神の名は弥都波能売《みつはのめの》神、次に和久産巣日《わくむすびの》神。この神の子は、豊宇気毘売《とようけびめの》神といふ。故《かれ》、伊邪那美《いざなみの》神は、火の神を生みしに因りて、遂に神避《かむさ》りましき。 [#ここで字下げ終わり]  この中のミツハノメの神というのは、前に引いた「神武紀」のミチノオミノミコトが出陣予祝の祭をしたくだりで、祭の庭では水の名をイツノミズハノメとした、というミズハノメである。水はミズハノメであるという祭式・儀礼の論理を援用して、この神話の「次に尿に成れる神の名は弥都波能売の神」という条は、イザナミの悶え死のおりの尿が、その後、人々が生活上欠かせない水になった、という意味に理解できよう。同じやり方で、火の神を生んで、金《かね》の神をへど[#「へど」に傍点]に吐き、埴土《はに》の神をくそまり、水の神を尿《しと》して、次に若々しい生産力の神(ワクムスビ)を生んだ、その神の子が食糧の神だ、という伝承全体を、火・金・土・水が次々に出現して、生活の豊饒がもたらされる、という寓意性に満ちたものと見てよいだろう。わたしの胸裏には、最上流に火の神の山(火山)があり、金山の神の砂鉄《かんな》流しやふいご[#「ふいご」に傍点]での熔鉱がその麓で行なわれ、中流では、埴安《はにやす》の神の主宰で、埴土《はに》を掘り、川の水を汲み上げてこねる土器作り、さらに下流では、水の神や農業の神が主宰する豊饒な稔りの田畑のイメージが、展開してくる。わが国の原始社会では、〈神の死〉が人間生活の重要資源をもたらした、という思想があって、高天が原を追放されたスサノオが食物をオオゲツヒメに乞うた時、この女神が鼻・口また尻からくさぐさの食品を取り出して調理したため、立腹して斬り殺すと、その屍の頭《かしら》に蚕、二つの目に稲種、二つの耳に粟、鼻に小豆《あずき》、陰《ほと》に麦、尻に大豆が生じた、これをカミムスビの神が採って種子とした、という話も『古事記』に見える。ここでも火の神を生んで死になんなんとして、イザナミが金、土、水を次々に排出して悶え死ぬのであるが、その火・金・土・水のイメージが次々に重なっていくと、『書紀』では「稚《わく》産霊《むすび》」と書いているような、豊饒のイメージが次には飛び出してくるのである。  Aの神の次に、Bの神が生まれ、次にCの神が生まれた、という神話の叙述が、A、B、Cのイメージが合して作り出す、状況の進展のイメージを語るものである、ということが、ここからもいえよう。西欧の方式と異る日本の神話の方式を探ろうとするならば、神々の系図を語ることがこの地上のものの発生の歴史を語ることになる、という日本の神話叙述の一方式を、わたしたちが認める必要がある。それは、いかにして、なぜ発生した、という説明には力をかけない。次になにの神が生まれ、次になにの神が生まれた、そういうだけで表現しぬこうとするのである。  そして、そこからすぐ次に考えてみたくなる問題は、そういう方式に貫かれた神々の伝承に対して、一方、そうではない神々の伝承がある、ということでもある。それらの間の関係はなにを意味するのであろうか。    幻視的創世記と非幻視的創世記  原始社会の呪術的想像力は、実に長い間、原始文化の中で大きな機能を果たしていたようである。しかし、呪術的想像力が、呪術的祭式・儀礼にのみ奉仕し、それ自身の発展を持つことがなかったならば、文学の歴史は現在とはよほど異るコースをたどったのであろう。だが、人びとは、呪術的祭式儀礼の中で、その必要以上にゆたかに想像力を展開していったらしい。『古事記』冒頭の、四種類の創世神話を比較しながらみていくと、そのことが強烈に感じられる。 『古事記』の開巻第一の神話は、周知のように天地初発の時、まず天の中心である神とふたりの生産力の神の三種の抽象神が出現した、という記事である。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] (A)天地《あめつち》初めて発《ひら》けし時、高天《たかま》の原に成れる神の名は、天之御中主《あめのみなかぬし》の神。次に高御産巣日《たかみむすひ》の神。次に神産巣日《かみむすひ》の神。この三柱の神は、みな独り神と成りまして、身を隠したまひき。 [#ここで字下げ終わり]  このような抽象神の構想は、原始社会では、自然神よりも人格神よりも、最も新しい段階のものである。一連の伝承のように綴り合わされた本来別根の、四種の創世神話の中で、このはじめのものが、いちばん新品であることは、すでに知り抜かれている。これら天地初発の三神は、『日本書紀』側の天地初発の三神(国常立尊《くにのとこたちのみこと》、国狭槌尊《くにのさつちのみこと》、豊斟渟尊《とよくむぬのみこと》)とともに、後代、実際に神としては、ほとんど祭られていない。この三神の神統譜が、具体的ななにほどのイメージを伴うものでもないのに対して、その次に出されている神統譜は、接するものに、なまなましいイメージを呼び起こす力を持っている。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] (B)国|稚《わか》く浮きし脂《あぶら》のごとくして、くらげなす漂へる時、葦牙《あしかび》のごとく萌えあがる物によりて成れる神の名は、宇摩志阿斯訶備比古遅《うましあしかびひこぢの》神、次に天之常立《あめのとこたちの》神。この二柱の神もまた、独り神となりまして、身を隠したまひき。 [#ここから1字下げ]  上のくだりの五柱(アメノミナカヌシの神以下の)の神は、別《こと》天つ神。  次に成れる神の名は、国之常立《くにのとこたちの》神、次に豊雲野《とよくものの》神。この二柱の神もまた独り神となりまして、身を隠したまひき。  次に成れる神の名は、宇比地邇《うひぢにの》神、次に妹須比智邇《いもすひぢにの》神。次に角杙《つのぐひの》神、次に妹|活杙《いくぐひの》神。次に意富斗能地《おほとのぢの》神、次に妹|大斗乃弁《おほとのべの》神。次に於母陀流《おもだるの》神、次に妹|阿夜訶志古泥《あやかしこねの》神。 [#ここで字下げ終わり]  アメノトコタチ・クニノトコタチ、すなわち天上や地上に永遠にいます神というような抽象観念を表わす神が、アメノミナカヌシ、すなわち天上のまんなかの神という抽象神などとともに、神としては遅れて成立したものであることは疑えないから、一応、後からの挿入として除外するとしてもよいだろう。これは、外見的には、ウマシアシカビヒコジの神、次にトヨクモノの神、次にウヒジニ・スヒジニの一組の神、次に……といった単なる神々の系譜でしかない。が、子細に見ると、そうではない。ウマシは讃美のことば、ヒコジは男性の長老への敬称「彦舅《ひこぢ》」、だから、最初のウマシアシカビヒコジの神にしても、「葦牙《あしかび》のごとく萌えあがる物によりて」できたのではなく、実は角ぐむ葦の芽、アシカビそのものの神格化以外のなにものでもないことがわかる。「天地のはじめ、陸地がまだ若く、くらげのように漂っていた時、一本の葦の芽の神が頭をもたげたよ」——そういう原始の自然物に神を見る心、国土の草創期を早春の水辺の姿で夢みる、幻視者の眼の所産といえるのではなかろうか。それを、その眼を失った古代の史家が、「葦芽のごとく萌えあがる物によりて[#「ごとく萌えあがる物によりて」に傍点]成りませる神」と解釈したのであった。そういう新解釈以前にもどそう。赤児の指のようなういういしい葦の角のもたげ、原始の詩情がそこに息づいているではないか。  トヨは神聖な物に冠する語、クモはとろとろとしたカオスの状態をいう。ヒジは泥、ニは赤土。ウヒジニ・スヒジニは一双の泥土の神であろう。イクは生命力のみなぎりを讃える語。杭は、静岡市登呂の弥生時代の水田址が教えてくれたような、弥生人が湿泥地の泥と戦って耕地を作り出すための新鋭の農業土木の武器である。登呂では、大きな杉の割り杭を、びっしりと一列、もしくは向かい合った二列に並べて打ち込み、水路を構築したり、間に土を盛って水田を囲い込む畦道を作って、湿泥地の排水をはかったりした跡が、発見されている。さらに同じような弥生時代の割り杭・割り板の列は、その後、静岡県韮山町の山木遺跡(後藤守一『韮山村山木遺跡』)、同宮下遺跡(斎藤宏「韮山町宮下遺跡発掘調査概報」『静岡県埋蔵文化財要覧㈵』所収)や滋賀県能登川町葦刈の琵琶湖湖底遺跡(和島誠一「弥生時代社会の構造」『日本の考古学㈽』所収)、さらに登呂遺跡の地つづきでも(長田実・望月董弘「静岡市登呂遺跡水田跡発掘調査概報——登呂遺跡第 6 次発掘調査概報——」『静岡県埋蔵文化財要覧㈵』所収)見つかった。オオトは大地、その男女一双の神がオオトノジ・オオトノベ。オモダルは面足る、すなわち形の完成をいい、アヤカシコは「ああ、かしこ」の讃嘆の叫びであろう。大地の完成の形容も、讃美の声も神とならねばならない。 「角ぐむ葦の芽が頭をもたげた。とろとろの状態の広いところに、一つ二つと泥土地帯が姿を現わし、杭が打たれて、排水がなり、大地はみごとに完成した。おお、尊いかぎり。壮大な大地の誕生よ」——神々の名を次々に呼び上げながら、その眼の中には、弥生時代以降の原始社会の共同の耕地造成の事業のプロセスに模した、国土の創生期の歴史を描いている。このような伝承の特異なあり方が、ここに潜んでいるのである。神統譜の単なる神名の羅列展開が、それとまるで異なる大地創造のプロセスのイメージの展開をささえている、幻視の二重構造性は、一方で、自然のアニマ(霊力)を、一方で自然現象そのままを同時に把握認識する、自然神崇拝時代の祖先たちの心の営みを背景に持っており、その次に来る人格神イザナキ・イザナミの国生みの伝承よりも、段階的にはより古いタイプのものであることが、ほぼ疑えない。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] (C)ここに天《あま》つ神もろもろの命もちて、伊邪那岐命《いざなきのみこと》、伊邪那美命《いざなみのみこと》、二柱の神に、「この漂へる国を修め理《つく》り固め成《な》せ」と詔《の》りて、天沼矛《あめのぬぼこ》を賜ひて、言依《ことよ》さしたまひき。故《かれ》、二柱の神、天《あめ》の浮橋に立たして、その沼矛を指《さ》し下して攪《か》きたまへば、潮《しほ》こをろこをろに攪き鳴《な》して引き上げたまふ時、その矛の末《さき》よりしただり落つる潮、累《かさ》なり積もりて島と成りき。これ淤能碁呂《おのごろ》島なり。 [#ここで字下げ終わり]  これは、太平洋諸島の諸民族の伝承にも多くみられる、人間の始祖が海底から島を釣り上げて、住む場所を作った、という〈島釣り〉創世説話のタイプに属するものである。『古事記』としては、これと一連の話としての次の〈国生み〉創世神話があるが、本来からいえば、始祖神が、神としての島々とさまざまの神としての自然を生むという、別のタイプに属する神話といえよう。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] (D)その島に天《あま》降り坐《ま》して、天御柱《あめみはしら》を見立て、八尋殿《やひろどの》を見立てたまひき。ここにその妹伊邪那美の命に問ひたまはく、「汝《な》が身はいかにか成れる」と問ひたまへば、「吾《あ》が身は成り成りて成り合はざる処|一処《ひとところ》あり」と答へたまひき。ここに伊邪那岐の命|詔《の》りたまはく、「我が身は成り成りて成り余れる処一処あり。故《かれ》、この吾が身の成り余れる処をもちて、汝が身の成り合はざる処に刺し塞《ふた》ぎて、国土を生み成さむとおもふ。生むこといかに」と詔《の》りたまへば、伊邪那美の命、「然《しか》、善《よ》けむ」と答へたまひき。……  故《かれ》、ここに反《かへ》り降りて、さらにその天の御柱を先のごとく往き廻《めぐ》りき。ここに伊邪那岐の命、先に「あなにやし、愛乙女《えをとめ》を」と言ひ、後に妹伊邪那美の命「あなにやし愛男《えをとこ》を」と言ひき。  かく言ひをへて御合《みあ》ひして、生める子は、淡道之穂之狭別島《あはぢのほのさわけのしま》、次に伊予二名島《いよのふたなのしま》を生みき。この島は、身一つにして面《おもて》四つあり。面ごとに名あり。故《かれ》、伊予の国は愛比売《えひめ》といひ、讃岐《さぬき》の国は飯依比古《いひよりひこ》といひ、粟《あは》の国は大宜都比売《おほげつひめ》といひ、土佐の国は建依別《たけよりわけ》といふ。次に隠岐之三子島《おきのみつごのしま》を生みき。またの名は天之忍許呂別《あめのおしころわけ》、次に筑紫の島を生みき。この島もまた、身一つにして面四つあり。面ごとに名あり。故、筑紫の国は白日別《しらひわけ》といひ、豊の国は豊日別といひ、肥《ひ》の国は建日向豊久士比泥別《たけひむかとよくじひねわけ》といひ、熊曾《くまそ》の国は建《たけ》日別といふ。  次に津《つ》島を生みき。またの名は天之狭手依比売《あめのさでよりひめ》といふ。次に佐度の島を生みき。次に大倭豊秋津《おほやまととよあきづ》島を生みき。またの名は天御《あまつみ》虚空《そら》豊秋津別といふ。故《かれ》、この八島を先に生めるによりて、大八島国といふ。  然ありて後、還ります時、吉備の児島を生みき。…… [#ここで字下げ終わり]  このイザナキ・イザナミの〈国生み〉の話が、本来は大和朝廷の育てたものではなく、イザナキ・イザナミ信仰の本拠を探ってみると、淡路島の海人《あま》に属する〈島生み〉の神話であること、五世紀以降、かれらが大和の朝廷と密接な関係をもつようになっていったことから、大和へ吸い上げられ、変容していったものであることを論証したものに、岡田精司の「国生み神話について」(『歴史評論』75・76、一九五六年四・五月、六月)がある。わが弧状列島の創世記が、〈島釣り〉や〈島々生み〉の型をとるのは、だれの手に育てられたとしても必然といわねばなるまい。しかし、イザナキ・イザナミの〈国生み〉の神話(D)は、次々に神格をもつ島を生んでいく、神統譜的形態をとりながら、ウマシアシカビヒコジ以下の大地固成の神話(B)のような、神々の系譜が同時にもたらすゆたかな詩的イメージの展開を持たない。ただし、(D)は、(C)と同じ人格神の神話であるが、男女二神の交合の叙述の成功によって、(C)よりはるかに人間臭い、興味をそそる筋書の運びになっている。成立の絶対年代などはいまのところにわかに推定できないが、(A)(B)(C)(D)四つの創世神話を比較して、自然神中心の(B)よりも、人格神中心の(C)が、さらに同じ(D)が、そして抽象神中心の(A)が、創世神話として、より新しい段階の産物とはいえよう。  さらにまた、神話の面で大和朝廷が(D)や(A)の創世記を自分のものとして作り上げてくる過程が、政治の面での古代統一国家の形成過程であったことも、多くの研究者によって確実視されている。(D)の島々の範囲が、主として西日本に限定されながら、あれだけのひろがりを持っていることも、その一証である。  ところで、それらとタイプの異る(B)の神話にもどっていえば、あそこに出てくる神々は、混入と見られるアメノトコタチ・クニノトコタチを除けば、ウマシアシカビヒコジにしても、ウヒジニにしても、イクグイ・オモダル・アヤカシコネにしても、大和朝廷の手で祭られた痕跡のほとんどない神々である。堅い大地の完成を表わすオモダルという語の神格化、讃美の嘆声、アヤカシコネの神格化からみても、それはむしろ、創世記を語るための神々でしかないように思える。人々は、まだ、ことばを自由に駆使して、ことばによってその空想のすべてを描き尽くそうとしてはいない。おそらく、まだ、それができないでいる。そして、かれらが感じとった自然創造の神秘な営みのごく一部を、神々の名という形で表現しえて、大部分の空想をことばとしては〈未表現〉の世界に残している。しかし、それは埋没しきらず、神々の名が、その〈未表現〉の世界を感じとる媒介として、微妙な役割を演じつづけるのである。  ウヒジニもスヒジニも、オモダルもアヤカシコネも、他の記紀の伝承の中には、二度と顔を出さない神である。かれらは、大和朝廷その他の祭式・儀礼の中で、人々にしばしば相手にされる神々ではなくて、そういう形では人々とつきあいのない神、ある神話の筋の展開の一部分を背負い、そこでの空想の表現のために必要とされ、持ち出されてきた神々にちがいない。〈祭られる神々〉ではなくて、伝承の中で〈語られる神々〉、伝承の中の〈叙述である神々〉というべきであろう。かれらは、呪術的世界に属しながら、呪術的祭式・儀礼の実効的部分にかかわりあわない神であった。呪術的信仰が実用的目的に満されていた時代に、その間に紛れ込んでいた、語るために語られる神のタイプとして、新創造物であり、呪術世界の呪術的日常性を食い破ってくりひろげられはじめていた詩的想像を荷う、一種の無目的的空想ということもできよう。  それは、呪術をも生み出した呪術的原始心性のひとつの発現には違いないが、呪術の鬼子、呪術の遊びの部分といえるものかもしれない。文学の源流を呪術においてみる見方は、今日なお有力である。しかし、わたしは、原始社会における集団感情の共有状態、表象の共有状態を楯どって、文学の祖型を呪術的世界の日常性や共通性の中に埋没させてしまうことに、賛成したくない。同時に、呪術的なものが崩壊する次の段階において文学の発生を認めていこうとする考えにも、にわかに左袒しえない。まだ、しかとは確めえないけれども、呪術的信仰と深くからみあって存在しつつも、その中で、それと本質的には混同しえない、反日常的な、非共通的な、そして非実用儀礼的な空想的イメージを、ことばを利用して生み出す力に、後の文学の源流を求めていきたい、とわたしは思う。    神話の古代的専有  わたしは、文学の歴史を貫くものを、ことばによる想像の〈開拓性〉あるいは〈創造性〉とみたい。時代によって、文学というものも質的にさまざまに変貌してきたが、飼い馴らされない想像力とことばの協同は、精神の日常性と日常性の内蔵する弛緩とにふだんの戦いをいどんできたように思う。リアリズムを基軸にして文学の歴史を考えるにしても、アンチ・リアリズムを基軸にして文学の歴史を考えるにしても、両方の重なり合う点がありうるのは、ここであると考える。  人間の現実の社会生活においては、日常的にくりかえされる生産生活、日常の心の営みと、それに役立つ日常のことばが基礎になっている。思考の日常性とことばの日常性が、この社会の精神生活を維持している。しかし、同時に、一方に、その思考の日常性を突き破ろうとするもの、ことばの日常性に楯つくものがあるがゆえに、それらは風化作用に耐ええ、化石化をまぬかれる。最初に掲げた、沖縄のオモロの「ふへのとり」という日の出の讃歌を例にしていえば、沖縄独特の祭祀組織、地方地方のキミ(尚《しよう》王朝になってはさらにその上に聞得《きこえ》大君)、村々のノロ、家々のオナリ(妹神)という巫女の司祭組織と、彼女たちがささえてきている沖縄独自の信仰の内容を、どのように検討してみても、「天」の「大主」しか見つからない。それであるのに、音響のない日の出に向かって「天に響《とよ》む大主」を感得する心には、信仰の中に潜んで育っている、信仰の契機を超えるなにかがなければならない。呪術の世界の中で、呪術にひたされ、呪術に培われて出てきながら、どこまで深くたぐっていっても、その発生のエネルギーを、呪術の目的や呪術的契機に解消しきれない心の営みとしての想像力を、わたしは、たとえば、『古事記』の創世記のオモダルやアヤカシコネの幻想においてみたいのである。かれらは、呪術の神のタイプにどこかではずれている。実用的目的に志向されている呪術の間に紛れ込んで、それは、むしろ、呪術の日常化した部分に対立するもの、その日常性を内側から食い破るものとしてくりひろげられている幻想、といいたい。  そういう呪術的日常性と戦う力を押しひしぐ形で、古代的権力による神話の体系化は進められている。『古事記』においてみても、(A)(B)(C)(D)と、自己の創世記を豊潤なもののように飾り立てる必要から、さまざまなものを利用することを怠ってはいないが、権力の側は、(B)を必ずしも重要視していない。(B)を含みつつ、重点を(C)と(D)の結合にかけ、さらに(A)にかけていく姿勢によって、その体系は政治性を貫いている。(そのことは、『日本書紀』のやり方を参照すれば、もっと判然としよう。)原始的想像、あの幻想のイメージの強烈さとゆたかさは、そこでは、尊重されずに道具視されてしまった。  ところで、『古事記』でそのような非主軸的なものとして掬い上げられながら、その後ついぞ重視されることのなかった(B)の創世神話が、ふたたび、そこに内蔵されたエネルギーを再生産しつつ蘇ってきたのは、寡聞なわたしの知るかぎりでは、ただ一回、天理教の創始者中山ミキの体内においてであったように思う。いわゆる「泥海|古記《こふき》」である。信徒でないわたしは、実に永い間、そのためにこの新興宗教が明治新政府の弾圧を蒙らねばならなかった理由を、擬似的国体神話の創作、記紀神話をいただく新天皇制国家に対するパテント侵害、というような大づかみな捉え方でしか理解しえなかった。  近代宗教学的に教理を再編成しつつある現代天理教は、「大元漠々の時としては何もない中に、ただこの神のみがあらせられたのである。それは正しく万物始元の状態であったのであろう」と親神を規定し、「しかしこの本来は時間の外なる神も、月日[#「月日」に傍点]親神として時間の中に入り来らねばならなかった。親神は己れ自ら単なる神のみの世界では止まり得ないとせられるのであった。即ち親神の存在性は、神のみの立場では全き意味の実現とはなり得ないのであった。親神は必然的に親神ならざる他者を己れ自らに対して現わし出され、それに対して自己を展開せられるべきものであったのであろう。かくして神の対自的展開として人間世界をはじめかけられることとなった。そしてそれは親神のお働きの根本二極的な様相として、月日[#「月日」に傍点]、即ち、くにとこたちのみこと[#「くにとこたちのみこと」に傍線]、おもたりのみこと[#「おもたりのみこと」に傍線]のお働きにおいて、発動せられることとなったのである」と親神の別の名称を持つゆえんを説く。「親神は自らを種々の名称をもって指し示された」「親神は自らを又月日[#「月日」に傍点]とも示された。……月の働きに『くにとこたち』日の働きに『おもたり』の神名を配して示されているが、この二つのお働きこそ親神の原理的な御守護として教えられるのであった」ともいっている(『天理教教義学試論』「諸井慶徳著作集第一巻」)。わたしは、むしろ、そういう宗教学的説明の基盤にある、教祖中山ミキの『こふき』の内容そのものがじかに語りかけてくるものの方から、強い衝撃を受ける。  ミキの曾孫中山正善は、いわゆる「泥海古記」を文献的に精査して、その実体は明治十四年から二十年にいたる間(明治十五年を除く)教祖が口述して側近の人々に書かせた『口記《こふき》』で、「古記《こふき》」と見るべきではない、と論じている(『こふきの研究』)。最も古い十四年本にしても和歌体本(山沢本)と説話体本(中山本)、もう一つの説話体本(喜多本)がある。たとえばその第二番目の本をみてみると、 [#ここから1字下げ]  |このせ《此世》|かい《界》|にん《人》|げん《間》|はし《創》めたハ、九億九万・九千九百九十九年|い《以》|ぜん《前》に、|どろ《泥》|うみ《海》のなかより月日|りよ《両》|にんみ《人見》|さゞ《定》めつけて、|たね《種 ・》|なわ《苗》|しろ《代》ヲ|こしら《拵》へ、|ほか《他》なる|どうぐ《道具》|みなよ《皆寄》せて、それに月日|い《入》り|こ《込》み、だん/\|しゆご《守護》して、このやしき[#「やしき」に傍点]にて、九億九万九千九百九十九人を三日三|よ《夜》さに|やど《宿》し|こ《込》み、三年三月|とゞ《留》まりいて、大和の国の|なら《奈良・》|はせ《初瀬》七|り《里》の|あいだ《間》七日かゝりて|う《産》み|をろ《下》し、のこる大和を四日にて|う《産》み|をろ《下》し、山城・伊賀・河内三ケ国ヲ十九日にて|う《産》み|をろ《下》し、のこる国々四十五日かゝりて|う《産》み|をろ《下》し、それゆへに七十五日をびやちう[#「をびやちう」に傍点]なり。  この人ハ五|了《分》から|むま《生》れて、九十九年にて三寸になりて|みな《皆》|はて《果》|しま《了》い、|もと《元》の|にん《人》|じゆ《衆》|をな《同》じ|たい《胎》|ない《内》にまたやどりこみ、十月|た《経》ちてまた五|了《分》からむまれ、九十九年にて三寸五|了《分》になり|また《又》|みな《皆》|はて《果》ゝ|しま《了》い、|いちど《一度》と|をし《教》へた|この《此》|しゆご《守護》ふ|て《で》|をな《同》じ|たい《胎》|ない《内》に|さんど《三度》|やど《宿》りて、|また《又》五分から|むま《生》れ九十九年にて四寸まで|せい《成》|しん《人》して。これを|み《見》て、これならば五尺の人になる、と|にいこりハ《ニッコリ笑》ろて|よろ《喜》こんで、いざなみ[#「いざなみ」に傍線]|さま《様》ハこれにてかくれまし。 [#ここで字下げ終わり]  この世界の人間の始源を、九億九万九千九百九十九年前に月日両人(親神の月日としての顕現体)が企て給うた。その次第はというと、太古の泥海の中で、九億九万九千九百九十九人を三昼夜かかって懐胎し、三年三月胎内で育て、それから、日本全国各地にわたって、七十五日かかって生み落とした。この第一代の人間たちは、生まれた時の身のたけは、わずか五|分《ぶ》。九十九年間かかって三寸の大人《おとな》となるが、そこで、九億九万九千九百九十九人全部が滅び去った。それでも親神は断念せず、また同じ人数だけ懐胎し、十月たって生む。また五分の赤ん坊から育って、九十九年で三寸五分に成長した。こんどは五分ほど大きかったが、そこでまた、第二代の人間たちも全滅した。親神は三度目の九億九万九千九百九十九人を生む。五分から育って、九十九年かかって、こんどは四寸にまで成人する。これを見て、この分《ぶん》ならば、この先五尺の人間になろう、とにっこり笑って喜んで、イザナミ様はかくれられた、というのである。後に述べられるように、これはすべて泥海の日本の中でのできごとで、初代から三代までの人間は、まだその中で棲息していたのである。『口記』の創世神話は、気が遠くなるほどねばり強い、出直し、出直しのくりかえしである。ここで突如として出て来るイザナミについて、前にも参照した『天理教教義学試論』は、「元初まりの話によると親神は、人間をしていざなぎのみこと[#「いざなぎのみこと」に傍線]・いざなみのみこと[#「いざなみのみこと」に傍線]から生まれ出るようにせられたのである。かくして、この『ぎ』『み』さまこそが即ち人間の原父、原母であられる。しかるに他面親神教祖[#「教祖」に傍点]は、元なる親は、外ならず月日[#「月日」に傍点]様、即ちくにとこたちのみこと[#「くにとこたちのみこと」に傍線]・おもたりのみこと[#「おもたりのみこと」に傍線]であると仰せられている。これは如何なる訳であろうか。直接的には人間の原父母たるぎ[#「ぎ」に傍点]・み[#「み」に傍点]様が元なる親でなければならないのではなかろうか。この点しかも親神の垂示は、明確な理の教を与えられたのであろう。それはぎ[#「ぎ」に傍点]・み[#「み」に傍点]様には、それぞれ月日[#「月日」に傍点]様が入り込んでこそ、始めてぎ[#「ぎ」に傍点]・み[#「み」に傍点]様になられたのであり、それによってぎ[#「ぎ」に傍点]・み[#「み」に傍点]様は始めて親たるべき理を持たれたからなのである」と説明する。それはそれとして、実は、この期待された第三代目の人間も、全滅してしまったのだった。 [#ここで字下げ終わり]  四寸になりた|にん《人》|げん《間》も、|まだ《又》|はて《果》まして。それより|ちよ《鳥》|るい《類》、|ちく《畜》|るい《類》に、|むし《虫》、|けたもの《獣物》に八千八|たび《度》|むま《生》れ|かハ《更》りて、|し《死》に|た《絶》へる。その|あと《後》に、さる[#「さる」に傍点]が|いち《一》|にん《人》|のこ《残》りいる。これなるハくにさつちのみこと[#「くにさつちのみこと」に傍線]なり。|この《此》|はら《胎》に、をとこ五人とをなご五人と十人ヅゝ|むま《生》れでたなり。|この《此》|にん《人》も五|了《分》から|むま《生》れ、五|了《分》五|了《分》と|せい《成》|じん《人》をして、八寸になりた|とき《時》|みづ《水》|ゝち《土》、|たか《高》|ぶくでけ《低出来》かけて、壱尺八寸ニなりた|とき《時》、|うみ《海》山かたち|ハ《分》かりかけ、三尺ニなりた|とき《時》、てんち|ハ《分》かりかけ。一尺八寸|まで《迄》わ、|ひと《一》|はら《胎》に十人ツゝ|むま《生》れ、壱尺八寸より三尺まで、|ひと《一》|はら《胎》に|をとこ《男》一人、|をなご《女子》壱人、二人ツゝ|むま《生》れでた。三尺よりひとはらに壱人と|さゝ《定》まり、三尺になりて|もの《物》を|ゆい《言》かけ。それ|ゆへ《故》に、|いま《今》|にん《人》|げん《間》も三ん|さい《才》で|もの《物》を|ゆい《言》かけ、|ちへ《知恵》も|てけ《出来》る事なり。  |にん《人》|げん《間》ハ五尺ニなる|また《迄》|みづ《水》|なか《中》の|すま《住》い。三尺より五尺ニなる|まで《迄》|じき《食》|もつ《物》をだん/\と|くい《食》|まハ《廻》り、唐から天てん竺じくまでも|まハ《廻》り|いく《行》なり。五尺ニ|せい《成》|じん《人》した|とき《時》に、|このせ《此世》|かい《界》、|てんち《天地》|うみ《海》山、|しき《食》|もつ《物》までも|にん《人》|げん《間》の|せい《成》|じん《人》に|をふ《応》じ|てけ《出来》た事なり。 [#ここで字下げ終わり]  人間誕生の挫折の歴史は、中山ミキの体認したところによると、第四代目からは、壮絶な、難渋の、しかも悪くなりまさる一方の世代の連続であった。鳥類・虫・獣に八千八たび生まれ代り、それも絶滅する。そしてただ一人[#「人」に傍点]生き残った猿=クニサツチノミコト(同名の神は『書紀』に見える)から、またやり直す。この、幕末の歴史の転換期において自らに宿った神を自覚した女性は、『古事記』の創世記の自然本位とちがって、徹底した人間主義である。人間の人間となるまでの長い長い過程を説いて、最後の段階に入って、人間の成長とともに、天地も固まりはじめ、一世代に五分伸びる人間が五尺に成長して、泥海の中から出て生きるようになると、天地海山も食物までもが人間の成長に応じて変化した、という。 [#ここから1字下げ]  |この《此》|にん《人》|げん《間》を|こし《拵》らへた|とふぐ《道具》と|ゆう《云》ハ、いざなぎのみことふ[#「いざなぎのみことふ」に傍線]へくにとこたちの命[#「くにとこたちの命」に傍線]ヲ|いりこ《入込》み|たね《種》となし、いさなみのみことふ[#「いさなみのみことふ」に傍線]へをもたりの命[#「をもたりの命」に傍線]を|いりこ《入込》み|なハ《苗》|しろ《代》となし、|ふう《夫》|ふう《婦》初メ。  |にん《人》|げん《間》の|みの《身》|うち《内》、|め《眼》、|うる《潤》をいハくにとこたちのみこと[#「くにとこたちのみこと」に傍線]なり。|ぬく《温(み)》ハをもたりのみこと[#「をもたりのみこと」に傍線]なり。|かハ《皮》|つな《繋》ぎハくにさつちのみこと[#「くにさつちのみこと」に傍線]なり。|ほね《骨》ハつきよみのみこと[#「つきよみのみこと」に傍線]なり。|のみ《飲》|くいて《食出》|へい《入》りハくもよみのみこと[#「くもよみのみこと」に傍線]なり。|いき《息》ハかしこねのみこと[#「かしこねのみこと」に傍線]なり。|にん《人》|げん《間》ハこの|かみ《神》|さま《様》のかりもの[#「かりもの」に傍点]なり。|じき《食》|もつ《物》ハをふとのべのみこと[#「をふとのべのみこと」に傍線]の|しゆご《守護》なり。|しに《死》|いき《生》の|ゑん《縁》|きり《切》の|しゆ《守》|ごう《護》ハたいしよくてんのみこと[#「たいしよくてんのみこと」に傍線]なり。|この《此》十人の|かみ《神》ハもとのをやなり、|みの《身》|うち《内》|しゆご《守護》の|かみ《神》なり。 [#ここで字下げ終わり] 『口記』の挙げる十柱の神の中に、クニトコタチ・オモダル・アヤカシコネ・オオトノベと四柱までも、大地固成の創世記(B)の神が登場する。しかし、『口記』の中に蘇ったオオトノベやオモダルやアヤカシコネの神には、あの『古事記』の持っていた二重構造の幻視のイメージのもう一側面、大地の完成の事実、それに対する讃嘆の声などが、すっかり失われている。あの、天地創造の展開過程、動くイメージを、それらの神々の系譜的列挙によって語ろうとした面を失いながら、そのかわりに、驚くべき人間の〈生〉の苦悩の体験と、それを通り抜けてきて獲得できた、天地自然みな人間に応じてある、という底抜けの楽天主義とが表現されている。人間の〈陽気暮らし〉の建設を目標とする天理教の思想の根底に、原始の創世神話の一面を失いながら、それに新たな一面を添えて、教祖の中に蘇った、この世のはじまりの話[#「世のはじまりの話」に傍点]があるとすれば、原始日本の神話のエネルギーは絶滅し去っていない、といえようか。 「|この《此》|かみ《神》/\|この《此》やしき[#「やしき」に傍点]に|むま《生》れてゝ|そん《存》|めい《命》でているなり」と十柱の神についていい、「|この《此》|はなし《話》|きか《聞》し|くた《下》さるハ、|とふ《当》|ねん《年》八十四才に成老母の|たまひい《魂》ハ、いざなみの命[#「いざなみの命」に傍線]なり。それ|ゆへ《故》に|ぜん《善》|しん《心》なり。|この《此》|もの《者》を|み《見》|すま《澄》し、四十四年|い《以》|せん《前》に月日のやしろ[#「月日のやしろ」に傍点]に|もら《貰》い|う《受》け、月日|心《こころ》を|いりこ《入込》み、|こく《刻》|げんみ《限見》や|ハ《合》せ、|しん《真》|じつ《実》の|はなし《話》なり」という、この人には、親神が自身に宿ったという信仰体験とともに、創世神話は現に実在したのであった。  このような強烈な民間における神話のエネルギーの蘇りに対して、明治新政府の側が内部に保有しているのは、平田|鉄胤《かねたね》らの国学者たちが頑固に保持してきた記紀の解釈でしかない。国粋主義の排外的・保守的狂信はあっても、かれら平田派の国学思想が、本居宣長当時の、既成の儒教思想・仏教思想から人間を解き放つ解放性を持ちえていなかったことは、いうまでもない。政府は肇国神話と紛らわしい『口記』の内容を嫌ったのであろうが、実はそれとともに、この中に籠る恐るべきエネルギーにあてられてしまったのだ、とわたしは考える。まともに、これに対抗できるエネルギーは、廃仏毀釈・国教樹立の大失敗を演じた後では、吹きまくる西欧思想の新風に圧倒されつづけの、明治の国学者たちの『古事記』の講釈の中には、もうどこにもなかったであろう。天理教が『口記』のためにも弾圧を受けたのは、その点から考えれば当然ともいえる。弾圧し、人々の眼から遠ざけずにおけるようなものではなかった。  それとともに、これらのいわゆる「泥海古記」が教祖の口から語られた日々が、相継ぐ官憲の天理教弾圧のさなかであったことも無視できない。教祖は、五分の背たけを延びるため九十九年をくりかえす体験を、実地に反復しつつあったのでもある。外力に圧せられて生き悩みつつ、野性に満ちた人間が、なお執拗に生命力を培養しつづけている、それこそが神話の季節の状況であり、幻視の境地であろう。  ゆたかな原始的想像力の所産である、泥の中からまずアシカビ(葦芽)一本が出てきて、世の中がはじまったとする創世神話を、素材として採択しつつ、その精神・そのエネルギーに撃たれなかったところに、大和朝廷の語部《かたりべ》、それにつづく史官たちの、確立していくディスポティズムに自己を対峙させえないばかりか、自己を委ねてしまう、歴史を管理する者のひよわさがあったと見ねばならない。そして、それは、長期にわたり、民族の想像力のゆくてに大きな影響を与えてもいくのである。 [#改ページ]  火山列島の思想——日本的固有神の性格——    固有神  日本の神々がどこから来たかは、日本人がどこから来たかの問題である。そういう比較神話学的な問題の立て方に対して、わたしは片手落ちのようなものを感じている。同時に、この日本でしか生まれなかった神々、この列島|生《は》えぬきの神々のことも重視すべきではないか。  といって、わたしが、そういう神々をたくさん知っているか、というと、必ずしも、まだそうではない。しかし、あのオオナモチの神、出雲で大国主《おおくにぬし》といわれ、「天《あめ》の下作らしし大神」(『出雲国風土記』)とも呼ばれている、あの神などは、日本固有の神のひとつに違いないだろう、と思う。  最後のオオナモチの神の出現は、わたしの知っているかぎりでは、七六四(天平宝字八)年の十二月である。この月、大隅・薩摩の国|境《ざかい》近くが、「烟雲晦冥して、奔電去来す」という転変に巻き込まれた。「七日の後、すなはち天晴るれば、鹿児島信尓村の海に、沙石おのづから聚《あつま》りて、化して三つの島となれり。炎気の露見すること、冶鋳《やちゆう》の為《しわざ》のごとくなるあり。形勢は相|連《つらな》りて、望むに、四阿《あづまや》の屋《いへ》に似たり。島のために埋めらるるもの、民家六十二区、口八十余人なり」と『続《しよく》日本紀』は伝えている。翌々七六六(天平神護二)年六月、またまた、この島は暴れた。「大隅の国の神の造れる新しき島、震動|息《や》まず。ゆゑを以ちて、民多く逃亡す。よりて賑恤《しんじゆつ》を加ふ」——海底から噴出した島の活動がはげしく、ために流亡の旅に出る人々が続出した、というのは、降りつづける火山灰に逐われての流亡であろう。その後、七七八(宝亀九)年十二月に、奈良の朝廷は、この猛威を振るう神を官社に列した。 [#ここから1字下げ]  大隅の国の海中に神ありて、島を造る。その名を大穴持の神と曰ふ。ここに至りて[#「ここに至りて」に傍点]官社となす。 [#ここで字下げ終わり]  これもただ事ではない。鳴動しつづけて、国人を脅したからのことであろう。これが、後の『延喜式』に噌唹《そお》郡の大穴持神社とあるもので、神が造った島というのは、今の国分市の沖合いの三つの小島である。現在、社の方は対岸へ移っているが、重要なことは、この海底噴火の神がオオナモチと呼ばれたことだろう。大きな穴を持つ神、それは噴火口を擁する火山そのものの姿の神格化以外ではない。しかも、今日南九州一円を貧困に縛りつけているシラス地帯の一角で、その神はシラスを噴き浴びせる猛威の神として、生きた姿で暴れていたのである。  これが、わたしたちの祖先のいうオオナモチの神なのだ。オオナモチは出雲の国の、あの大国主とも呼ばれる神だけではなく、文字どおりの大穴持の神として、この火山列島の各処に、時を異にして出現するであろう神々の共有名なのである。そして、火山の国に固有の神といってよかろう。    火の国の体験 「大きな袋を肩にかけ ダイコクさまが来かかると ここにイナバの白兎 皮をむかれて あか裸……。」わたしは、そういう唱歌を歌って餓鬼なかまと小学校へ通った。その時、夢にも思っていなかったが、あのダイコクさまは、噴煙を濛々とあげ、火の灰を降らす火山神なのである。そして、あの縁結びの出雲の神さまと同一神なのだ。しかも、そういう大穴持の神は、出雲の神さまひとりではなかった。この神の名を、古代には、オオナモチ=大穴[#「穴」に傍点]持(『出雲国風土記』「出雲国造《いづものくにのみやつこの》 神賀詞《かむよごと》」『延喜式』)、大名[#「名」に傍点]持(『延喜式』)、オオナムチ=大穴[#「穴」に傍点]牟遅(『古事記』『新撰|姓氏《しようじ》録』)、大己[#「己」に傍点]貴(『日本書紀』『古語拾遺』)、大汝[#「汝」に傍点](『播磨国風土記』)、於保奈[#「奈」に傍点]牟智(『延喜式』)というふうにいろいろな表記を試みているが、それは、この神の名のオオナのナ[#「ナ」に傍点]が何であるかが忘却されてしまっていたからではない。古代人は、この原始以来の神の名の「ナ」が「穴」であることを記憶して知ってもいた。だから、「大穴持」とか「大穴牟遅」とか書くことも多く、新たなる神の出現にあたって、「大穴持」と呼びもした。これは、ただの山の崇拝ではない。「穴」への懼れであった。火を噴《ふ》く穴へのおののきであった。  原始・古代の祖先たちにとって、山は神であった。山が清浄《しようじよう》であるからではなく、山が神秘不可測な〈憤怒〉そのものであったからである。山は、まず火の神であることにおいて、神なのであった。この自明のようなところへ、日本の神道史学の山の神の探究をもどしたい、とわたしは考える。南九州の有明海を挟む肥前(火の前《さき》)・肥後(火の後《しり》)が、雲仙・阿蘇などの火山を抱いた火の国[#「火の国」に傍点]と呼ばれる地方であることは周知のことだが、その火の国だけが〈火の国〉でないことは、大隅のオオナモチの例からもわかろう。〈火の神〉の信仰という形で山岳を祭りつづけたのが、日本人の特色といえよう。山は山一般ではなかった。これはもう平安時代になってからであるが、八六七(貞観九)年の二月、大宰府が太政官にこういう注進をしている。 [#ここから1字下げ]  従五位の上、火の男神、従五位の下、火の売《め》神の二社、豊後の国速見の郡鶴見の山嶺にあり。山頂、三つの池あり。一《いつ》は泥水の色青く、一の池は黒く、一の池は赤し。去る正月廿日、池震動して、その声、雷《いかづち》のごとし。俄にして臭《くさ》きこと硫黄のごとく、国内《くにぬち》に遍く満ちて、磐石飛び乱れ、上下するもの無数なり。石の大いなるものは方丈、小さきものは甕のごとし。昼は黒煙|蒸《のぼ》り、夜は炎火|熾《さかん》なり。沙泥、雪と散り、数里に積む。池中、もとより温泉を出だす。泉水沸騰して、おのづから河流をなし、山脚の道路は、往還通ぜず、温泉の水、衆流に入りて、魚《いを》の酔死するもの千万の数あり。その震動の声、三日に経歴《わた》れり。 [#地付き](『日本三代実録』) [#ここで字下げ終わり]  火の男神の贈位が火の女神のそれより一階高かったのは、いたって平安朝的であるが、山の神が火の山の神として生きており、静止した山の威容によってではなく、その躍動的な活動によって神としての力を再確認させたらしいところに、注視すべきではなかろうか。今日、観光地別府を訪れる人々は、その「昼は黒煙蒸り、夜は炎火熾な」神の火を望み、「雪と散り、数里に積む」沙泥をかぶりつつ、はかりかねる神意におびえた人々と、あまりに無縁すぎる。しかし、一昨六二年の噴火につづいた昨六三年の一日九十回の鳴動に、恐怖のどん底にたたきこまれた三宅島の人々の心情的体験は、まぎれもなく現代の事実であり、火山列島日本の心情史の個性をかいまみさせる。わたしの机辺に真っ白い軽石の一小塊がある。伊豆諸島の海中で、先年、突如噴火して島姿を現わし、数日にしてまた海底に没した明神礁のかたみ[#「かたみ」に傍点]だが、あの時、水産大学の調査船は、奔騰する海に呑まれたらしく、消息を絶ったままである。〈神の火〉が日本民族の精神史の課題とならざるをえないのは、このような不断の民族的体験にかかわっている。    忌斎の信仰  山の神の研究は、現在どう進んできているか、というと、そのひとつに民俗学の方向からの民間信仰研究の成果がある。そこでは、田の神祭りの調査の中で、収穫期の後、田の神は山へ帰る、と信じられてきたことがわかった。そして、平野の農耕民にとって、田の神は、実は訪《おとな》い来る山の神であることが判明したとともに、山村の狩猟民にとっても、きびしい禁忌を要求する、女性もしくは男性の山中の神がいることがわかった。もうひとつは、民俗学と神道史学の神社研究の方からの成果である。それは、多くの村落の里宮には、奥宮である山宮があり、神はもと山に天降ったのを、里へ招き寄せるようにしたらしいことと、もうひとつ、山そのものが御神体の神社が少なくない、ということである。当然、山そのものが神ということと、山頂へ神が天降るということとの関係がどうなっているかが問題となってくる。第三の成果は、比較神話学的研究によるもので、日本には、山頂に天降る神と海辺へ寄りくる神の二つのタイプがあり、朝鮮・満洲などアジア大陸の近隣地域にも、やはり天降る神の伝説の分布が見られるので、その交渉過程がいろいろに考えられる、ということである。こういう状況であるから、学者によっては、これらの三方向からの研究成果をすでに統一できる段階にきている、と見ているらしい人もある。あるいはそうかもしれない。が、それとともに、従来の研究では、山を山一般として普遍的に把握しすぎた欠点があり、山を仰ぐ人々の心、その人々の生活と山との関係を詳細に追求していないうらみもないではなかった。ここで、山の中でもことさら日本的な〈火の山〉を問題にしているのは、そのためである。 〈火の山〉は流動的な生き方をしている。時あってか、神秘な憤怒——〈神の火〉によって、神の姿を現わす。日本の神の特質は、多くの主要な神々に常在性がない、と言うことだろう。神と人との常住不変的な緊張関係が人々の生活を律しない。神は祭りの日々に訪れ、招《お》ぎ降ろす斎《いわ》いの庭に下りたもう。それが、日本人の宗教性・倫理性・思想性、さらに生活態度の全般とかかわっており、民族性の形成に甚大な影響をおよぼしていることは意外に根深い。こういう神の見つけ方は、農耕生活の開始・季節の重視・季節祭の定着というルートでの歴史の進み方と関連しているとして、水稲耕作地帯=東南アジア的なものとして解かれることが多かった。たしかに農耕生活という契機も重要であろうが、もっと溯って、この火山列島の生活そのものが持たざるをえない風土性の問題として、その基盤の形成を考えるべきではなかろうか。火山と人々・潮流と人々・台風と人々の問題として、まず考えてみるべき要素を多く含んでいるようだ。そのひとつとしての〈神の火〉による山の神の顕現は、不可測なるがゆえに恐るべきであり、偶像化や人格化のしにくいものであった。神は〈力〉として感受され、客体的な〈像〉として固定しにくかった。  日本の神道は恐れと慎《つつし》みの宗教であり、客体として対象化されるべき神の面よりも、禊《みそ》ぎ、祓い、物忌みして斎《いつ》く人の側に重心がかけられている、いわば主体性の宗教である。独自の神を創出しないPL教団や生長の家のような、修養団体的要素の濃い新興の近代宗教が存在しうるのも、はるかな淵源はそこにあろう。古い〈神の火〉の信仰は、そこでもやはりひとつの重要な役割りを演じた、と見られる。神火に対して問題になるのは、神の姿・神の行為であるよりも、まず、山麓の人々の心の内部のことである。  日本には、事忌《こといみ》とか、物忌《ものいみ》という名の神がいる。その中で代表的なのは、出羽の国|飽海《あくみ》郡のオオモノイミの神であろう。いまの鳥海山のことだが、八七一(貞観一三)年の四月、この山の〈神の火〉が燃え上った時のことを、『日本三代実録』はこう言う。「従三位勲五等大物忌の神の社は、飽海《あくみ》の郡にあり。山上には巌石壁立し、人跡まれに到る。夏も冬も雪を戴き、禿《はげ》て草木なし。去る四月八日、山上に火あり。土石を焼く。また、声ありて雷《いかづち》のごとし。山より出づるところの河は、泥水泛溢して、その色青黒く、臭気充満せり。人、聞《か》ぐに堪へず。死せる魚多く浮かび、擁塞されて流れず。ふたつの大蛇あり。長さは十許丈。相《とも》に流れ出でて海口に入る。小蛇の随へるものは、その数を知らず。河に縁《よ》りて苗稼せるは、流損するもの多し。あるは濁水の臭気に染み、朽ちて生ぜず」と。すぐに国司が出向いて山を祭っている。この鳥海の神は、『続日本後紀』によると、これより前、八三八(承和五)年五月に、「出羽の国従五位の上勲五等大物忌の神に、正五位の下を授け奉る」とあり、それ以来、位階しきりに進んで、七一年には従三位勲五等であった、当時めだって立身出世した神であるが、それはこの頃しきりに爆発したからであったらしい。八四〇(承和七)年に従四位の下が贈られた時には、こういういきさつ[#「いきさつ」に傍点]があった。前年八月、遣唐使の第二番船が南方の蛮賊の地へ漂流して、戦闘におよんだ時、寡勢よく衆を制しえたが、どうもふしぎである、「神助あるに似たり」という報告を、帰ってきてしたので、政府は、ちょうど去年の同じ頃、出羽の国司から、「大神の雲の裏《うち》において、十日の間、戦ひの声あり。後に、兵石|零《ふ》れり」という報があったのと符合する、とみたのである。出羽の国の人々は、この鳥海の神をオオモノイミの神といった。その名は神の性格から発しているのではなく、その神に対して、山麓の人々が物忌みして神火の猛威を防ぎつづけなければならないところの、祭る側の態度を反映したものである。『延喜式』の神名帳が同じ郡にもう一社、小物忌《おものいみ》の神の社を挙げているのも同じような命名法であろう。  結局、火山神は、山容の神格化オオナモチから、噴火の神格化ヒの男神、ヒの女神、さらにその神の火への懼れ心から把握する神の姿オオモノイミへの、広い幅の中で仰がれ敬われていたわけである。火山神を重要視しなければならないのは、単に日本が火山列島であるからだけではない。神の不常在性、祭る者の忌みを重視しすぎて、神の客体化が弱い点など、信仰に現われた民族性が、火山神に集約してみられるからである。逆に言えば、火山神の少しもかかわり合わないところで、そういう民族性ができていったとは、どうしても考えにくいのである。    出雲の英雄神  ところで、あの出雲のオオナモチのことはどう考えたらよかろうか。  わたしは、ここでは、八世紀という後代の大隅のオオナモチの神によって、はるか前代の出雲のオオナモチの性格を突きとめようとする、倒立立証法を用いている。日本人の物の考え方が歴史社会の発展の中でどんどんと移り変りながら、一方、そういう新しい変動にさらされていないところには、ずっと後代まで古い形のものが残存する、後代によって逆に前代のもののそのまた祖型を考えうる、という倒立立証法が、この国の歴史の検討に有効な武器であることをもっともよく示したのは、柳田国男の樹立した日本民俗学であった。あのようなすぐれた方法が実験の中で磨かれていくためには、歴史の中でただ一回的に惹き起こされた事件を、常住不断にうちつづいてきた常民の生活の中の事実よりも重視する、文献史学に対する懐疑と批判が大きな力となっている。不断に繰り返される事の中には、次々と新しいものが生まれつつ、古いものも死に絶えないでいろいろな形で生きながらえていく。古いということと、新しいということとが、断絶の契機においてのみ、古くあり、新しくあるようなものではないのである。大きな広がりと厚みを持って歴史は進展していく。日本民俗学のこうした方法は、対象の選択と把握にもおよび、日本の火山列島としての性格、火山列島での日本人の暮らしという面にもおよぶべきであった。しかし、そうならなかった。火山の脅威や火山灰地帯の生活の苦悩を、学問の対象にひき据えなかった。噴火を一回的現象とみたのであろうか。柳田国男が一九三三(昭和八)年に雑誌『島』に三回にわたって書いた「青ヶ島還住記」は、その意味で重要な一契機であったが、噴火によって生活の潰滅を蒙りながら、その火の孤島へ帰り住もうとする人々の歴史を描いた労作は、『島の人生』という書物に収められ、離島の問題としてのみ把握されるようになっていく。しかし、これは柳田国男に責《せめ》を帰すべきことではなかろう。歴史研究に従うわたしたち全体の今後の課題である。そして、民俗学者にもう一度考えなおしてほしいのは、〈一回性〉とは何か、ということである。饑饉や戦争も一回的ではない。神火の憤怒は繰り返され、火山灰地は人間の幸・不幸を生誕に先立って規定しつづけてきた。日本の学問、日本の民衆の生活を対象にひき据えるあらゆる領域の学問は、この歴史的事実に眼をつぶるわけにはいかない。その点、柳田の学統からはずれたところで、もうひとりの民俗学者藤沢衛彦が、「地震の国、日本は、また、火山の国である。火山の現象は、過去の地質時代にあった地殻の大変動が、今日にまでのこしている余韻とでもいうべきものであろう。太古では、火山はもっとかつやくしていたと、火山学者たちは論証している。とすれば、わたくしたちは、火山というものに、もっと関心をもつべきかもしれない。火山の爆発、その噴火・噴煙、そうしたものが、ただ人々の心に威圧を与えたとばかりみるのはあやまりであろう。むしろ、そこから、活動力、生命の源泉、といったものを感じとったかもしれないからである」(『図説日本民俗学全集』神話・伝説編)という、ひとつの見透しを立てているのは、傾聴すべきではなかろうか。  それにしても、あの出雲のオオナモチのことだが、あの神を火山神、もしくは火山神の発展した姿とは、これまでだれも考えていなかった。もとより、『古事記』が、「大国主の神、またの名は大穴牟遅の神といひ、またの名は葦原|色許男《しこを》の神といひ、またの名は八千矛《やちほこ》の神といひ、またの名は宇都志国玉の神といひ、あはせて五つの名あり」とすでに言っているように、この神は単一機能神ではない。神話学者松村武雄は、小川琢治の地震鎮圧神説、堀岡文吉の風神説、松本信広の雷神説等の自然神説に論駁を加え、「この神は広い意味に於ける出雲地方を表はすものとしての国土若くは天下の神性的な造作者・経営者であつて、それ以外の何者でもない」(『日本神話の研究』第三巻)と言う。『出雲の国風土記』を見れば、たしかにそういう性格で覆い尽くされている。しかし、そうはいっても、「この神は、本然的には、自然界の或る特定の物素や現象(太陽・太陰・雨・風などの如き)を、若くは人文界の或る特定の事象(狩猟・農耕・婚姻・軍事などの如き)を管掌することをその本質とする部門神(departmental divinity)若くは職掌神(functional divinity)ではなくて、専ら国土の造営に係はる文化的英雄神である」と松村がいうようなオオクニヌシの神の伝承が、〈オオクニヌシ〉を讃嘆の称呼としながらも、実質的には大多数がオオナモチ・オオナムチの名で語られていることを無視することはできない。ウル・オオナモチがそういうオオクニヌシ=オオナモチに成長していくことを追求してみないでよいわけではあるまい。ところで、松村の大著は、本居宣長の「御名の、世に勝れたれば」大名持とする説、敷田年治の、ナは地震《ない》のナ、すなわち大|地《な》持とする説、松岡静雄のオホ(大)アナ(感動詞)ミチ(御主)のつづまったものという説を紹介し、自身は、敷田の『古事記標註』のナ=大地説を、ナ=大地=国土説に延長して、〈大国主《オホナムチ》〉説を提唱している。わたしは、七六四年の大隅のオオナモチの神の復活によって、出雲の同名の神も、本来は火山神の系譜に属した神、と推測した。が、それだけならば、まだ信ずべき根拠は薄弱である。果たして、出雲のオオクニヌシの中に火山神的なものがあるだろうか。  古代の出雲と大和朝廷の関係は、他の諸国と中央政府の関係とたいそう違いがある。たとえば、出雲では国造《くにのみやつこ》が新たに任じられる時(もちろん、世襲であるが)、いま「国造《こくそう》さん」と呼ばれている千家・北島家の先祖たちは、上京して任命式に臨み、帰国すると一年間潔斎して出京、天皇に「出雲国造《いづものくにのみやつこの》神賀詞《かむよごと》」を奏し、ふたたび帰って、潔斎一年、ふたたび上京して貢献物を出し、同じ賀詞《よごと》を奏する。捧げるのは、六十八個の玉、金銀装の太刀一ふり、鏡一面、倭文《しず》織り二端、月毛の馬一頭、鵠《こうのとり》二羽、五十荷の進物で、しかも、その時には、百八十数社の出雲国内の大小の神社の祝部《いわいべ》が全部随行しなければならない。七二六(神亀三)年の例でいうと、百九十六名が随従者であった。この特殊な儀礼の時の「神賀詞」の中で、出雲の国造は国譲りのいにしえをふりかえって、 [#ここから1字下げ]  高天《たかま》の神王高御魂《かむみおやたかみむすび》の命《みこと》の、皇御孫《すめみま》の命に天の下大八島国を事避《ことよ》さしまつりし時に、出雲の臣等《おみら》が遠つ神天の穂比《ほひ》の命を、国体《くにがた》見に遣はしし時に、天の八重雲をおし別けて、天翔《あまがけ》り国翔りて、天の下を見|廻《めぐ》りて、返《かへ》り事《ごと》申したまはく、 「豊葦原の水穂の国は、昼は五月蠅《さばへ》なす水沸《みなわ》き、夜は|火※[#「公/瓦」、unicode74EE]《ほべ》なす光《かがや》く神あり。石根《いはね》木立《こだち》・青|水沫《みなわ》も事問ひて荒ぶる国なり。しかれども鎮《しづ》め平《む》けて、皇御孫の命に安国と平らけく知ろしまさしめむ。」 と申して、…… [#ここで字下げ終わり] と奏することになっていた。記紀では、オオクニヌシに媚び付いて交渉結果を復奏しなかった、というアメノホヒが、ちゃんと復奏したことになっているのもおもしろいが、問題にすべきは、オオクニヌシの国を見て、「昼は五月蠅《さばへ》なす水沸き、夜は火《ほ》|※[#「公/瓦」、unicode74EE]《べ》なす光《かがや》く神あり」と言うところである。偵察にきた者に、出雲にあってはその神あり、とまず眼につく第一の神は、オオクニヌシでなければならない。夜になると、火を盛った壺のように輝きを放つ神といえば、それこそ〈オオナモチ〉の相貌ではないか。昼は騒音を立てて水沸く神——とすると、……  いや、待て。人文神オオナモチには、こういう伝承がある。『釈日本紀』の引いた『伊予の国風土記』の逸文によれば、オオナモチがなにかのことでスクナビコナの命を死なせ、後悔して蘇らせた、と。「湯の郡。大穴持の命、見て悔い恥ぢて、|宿奈※[#「田+比」、unicode6bd7]古那《すくなびこな》の命を活かさまく欲《おもほ》して、大分《おほきた》の速見の湯を、下樋《したび》より持ち度《わた》り来て、宿奈※[#「田+比」、unicode6bd7]古奈の命を漬《ひた》し浴《あむ》ししかば、しましがほどに活きかへりまして、居然《おだひ》しく詠《ながめ》ごとして、『ま暫《しまし》、寝《い》ねつるかも』とのりたまひて、践《ふ》みたけびましし跡どころ、いまも湯の中の石の上にあり」これは結局、道後の温泉は、オオナモチが豊予海峡の海底を通して、別府温泉の湯を引いてきたものだ、というのである。オオナモチがなぜここの伝承にまで顔を出すのか。ずっと後世のものだが、『鎌倉実記』に、北畠親房の『准后親房記』という書に引用されているという、『伊豆の国風土記』の逸文が載せてある。今井似閑が『万葉緯』で世に紹介し、今日では、多くの「風土記逸文集」にも収められている。それには、 [#ここから1字下げ]  大己貴《おほなむち》と少彦名《すくなひこな》と、わが秋津洲《あきつしま》に民の夭折《あからさまにし》ぬることを憫《あは》れみ、始めて禁薬《くすり》と湯泉《ゆあみ》の術《みち》をさだめたまひき。伊津《いづ》の神の湯[#「神の湯」に傍点]もまたその数にして、箱根の元湯、これなり。 [#ここで字下げ終わり] とある。オオナモチの開いた湯だから、〈神の湯〉と言われる。とすれば、オオナモチは〈湯の神〉でもありうる。前に、わたしは、火の山の神のタイプとして、噴火丘型の大隅のオオナモチや、湯地獄型の豊後のヒの男神・ヒの女神を挙げたが、伊予や伊豆のオオナモチの湯の伝承から、湯地獄型のオオナモチを想定してよさそうである。とすると、神賀詞《かむよごと》の言う、出雲の「昼は五月蠅なす水沸き、夜は火※[#「公/瓦」、unicode74EE]なす光く神」も、そういう湯地獄そのものとしてのオオナモチの神でありはしないのか。  大和の天皇の前で、「弟山《おとやま》(八世紀の国造の名)が弱肩に太襷《ふとだすき》取り挂《か》けて、厳幣《いづぬさ》の緒《を》結び、天のみかび[#「みかび」に傍点]冠《かがふ》りて、厳《いづ》の真屋にあら草を厳《いづ》の席《むしろ》と苅り敷きて、……」ときびしい忌み籠りの日々のありさまを奏する新任の出雲の意宇《おう》の郡《こおり》の大領兼出雲の国造の胸裏に、どのような〈湯の神〉のイメージが浮かんでいたのか、わたしにはわからないが、かれらが出雲において永い永い潔斎の生活をしてきたのは、〈神の湯〉の里においてなのであった(加藤義成『出雲国風土記参究』)。百数十人の司祭者群を率いて、その里の忌《い》み舎《や》で、新国造は潔斎し、大司祭者の神聖性を身につけたのである。七三三(天平五)年のその里について、『出雲の風土記』はこう言う。 [#ここから1字下げ]  忌部《いむべ》の神戸《かむべ》。郡家《こほりのみやけ》の正《ま》西廿一里二百六十歩なり。国造、神吉詞望《かむよごとほが》ひに、朝廷《みかど》に参《まゐ》向かふ時、御沐《みそぎ》の忌《いみ》の里なり。かれ、忌部といふ。すなはち、川の辺《へ》に湯出づ、出湯《いでゆ》のあるところ、海|陸《くが》を兼ねたり。よりて、男も女《をみな》も、老いたるも少《わか》きも、或《ある》は道路《みち》に駱駅《つらな》り、或は海中《うみなか》を洲《はま》に沿ひて、日《ひび》に集《つど》ひて市を成し、繽紛《みだれまが》ひて燕楽《うたげ》す。一《ひと》たび濯《すす》げば、形容《かたち》端正《きらきら》しく、再び沐《ゆあみ》すれば、万《よろづ》の病ことごとに除《い》ゆ。古《いにしへ》より今に至るまで、験《しるし》を得ずといふことなし。かれ、俗人《くにひと》、神の湯[#「神の湯」に傍点]といふ。 [#地付き](意宇《おう》郡) [#ここで字下げ終わり] いまの玉造温泉である。なぜ、国造一行は、国府・郡衙から東へ旅するものを、逆に路を西にとり、この〈神の湯〉にきて潔斎しなければならないのか。  現在の玉作湯神社の祭神は、櫛明玉《くしあかるたま》の神・オオナモチ・スクナビコナ・五十猛《いそたける》の神だが、『延喜式』によると、ここには、「玉作湯の社」と「同じ社に坐す韓国《からくに》の|伊太※[#「低のつくり」、unicode6c10]《いだて》の神の社」があったことになっていて、イダテの神は普通イソタケルのことと考えられているから、残る三神が問題であろう。スクナビコナは、後世いつでもオオナモチと一双で考えられているから、ひとつと見るとして、クシアカルタマとオオナモチが残る。『延喜式』以前でわかっていることと言えば、『三代実録』で、八七一(貞観一三)年の十月に、「出雲の国正五位の上、湯の神[#「湯の神」に傍点]、佐陀の神、ならびに従四位の下」と見える、熊野・杵築《きづき》の両大社に次いで、佐陀神社と並んでランクされる神社だったことだ。『風土記』に溯ると、「玉作湯の社」のほかに、「由宇の社」というのがあり、これは『延喜式』の式内社と比べてはみ出る社名で、由宇が湯の延音と考えられるところから、これもこの温泉の神と見られている。そして、多くの学者は、例の『延喜式』で「玉作湯の社」と相殿《あいどの》のイダテの神を、これに当てる。しかし、これは一応別の社だから、そうとも決めがたい。ところで、櫛明玉の神というのは、妙明玉《くしあかるだま》の意で、『古語拾遺』が出雲の玉作部の祖と言っている神である。玉造の地が〈神の湯〉の国造の忌み籠りの里であると同時に、玉作りの技術者たちの里でもあるために、クシアカルタマとオオナモチが、後世では、どちらもこの湯の神として考えられるようになったので、いたってややこしい。だが、大切なのは、それを、後世と違っている、『三代実録』のように単純な〈出雲の国の湯の神〉という古代的認識へと、一度もどしてみることではなかろうか。  クシアカルタマかもしれず、オオナモチかもしれない〈神の湯〉——ふり出しにもどって、それが、「昼は五月蠅《さばへ》なす」ブツブツ水を沸かせ、「夜は|火※[#「公/瓦」、unicode74EE]《ほべ》なす」輝く神として、オオナモチの神の国で第一に秀でた神なのだ。人文神オオナモチは、そのまま自然神オオナモチではないから、むしろ、これは、両者の重なりつつずれる相貌と見るべきではなかろうか。『風土記』の天の下造らしし大神としてのオオナモチは、「越《こし》の八口《やくち》を乎《ことむ》け賜ひて、還りましし」(意宇郡)外征の神であり、そのまえに、「八十《やそ》神は青垣山の裏《うち》に置かじ」(大原郡)と戦った国内平定の神であり、「五百《いほ》つ鋤《すき》の鋤、なほ取り取らして天の下造らしし」(意宇郡)開拓始祖神でもあった。かれには〈マグマ(地底の岩漿)の神〉のおもかげは、かすかしか残っていない。古代の出雲人は、神の湯の神聖さを伝えつつも、湯の神の何者かを忘れかけていた。ひょっとすれば、その〈憤怒の神〉の神意を巧妙に窺いえた司祭者の末裔こそが、かれらの郷国の最初の支配者であったかもしれないのに。  神の出生も、その名の由来も忘れることができる。人間社会の生産力の発展、自然との対抗力の増大が、それを可能にした。しかし、その忘却の過程において、人々は、生みつけられた土地の神の制圧下にその精神形成のコースを規制されてきた。火山神は忘れられても、日本の火山活動が活溌であった時代に、マグマの教えた思想、マグマの教えた生き方は、驚くほど鞏固にこの列島に残っていったらしいのである。 [#ここから1字下げ]  付記 火山神としてのオオナモチを考える場合、玉造の湯の神がオオナモチであるより前の段階として、考慮に入れる必要があるのは、伯耆|大山《だいせん》であろう。『出雲国風土記』も「伯耆の国なる火の神岳[#「火の神岳」に傍点]」と呼び、国引き神話も、この山頂から鳥瞰した出雲のイメージをもとに発想したか、と言われており、大神山神社に祀る神も大山山頂の岩室の神も、オオナモチである。しかし、有史時代に大山の噴火した記録はない(小林貞一『中国地方』〔日本地方別地質誌〕)。それ以前の原始社会の段階では活溌に活動していなかったとはいえないが、一応さておき、『風土記』と『神賀詞』を組み合わせて考えられる、出雲のオオナモチの祖型〈神の湯〉を、もっとも古い形としたのである。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]  廃王伝説——日本的権力の一源流——    日本のつかみにくさ  日本の社会・日本の文化の問題を解明しようとする時に、わたしたちがほとほと困却するのは、問題を日本の社会、日本の文化の問題として、その個性に即して究明していくことのむつかしさである。歴史的究明が進めば進むほど、日本の問題としての特性がくっきりとしてこなければならない。それであるのに、逆に、本質は普遍的性格をまし、その個性が稀薄化してしまうのだ。普遍性をもつ最も本質的なものが、さまざまな粉飾を洗い流して残る、といえば体《てい》がいい。しかし、本質的なものが固有性を明確に保持していないような析出は、わたしたちが武器としているヨーロッパ的学問方法の適用の仕方に、どこか問題があるからかもしれない。  問題を、具体的に歴史の領域に採ってみると、大和朝廷の支配権力が拡大する前段階に、それぞれの地方における豪族の支配の存在を推定していくことは、もはや自明のことのようになっている。豪族の地方的支配から大和朝廷の統一的支配へ——それは、段階論的歴史把握からは、当然の帰結ともいえよう。だが、そういう歴史認識は、本来ならば、その前提として、それぞれの地方を支配した豪族が具体的にどういうものであったか、権力の統一を実現しえた大和の新勢力がそれとどう違う構造をもっていたか、両者がどういう形でぶつかりあったかの、鮮明なイメージをもっていなければならない。  ところが現在の歴史研究は必ずしもそういうプロセスをたどらない。抽象的に〈地方豪族〉という概念が直接定立され、それを統一する新支配権力の概念も抽象的に持ち出されることが多い。民族の歴史を具体的なイメージとしてつかみ直す必要は、イメージゆたかな皇国史観を、法則的・図式的把握で克服しようとしてきたことの結果をふりかえっても、疑いないところであろう。日本の歴史の古いイメージを打ち倒すものは、新しい鮮明な具体的イメージをそなえたものでなければなるまい。    古出雲滅亡の伝承 『古事記』の中の、「国譲り」と呼ばれてきた、古出雲滅亡の伝承は、わたしにとって、読むたびに強く心惹かれながら、なにかわかりきらずにモヤモヤとしたものが残るふしぎなものであった。特に次のオオクニヌシの子コトシロヌシの自決の節がそうであった。 [#ここから1字下げ]  かれ、ここに天の鳥船の神を遣はして、八重事代主《やへことしろぬし》の神を徴《め》し来て、問ひ賜ひし時に、その父の大神に語りていひしく、 「かしこし。この国は、天つ神の御子《みこ》に奉らむ。」 といひて、すなはちその船を[#「その船を」に傍点]踏《ふ》み[#「み」に傍点]傾《かたぶ》けて[#「けて」に傍点]、天《あめ》の[#「の」に傍点]逆手《さかて》を[#「を」に傍点]青柴垣《あをふしがき》に打ち成して[#「に打ち成して」に傍点]、隠りき[#「隠りき」に傍点]。 [#ここで字下げ終わり] 「船を踏み傾けて、天の逆手を青柴垣に打ち成して」の神隠れとは、どんなことだろう。いくら考えてもわからないが、神秘きわまる死に方のようにも思える。それにもうひとつ、いったい、人間、死ぬにはそういう儀礼めいた手つづきがいるのか、いる人といらない人があるのか、いや、人間でない神の物語だからそうなのか、というわたしの個人的な年来の疑問もつきまとっている。実は、華南の最前線で日本の降伏を知った時、とても生きては帰れないだろう、どんな死にざまになるのか、と自分のことを思った。と同時に、天皇の自決はどんなふうであったのだろうか、ということもすぐ頭に浮かんだ。すると、この国譲りの場面がおのずと思い浮かんできた。その記憶は消えては蘇り蘇り、いまもわたしにつきまとっている。  なにもかも伝承で、伝承は空想の産物だというのなら、それでもよい。しかし、それにしては、このコトシロヌシの死のくだりは細部描写に富み、迫力がある。これはどうでもよい伝承の末梢部分ではなくて、おそらく、伝承者にとっての相当に重要な部分に違いない。それに国譲りの伝承というのは、記紀では、実に執拗に反覆して、その挫折と成功の過程が語られる伝承である。アメノホヒの神を下したがもどってこない。アメノワカヒコを下したが、向こうに靡いてしまった。高天《たかま》が原《はら》では三度目の正直をねらって、タケミカズチの神を送って交渉に当らせる。話を盛り上げるための反覆としても、記紀では類例の少ないことといわねばならない。よほど強烈な、空想をそそるような原歴史体験が、やはり、底に横たわっているのではなかろうか。  それにもまして不審に耐えないのは、『古事記』では、子どものコトシロヌシが国譲りを進言して神隠れしたのに、父のオオクニヌシは、「ただ、僕《あ》が住居《すみか》をば、天《あま》つ神の御子の天津日継《あまつひつぎ》知らしめすとだる[#「とだる」に傍点]天《あめ》の御巣《みす》なして、底つ岩根に宮柱|太《ふと》知り、高天《たかま》の原に氷木《ひぎ》高知りて治めたまはば、僕《あ》は百《もも》たらず[#「たらず」に傍点]八十隈手《やそくまで》に隠りてさもらひなむ」と、天つ神と同待遇の住み家の保障だけを求めて、隠棲することである。生き残るのである。 『日本書紀』の方は、コトシロヌシは、「海の中に八重《やへ》の蒼柴籬《あをふしがき》を造りて、船《ふな》の《へ》を踏《ふ》みて避《さ》り」、父のオオアナムチも、「『いま、われ、まさに百たらず八十隈手に隠れなむ』とのたまふ。のたまふこと終はりて、遂に隠《まか》りましぬ」と去ってしまうことになっている。宮を建てる、という話はないから、死んでしまった、の意と理解できそうである。元来、「八十隈手に隠れ」るというのは、幾重にも隔てられた遥かなあなたの見えない片隅に隠れる、という婉曲な表現だけに微妙なのだ。同じ『書紀』の一書の条では、子どものコトシロヌシの身の処し方には触れず、高天が原からオオアナムチの処遇に関する命令が、 [#ここから1字下げ]  いま、汝《いまし》が申すことを聞くに、深くその理《ことわり》あり。かれ、さらに条《をちをち》にして勅《みことのり》したまふ。  それ、汝が治《しら》す顕露《あらは》の事は、これ吾孫治《すめみましら》すべし。汝は以て神事《かみのこと》を治すべし。  また、汝が住むべき天日隅《あまのひすみの》宮は、今造りまつらむこと、すなはち千尋《ちひろ》の栲縄《たくなは》を以て、結《ゆ》ひて百八十紐《ももむすびあまりやそむすび》にせむ。その宮を造る制《のり》は、柱は高く大《ふと》し。板は広く厚くせむ。  また、田《みた》作らむ。  また、汝が往来《かよ》ひて海《わたつみ》に遊ぶ具《そなへ》のためには、高橋・浮橋および天鳥船《あめのとりぶね》、また造りまつらむ。  また、天安河《あめのやすかは》に、また打橋《うちはし》造らむ。  また、百八十縫《ももあまりやそぬひ》の白楯《しらたて》造らむ。  また、汝が祭祀《まつり》を主《つかさど》らむは、天穂日命《あまのほひのみこと》、これなり。 [#ここで字下げ終わり] と届き、それを聞いたオオアナムチが、「すなはち、身に瑞《みつ》の八坂瓊《やさかに》を被《お》ひて、とこしへに隠れましき」と隠れた結末になっている。「天の日隅」に祭られる、ということは、結局、神隠れた、死んだということかもしれない。それにしても、彼の最後はあくまで〈神隠れ〉で、海に入ったコトシロヌシの最期のように、この世の人間の最期に似せては語られないところに、なにやら父子の神の扱い方の違いが感じられる。  ひょっとすると、出雲の父子の神は、父子と伝承されているまでで、もっと違った、こういう最期についての扱いが同一には出来ないような、性格のものかもしれない。    神の所有形態  この国譲りの親子神の死に方についての永らくの疑問が、ある時ほぐれかかって、わたしが、わたしなりの、日本の神と〈神の所有者〉についての一定の考えを抱くようになるのには、ひとつのきっかけがあった。  その時、わたしは、いったい、コトシロヌシとは何者のことなのか、と自分に問いかけた。そこから小さな緒口《いとぐち》が見えてきたのだが、その問いが心に浮かぶまでに、もうひとつ前段階がある。  わたしは、肩で深い茅を分け分け、背中の荷の重みに喘ぎながら、月夜見山(東京都西多摩郡。一一四七メートル)の西尾根の登りを進んでいた。近ごろ草を刈らなかったと見えて、けものみち[#「けものみち」に傍点]のようだった。六年前の夏のことで、前夜鞘口峠で幕営し、夜明けに三頭《みとう》山(一五二七メートル。奥多摩湖の西南端に聳えている。)へ往復し、風張峠からこの登りにかかったのは、尾根を縦走して、御前・鋸から、昼までに大岳にたどりついて、他の三つのパーティと合流するためだった。足もとにホトトギスの花をいくつも見つけたことも、覚えている日だ。 [#ここから1字下げ] 〈……ツキヨミ、……万葉時代には、月のことがツキヨミだった。だから、月夜見なんて字で書くが、ほんとうは≪月の山≫という名じゃな。アフリカにある山のようだ。……すると、この山は西側の村に顔を向けていた山だな。西の方の人が永年望み見てきた山だ。……〉 [#ここで字下げ終わり]  わたしは山では、苦しい時には懸命に考えごとをする癖がある。この山にツキヨミの名をつけたのは、いまは湖底に沈んだ部落か。一九四三年の初秋、湖底の温泉宿に泊まったのがはじめてで、……などと小河内の村々とのつながりを考えてみたり、麓の村々の二十三夜さまの碑のある場所を知っているかぎり思い浮かべ、この山との方位関係を考えてみたりした。裾の日指《ひざす》だと、……。湖の向こうの川野だと、……。月待講のことで考える種子が切れた時、考えることを変えた。 [#ここから1字下げ] 〈ツキヨミは月、月読尊《つきよみのみこと》の山か。死んだ妻イザナミを慕って黄泉国へ行ったイザナキが、追われて逃げ帰り、海へ入ってみそぎする。その時、左の眼を洗うと、アマテラスが生まれ、右の眼を洗うと、ツキヨミが生まれた。  ……だが、ほんとうは、ツキヨミは月神そのものなんかじゃないはずだ。ヨミは「鯖《さば》を読むな」の「読む」で数えることのはず。月を数える神——神じゃない月齢視測者だ。月を祭る人のことじゃないか。ひとりじゃない、……一族だろう。〉 [#ここで字下げ終わり]  この地上のあちこちに、ヒジリ(日知り)という太陽視測者や、モノシリ(霊《もの》知り)という霊力察知者たちが、ツキヨミ(月視測者)などとともにいた太古の日本。かれらはそれぞれに地方の司祭者で権力を持っていた。大和でヒジリと呼ばれた者たちの末裔=天皇家がいまも神聖視されているように、それは小規模なそれぞれの神聖家族だったに違いない。そこまで考えてきた時、わたしは、 〈あっ! 出雲のコトシロも、……〉 と思いいたった。  日本の神々のことを考えるには、その所有者たちのことも考えなければならない。それがその時得たものだった。——日本の神は、個々に人に所有されていた段階がある。    聖家族の技能  わたしにとっては、≪月の山≫で恵まれた考え方だから、ツキヨミ家のことから考えていこう。 〈神〉と〈神を祭る者〉が融合、もしくは混乱して、神の権威を鎧った〈神を祭る者〉が天空へ上げられて〈神〉となっていく。ツキヨミはそういうものだ。信州諏訪の上社の大祝《おおほり》の家が神《じん》と呼ばれているのは周知のことだが、各地にいる神《じん》さん・大神《おおかみ》さんは、実は神代《こうじろ》さんという苗字の人と同じ性質の人々なのであろう。神の憑代《よりしろ》となる人、神を招《お》ぎ下す人——神代とありのままに呼ばれる人々もあれば、権威に包まれて神とか大神とか呼ばれる人々もある。  それにしても、わが国の神について考えてきた人々が、神を、山の神、水の神、道の障《さ》えの神などと神一般として考えることが多く、それが誰れにとっての神であるかをあまり論じなかったのは、やはり片手落ちだった。土地の人々が感じとる、そういうみんなの神でありうるものがある一方、わが国の原始社会のある段階以降は、その土地で最も強力な神は特定者の所有に帰していったように考えられる。そういう特定者の神の私有形態が生じ、それが社会機構を大きく制約していくことを考慮に入れると、わたしは、神の所有主=〈神聖家族〉のことや、その〈神〉の所有形態のことを抜きにして考えた、原田敏明の『日本古代宗教』や『古代日本の信仰と社会』などの研究は、尊敬しながらも、神を一般化しすぎてしまっている印象を抱く。あの創見に満ちみちた柳田国男の研究、折口信夫の研究についても、〈常民〉の神で日本の神の歴史全体を覆いすぎた、という感じをもたざるをえない。  日本の神の祖型を、〈祖霊〉とみる柳田国男と、〈来訪するまれびと(ストレンジャー)〉とみる折口信夫——あの深く尊敬し、いとおしみ合った師弟は、晩年になって、おたがいの神についてイメージをぶっつけ合ってみて、その根深い違いに驚いたのだった(柳田国男・折口信夫対談「日本人の神と霊魂の観念そのほか」『民族学研究』一四の二、一九四九年)。片や死霊に、片や生身《なまみ》の人間にと、ふたりの巨匠の神の祖型の見つけ方の違いもさることながら、同時に、このふたりの民俗学的方法が、思わず知らず飛び越えてしまったものについても、わたしは考えこまざるをえない。神は誰れにとってもの神とはかぎらない。そして、祭る者の祭る技能の優劣が祭られる神の優劣をも決していくような、人対神の問題として、日本の神を考える必要が広汎にあるのではなかろうか。神の問題を祭る人間の方から考えていき、そこから、それぞれの神の個性をも、だんだんと突きとめていくべきではないのか。わたしはそう考えるようになっている。  ところで、当面のツキヨミ家のことを考えようとすると、どうしても、土地の固有神と渡来神、神祭り技能の古さ・新しさの問題にぶつかる。 『延喜式』をみると、ツキヨミの社は、次のような分布である。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  山城の国|葛野《かどの》郡 葛野に坐《いま》す月読の神の社  [#4字下げ]綴喜《つづき》郡 月読の神の社  伊勢の国|度会《わたらひ》郡 月読の宮二座  壱伎《いき》の島    月読の神の社 [#ここで字下げ終わり]  これらの神社の相互関係や山城・葛野の月読社の社家をめぐる錯綜した懸案点をみごとに解析した、神道史学の西田長男の『古代文学の周辺』(一九六四年)の「日本神話の成立年代——古事記の大年神の神系を通路として——」は、ツキヨミ家のことを考えていくのに大切な業績である。西田氏は、そこでは、外蕃(帰化人)系の山城・太秦《うずまさ》の秦氏が祭った大年の神系の神々の神話が、大和朝廷の神話体系に編み込まれるのをひとつの目安として、日本神話の成立年代を推定しているのだが、ツキヨミの神も、秦一族の祭った神かどうかという点で、氏の問題とするところになっている。  現在の葛野の月読社は、京都市右京区の松の尾神社の境外摂社で、世襲の社家は秦氏である。ところが、一方、この社には、壱岐の月読の神を勧請《かんじよう》してきたのだ、という伝承があり、『日本書紀』の顕宗天皇三年二月条の記載は、むしろその方に符合する。 [#ここから1字下げ]  阿閉臣事代《あへのおみことしろ》、命をうけて、出でて任那《みまな》に使す。ここに、月神、人にかかりて謂《かた》りて曰《のたま》はく、「わが祖《みおや》高皇《たかみ》産霊《むすび》、預《そ》ひて天地を鎔造《あひいた》せる功|有《ま》します。民地《かきところ》を以て我が月神に奉れ。もし請《こ》ひのままにわれに献らば、福慶《さきはひ》あらむ」と。事代、これによりて、京に還りてつぶさに奏す。奉るに歌荒樔《うたのあらす》田を以ちてす。壱伎県主《いきのあがたぬし》の先祖押見の宿禰《すくね》、祠《やしろ》に侍る。 [#ここで字下げ終わり] これによれば、月読社の社家は壱伎の県主家の系統であるべきで、秦氏では困る。ところが、本来紛れもなく帰化人の秦氏であるべき、別神を祭った本社の松尾神社の社家の方に、かえって、「松尾社家系図」(『続群書類従』所収)のように、自分たちは押見宿禰の子孫で伊吉連《いきのむらじ》の後裔だ、と言い張った時期がある。西田氏は、この錯綜する両社家の関係を、本来無関係であった両社が距離的に近いため、両社家に交渉が生じ、片方の強豪秦氏の中に、他方が拮抗しつつも呑み込まれていく歴史として、明確にしえた。帰化人系の秦氏が、時代によっては、先祖は伊吉|連《のむらじ》であると名乗りたくなったりしながら、結局は、壱岐からきた月読社の社家の方にも秦氏を名乗らせたのだった。遡っていけば、松尾は秦|公《のきみ》の氏神、月読は伊吉|連《のむらじ》の氏神である。そして、西田氏は、ツキヨミの神は亀卜の術に長じているため都へ呼ばれ、朝廷の神事に奉仕するようになった壱岐の卜部《うらべ》たちの神だから、卜占の神である、と考える。また、同じ右京に住む点からみても、この月読社の伊吉連は、『新撰姓氏録』の伊伎直《いきのあたい》の一族ともつながりがあろう、ともいう。  このような乱麻を断つ西田氏の解明に賛成しながらも、なお、わたしがこだわるのは、亀卜の壱岐の卜部の氏神がツキヨミであるから、月読の社が勧請された、とみる点である。そうではなくて、かれらこそ文字通り〈月読み〉として、月を読む技能のゆえに、招かれた人々ではなかっただろうか。かれらが〈月読み〉だから、ツキヨミの神を祭った、とみるべきではなかろうか。月を読む技能を持つ人々が大陸への海の中つ道、壱岐の島から呼ばれてきた。それは、たとえば『大衍暦経』とか『大衍暦経立成』(奈良時代に吉備真備の将来した暦法書)といった形で、〈暦の本〉と暦法の学者が大陸から入ってくるような段階以前に、コヨミ(日読《かよ》み)の技能者として〈月読み〉という月神の司祭者が招来される段階を、想定すべきではなかろうか。亀卜はむしろ、かれらのその技術体系の一部分であろう。かれらが、『書紀』のいうように、壱伎の県主として遇されたとすれば、それは、その島での〈月読み〉の地位を反映したもの、とみるべきだろう。その後、大陸からはさらに新しい天文暦法の術が導入された。壱岐の〈月読み〉たちの月を読む必要は消滅する。かれらは、本来の特技でなく、亀卜をもって存在意義を主張しなければならなくなる。わたしは、まだその道すじを史料で立証できないが、そう考えるべきだと思う。 『万葉集』に、大伴|家持《のやかもち》の [#ここから1字下げ、折り返して4字下げ] 4492 月|数《よ》めばいまだ冬なりしかすがに霞たなびく春立ちぬとか [#ここで字下げ終わり] という歌があるが、壱岐からきた頃の〈月読み〉たちの月の読み方は、玄界灘の航海が必要としていた海洋科学的知識面を持つ信仰で、家持が月を読むのよりははるかに科学的な面と、はるかに神秘的な面を具えていたように推測される。  壱岐の〈月読み〉たちの月の読み方の特色は、にわかに探りがたいが、『万葉集』では [#ここから1字下げ、折り返して4字下げ] 985 天《あめ》に坐《ま》す月読壮子《つくよみをとこ》幣《まひ》はせむこよひの長さ五百夜継《いほよつ》ぎこそ(湯原の王) [#ここで字下げ終わり] と、いとしい人と逢いえたこの夜の永続を願う相手は、「天に坐す」ツクヨミオトコであるが、そのツクヨミオトコは、 [#ここから1字下げ、折り返して4字下げ] 3425 天橋《あまはし》も 長くもがも 高山も 高くもがも 月読《つくよみ》の 持てる変若《をち》水 い取り来て 君に奉《まつ》りて 変若《をち》得しむもの(作者未詳) [#ここで字下げ終わり] というふうにオチミズ、すなわち若返りの霊水の所持者であるという。月としてのツクヨミ——月の中の人としてのツクヨミオトコ——その人の持つ霊水オチミズという一系列の月をめぐる思想が、『万葉集』の中に見られるのである。しかし、万葉人は、月=ツキヨミという考え方をいつでもしているのではない。一般的には月は月であり、祷《ね》ぎごとその他の場合に、月をツクヨミと見立てることが多い。これは、どうも、山城の葛野に氏神を持つ伊吉|連《のむらじ》たち特有の信仰や思想の特異性に、万葉人がインタレストを抱いていたことを示すものではないか、とわたしには思われる。ツキヨミをよんだ歌は、歌としては、その点、テクニックを弄した表現のもの、といえるかもしれない。従来、このツキヨミのオチミズの思想は、わが国古代社会に一般的なものと考えられてきたが、多くの場合、どこまでも月は月であるのが万葉的世界らしいから、ツキヨミオトコという考え方は、神祇官で相当重要なポストについていた壱岐の卜部、すなわち〈月読み〉たちが運んできた、〈壱岐的なもの〉と考えるべきではないだろうか。  ところで、壱岐の豪族が祭っていたのが月神ツキヨミであるのに対して、対馬《つしま》の豪族|下県直《しもつあがたのあたい》が祭っていたのが日神アマテルミタマ(この段階では、アマテラスオオミカミともいわれているオオヒルメムチとは、一応別として考えた方がよい)であった。その神の勧請を、『顕宗紀』によれば、ツキヨミの神の勧請の二月後、同じ阿閇臣事代《あえのおみことしろ》が奏請している。『延喜式』に対馬の下県郡の|阿麻※[#「低のつくり」、unicode6c10]留《あまてる》神の社とあるのがその本宗で、勧請してきたのが、山城の木島《このしま》に坐《いま》す天照御魂《あまてるみたま》の神の社。月読社と同じ京都市右京区に鎮座する。時を同じうして、朝鮮海峡の洋上に両の眼のように浮かぶ二島から勧請してきた神が、神話でも、イザナキの命が左右の眼を濯《すす》ぐ時、アマテラス大御神とツキヨミの命として一双のものとして生まれ出ている、という暗合は、もっと突っ込んで考えるべきことかもしれない、と思う。  が、わたしは、いまは、それよりも、同じような月神信仰を持っていたらしい、やはり島に住む、もうひとつの権力者のことの方に心を惹かれる。    聖家族の変貌  伊波普猷の「つきしろ考」(『をなり神の島』〔一九三八年〕所収)は、一九三二年に書かれたものだが、沖縄の第一|尚《しよう》王朝の発祥地、佐敷の苗代《なわしろ》にある、三山統一の英主尚巴志の初湯を使った屋敷跡に祭られている石神|月白《つきしろ》の研究である。伊波氏は、『おもろさうし』に [#ここから2字下げ]  なわしろの みやに  月しろば てづて  つきしろす  なさいきよもい  まぶりよわめ 又けよのよかるひに [#地付き](巻一九の一二) 〔苗代の庭に  月代を手をすり祈って  月代こそ  わが大君を  守り給わん  今日の良き日に〕 [#ここで字下げ終わり] とあるツキシロの神の本来の姿を「月神の憑依するもの」であったツキシロとみる。そのツキシロが佐敷の小按司家の産土《うぶすな》神となり、さらに軍神に変っていったのは、第一尚氏の発展とともどもであったようだ。そして、第一尚氏の王朝は第二尚氏に滅ぼされるが、第二尚王朝は、その軍神ツキシロの祭りを引き継いでいったのである。また、本来月(「月しろの大主《おおぬし》」という)を祭っていたツキシロの佐敷の尚氏が王となってからは、そのツキシロの役は専門司祭の手に委ねられたとみえる。『おもろ』に、 [#ここから2字下げ]  きこゑ大きみぎや  あけの よろい めしよわちへ  かたな うちい  ぢやくに とよみよわれ  とよむせたかこか  月しろは さだけん  物しりは さだけん [#地付き](巻一の五) 〔名高き大君が  朱の鎧を召し給うて  太刀を佩き(打ち出で給ふ) (御名)大国鳴り響《とよ》み給へ  稜威《みいつ》高き君が  月代を先立てて  巫《ものしり》を先立てて〕 [#ここで字下げ終わり] とツキシロと「物しり」(沖縄では巫覡のこと)を同格として反覆していることから、そう察せられる。歌い上げられたところでは、司祭者ツキシロは、出陣に際して、王の先導役として進軍するのであった。  司祭者の権力の拡大によって、祭られる神の性格が変っていくということは、時代的には遅い沖縄の場合だけではあるまい。沖縄では、〈月代《つきしろ》〉そのものであったはずの第一尚氏の祖は、ツキシロの神を奉じて月を祭っていたとみられるが、本土の古出雲でも、オオナモチの〈事代〉であった支配者が、コトシロヌシの神を奉じて、全出雲に号令していただろうと推測される。コトシロとは神事《かむごと》(神言《かむごと》)の代行者のことであるが、かれらの権力の増大によって、自分たちコトシロの神格化であるコトシロヌシの神が、出雲を治める神オオナモチの子である神へと昇格してしまったのであろう。 [#挿絵(img/101.jpg)]  壱岐のツキヨミ、沖縄のツキシロ、出雲のコトシロと並べてみると、日本の神の共通の特性のひとつらしいものが浮かび上ってくるように思える。日本の神はみずから立ち現れず、これらの神を祭る者に神の態《わざ》をさせる。その神のふるまいの代行をするために、神の代《しろ》、すなわち神を祭る者ツキシロ・コトシロたちと、祭られる神との区別がつきにくい。神を祭る者がしばしば神を僭称する理由もそこにある。が、その場合、またひとつの特色とみてよいらしいことは、出羽・月山の〈物忌み〉たちが大物忌の神を立てたように、〈月読み〉たち、〈月|代《しろ》〉たちは、祭る神=月を僭称せず、ツキヨミの神やツキシロの神の名を立てて、その神の子であることを僭称するという手つづきをとる。こういう自身の神格化が、結果的には、氏の職能の神を奉じて、本来の神を祭る、というややこしさを生じたのだろう。 〈祭る技術〉が神と豪族としての司祭者の間に介在しなければならない、したがって神を祭る者を通路としてだけ、神と対面しうる、ということが、日本の原始・古代の信仰の政治的性格であり、神が人々のために解放されなかった理由である。神は司祭者たちの手に捕えられていたのである。 『万葉集』における月とツクヨミオトコ(ツキヨミの神)とツクヨミの混同・同一視はまず、このように解きほぐされる必要があろう。神を祭る技能・技術が〈月を読む〉というふうに比較的に技術化され、司祭の主体性から遊離されかけたものでも、内実は、神の〈シロ〉となる方法から全くは脱しきっていなかった。そのことが、『顕宗紀』の「月神、人にかかりて謂《かた》りて曰《のたま》はく、」で推測できるのである。コトシロたちの主体性に深く依存していて、司祭者から解放されようのない神になったという日本の神の発展の仕方が、日本の歴史を運命づけている面があるようにわたしは考える。  月は天空にある。しかし、ツキヨミやツキシロの身体を通してしか、人々に神として働きかけない。これは、〈神が虜囚である〉状態とも、神聖家族に独占されている状態ともいってよいが、問題の根はもっと深いところ、日本人の〈主体性〉の構造であるかもしれない。感じとった〈神〉を客体化できず、神がかりという方法だけで表現する。主体の感受するものを主体からつかみ出し、つきはなして、独立させることがない。そういう〈神の見つけ方〉〈神の育て方〉が、司祭者たちが地方豪族化し、さらにもっと強大な支配者となって居すわっていく歴史を生んだ、と見てよいかもしれない。    聖家族の断絶  日本の神は性格を変えては生き延びる。農業神稲荷大明神が商家や水商売の人々の守護神となり、菅原道真の怨霊をなごめるために祭られた天満天神は学問の神となった。神の変質は実は祭る者の側の変質を意味している。  出雲の国の支配者オオクニヌシが高天《たかま》が原《はら》側へ国を譲らねばならなくなった時、記紀の神話の中で、その全責任を負った出雲側の神はだれかというと、すでに触れたように、「天《あめ》の下作らしし大神」(『出雲国風土記』)とも大国主(記紀)とも尊称される、オオナモチ自身ではなかった。その子|八重事代主《やえことしろぬし》の神であった。この国の大神ではなくて、そのコトシロたちの神であったことになる。 『古事記』の記述に即していえば、高天が原の使者タケミカズチの神の要求に対して、オオクニヌシは、「僕《あ》はえ申さじ。わが子、八重|言代《ことしろ》主の神、これ、申すべし。しかるに鳥の遊びし、魚《な》取りに、御大《みほ》の前《さき》に往きていまだ還り来ず」と答える。『書紀』の方でも、「まさにわが子に問ひて、しかうして後に報《かへりごとまを》さむ」となっている。なぜ、オオクニヌシは答えることができないのか。神話の世界には、すでに隠居制度が施行されてでもいたのだろうか。こういう奇妙なことは、実はオオクニヌシとコトシロヌシとの関係に起因しているわけである。この二神は父子ということになっているが、子の方は、『古事記』に「八重言[#「言」に傍点]代主の神」とも「八重事[#「事」に傍点]代主神」とも書かれているように、神の言代《ことしろ》であり、神の事代《ことしろ》であるから、祭る神と神格化された祭る者との関係に過ぎないことは疑えない。司祭コトシロヌシの方が祭る神オオナムチの国譲りについて意志決定権を持っている、という神話の性格は、ごく普通の常識からみれば、奇妙でありながら、わが国の原始・古代社会における信仰形態の特性、祭られる神に対する祭る者の優位性を、はからずも露呈してしまった伝承、といえよう。  出雲でヤエコトシロヌシという祭る技術の神を奉じて、ひとりマグマの神の神意をうかがいえたコトシロの一族こそ、古出雲の平定者であったが、かれらの屈服の後、おそらくは大和朝廷の斡旋によって、土地の支配権とオオナモチの祭祀権をひきついだのが、今日、出雲で〈国造《こくそう》さん〉と尊称される、千|家《げ》・北島家の祖|出雲臣《いずものおみ》たちであろう。人民の支配権と神を祭る技術とは、なお分離しえない状態にあった、とみられる。  国譲りによって、出雲の中心部、玉造の湯の神オオナモチは、はるかの辺地|杵築《きづき》に祭り遷された。そして、熊野の神(熊野櫛食野命《くまののくしみけぬのみこと》を祭る意宇《おう》郡の熊野神社)を奉じて、この時以来連綿と大勢力を張ってきたのが、〈国造さん〉すなわち意宇郡の大領兼出雲の国造《くにのみやつこ》出雲の臣家だが、熊野の神クシミケヌは、妙美食《くしみけ》の名の現わすように、食物の神とみられる。地底の火の神オオナモチを、その神意をうかがう神(コトシロ)を奉じて祭ってきたこれまでとは、事情が違ってきたわけであるが、新しい支配が神の領略でもある以上、祭祀の内実における断絶は問題にならなかったようである。マグマの神の神意を聞こうと欲したこの地方の人民たちは、すでに相当な農業生産力を持つ生活者に成長しており、かれらが神の変質に疑問を投げかけることはなかったろう。まして、すでにオオナモチの神は支配に必要な権威になりきっていた。〈権威〉の神であり、それ以外ではなかっただろう。杵築の大社の規模の壮大は、滅びた者の権威を表わすのではなく、いま祭ろうとする者の権力のほどを示すものであった。「杵築《きづき》」の地名そのものが、その新しい祭り手の起こした大事業を記念しているのである。  だから、杵築の大社の祭祀の根源的なものは、みな意宇の熊野の方にある。「国造新に就職の時は、火継《ひつぎ》式として、最も重き神式を執行し、一生其神火を以て煮たるものを食し、家族といへども、火を同くせず、此時|鑽《きり》出したる火は、終生邸内の斎火殿(俗に火所といふ)に保存し、一生一火と云へり」(千家尊福『出雲大神』一九一三年)。そういう掟を持つ国造家だが、火継式の火は、熊野神社からきている。  火継式を行なうのは、国造家の祖先|天穂日命《あめのほひのみこと》が杵築の大社の祭りをつかさどるようになった時、熊野のクシミケヌの神から燧臼《ひきりうす》と燧杵《ひきりぎね》を授けられた、といういわれに基くもので、燧臼すなわち火切り板は長さ三尺一寸五分、幅四寸、厚さ一寸、これは熊野の神山(熊成峰)の檜《ひのき》で作られている。火切り杵の方は、長さ二尺七寸、径は四分五厘、空木《うつぎ》で作られている。毎年十一月中の卯《う》の日(新暦になってからは十一月二十三日に一定)の新嘗祭の際に、杵築から熊野神社へ火切り臼、火切り杵をもらいに行くことになっているのも、やはり同じ原理から出たことである(以前は祭の前日、いまは十月十五日)。大昔は新嘗祭は熊野へ出向いて執行していたが、いつの時代からか、熊野神社の所在地は山間で積雪深く、通路が絶たれることがあるので、八キロメートルばかり下った大庭の神魂《かもす》神社で執行することになり、明治以降は、杵築の大社でしているのである。  この大庭の神魂神社で新嘗祭が行なわれた頃、そこでは奇妙なしきたりがくり返されていた。大正の頃の国造家の当主千家尊福の筆つきをそのまま写すと、 [#ここから1字下げ]  祭日の前日国造斎火殿の器具を携へ、神人随従して、大神神領出雲郡富村(今簸川郡)にある別館に泊し、翌朝大庭の別館に着すれば、直に神官秋上別火職以下伺候す。次いで熊野神社の社人、亀太夫、火燧臼火燧杵を持ち来る。初国造の杵築を出づる時、鏡餅一対を大庭に持ち行きて、亀太夫に渡せば、亀太夫は本年の鏡餅は昨年のより小なりとか、餅米色黒しとか、或は餅粉粗雑なりなど、色々の苦情を並べて、不満足を云へば、国造の従者は其然るにあらざるよしを弁じて、右火燧臼火燧杵を受取る式なり。彼の出雲の方言に驕嬾の者を亀太夫と称するは、此式より起れるなり。 [#地付き](前掲書) [#ここで字下げ終わり] というふうである。  現在の出雲大社はたしかにオオナモチを祭っているが、祭る者の信仰の根拠地は、亀太夫らが守っている熊野である。二つの原点を持っている。しかし、これはむしろ、国譲りと深くからみ合っている、杵築《きづき》の大社の創建の歴史そのものが含んでいる矛盾といえよう。その前史として古出雲の司祭者コトシロの断絶、マグマの神を祭る技術の断絶が横たわっている。  神話では、コトシロヌシは自決したが、オオナモチは宮を造らせてそこに鎮まる。現実には、杵築の大社に祭られていることを指すわけである。なぜ、オオナモチも、海中に青柴垣《あおふしがき》を作り、その中でのろいの天の逆手《さかで》を拍ち鳴らして、船を踏みかたぶけて沈まないのか。政権を失った側は自決する。それが日本の神話の世界の鉄則らしいが、その際、かれらとかれらの祭った神との処置のされ方が違う。支配者は滅ぶが、祭った神は受け継がれる。というより、その地方の支配者であった神聖家族にとっては、司祭権を失い、神を奪い取られることが、存在の意味を失うことになるのであろう。わが国の古代天皇国家の成立過程では、中国でいえば、天の命を革《あらた》むるということになる革命、すなわち王権の交替は、このような方式を採った。神は殺さない、祭る者は殺す、という法則の適用の結果か、八世紀に編まれた『出雲の国風土記』には、コトシロヌシの神は一切登場しない。これほど重要だった神の鎮まった場所も記録されていない。オオナモチのコトシロたちが滅亡しては、その職能神コトシロヌシも滅びざるをえないわけである。『風土記』の世界では、オオナモチだけが活躍している。ずっと後世、コトシロヌシが出雲の各地に他の神との合祀の形で蘇ってくるには、相当な手続を要したのである。    伝承の混淆  ところが、抹殺されたコトシロヌシの自決にちなんだ儀礼をずっと続けているところが、一箇所だけある。島根半島の突端に近い美保が関の美保神社で、神事は青柴垣《あおふしがき》神事と呼ばれている。まさにコトシロヌシの選んだ自決の地でもある。  ここは、町の人が順に一年神主になる、厳格な頭屋《とうや》制を保っていることで有名であるが、問題の神事は、三月三十一日の頭屋の参籠にはじまり、四月七日の御解除《おけど》の儀で完了する春の例祭の後、四月八日に行なわれる。その青柴垣神事の次第は、『官国幣社特殊神事調(四)——神祇院事務資料——』(一九四一年)に記録された、一九二四(大正一三)年の調査によって大筋を追うと、こうである。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 1 神職各一人行列を整え、波切《なみきり》の御幣を納めたる辛櫃を奉じて、一の御船、二の御船に分乗する。 2 頭屋は、おのおのその御供物を辛櫃に納め、上番準番を従えて乗船。一の頭屋は一の御船に、二の頭屋は二の御船に乗る。 3 御神楽の音起これば、あまたの壮丁のエイエイ声、綱さばきに従い、二隻の御船を港の中心に引き出す。 4 鼓声急調に達すると、二隻競いて、一気に宮の灘にもどろうとする。この時、港内の近郷近国からつどった船や、海岸の人垣から拍手、叫び声おこり、山に響いて、群衆の心理も最高潮に達する。 5 奏者番、宮の灘より社頭に馳《は》せて、御船到着の旨、御殿番に申すこと三度。 6 猿田彦の面役、鈿女《うずめ》の面役、迎えに出て、帰殿。 7 巫子《みこ》、八乙女《やおとめ》、御船に分乗、巫子《みこ》舞を舞う。 8 上陸。田楽舞を先頭に、巫子・八乙女進み、両頭屋の妻である被衣《かつぎ》の小忌人《おんど》は、屈強の男の背に懸けた負《も》り棒《き》を踏まえて負われながら、田楽に合わせ、あるいは屈《かが》み、あるいは起ちつつ進む。 9 神職は波切の御幣の辛櫃を殿内に納める。両頭屋は、神門内の床几に着席、次に、幣を捧げて拝礼。 10 両頭屋、次の両頭屋を指名すれば、使者その家に走る。 11 神殿閉扉。両頭屋は、神職に対して御慶を申す。相撲《すもう》の儀(跪坐して、髪に指した小幣を奪い合う)二度。終わって、一同退下。 [#ここで字下げ終わり]  この青柴垣神事を、いったい、どういう性格のものと見定めたらよいものだろうか。  この神社については、和歌森太郎に『美保神社の研究』(一九五五年)がある。それによれば、この青柴垣神事に用いる神船は、|※[#「木+若」、unicode6949]《しもと》がらみといって、二隻ずつ結びつけて一組になっている。その上に、皮つきの黒木の雑木幾本かを一柱にまとめて四隅の柱とし、上部に榊をつける。内に筵を敷き、苫《とま》屋根を張り、四周は幕。幣をつけ、注連《しめ》を張り、彩旗を立てる。一の頭屋、二の頭屋は一年間日々みそぎ[#「みそぎ」に傍点]して潔斎した人たちだが、この神船に乗り込む時には、「頭家神主は既に神懸っているので一人で歩けぬ。脇だきと称して、屈強の神官がこれを抱えるようにして連れて行く」というような注目すべき状態になっている。船が海上に曳き出されると、神船の青柴垣の中では、神がかりの頭屋に対して、こういう儀式が行なわれる。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 1 御船番が斎錫《いすず》箱を開き、まず白彩にて頭屋の顔を化粧し、つぎに紅を額にひとつ、両頬にひとつあて、薬指の頭にて丸く紅を押し、櫛を出して、頭屋の髪を撫でる。 2 斎錫箱の蓋にするめ[#「するめ」に傍点]・昆布を供え、盃に酒を注ぐこと三|献《こん》。小忌人《おんど》にも同様。 3 頭屋におこわ[#「おこわ」に傍点]を供え、次に小忌人に供える。 4 船中一同も、するめ[#「するめ」に傍点]・酒・おこわ[#「おこわ」に傍点]を食する。 [#ここで字下げ終わり]  沖に乗り出した頭屋は、化粧を施され、酒食を供され、さて、どうなるのか。肝心要《かんじんかなめ》というべき最後の段階で、神事は終わって、船が岸へ競い合ってもどってくるとは。青柴垣の中で海中に沈む神話の最後の部分が欠脱していることになる。  このふしぎな美保神社の青柴垣神事についての、和歌森氏の見解はこうである。「美保神社における春祭、四月七日の蒼柴垣神事は、古事記に見える国譲神話の一齣と相表裏して伝承されて来たものである。……頭家の家にようやく神が降り来ってその神主に憑いたところで、頭家神主は、それぞれ大御前、二の御前そのものとなって、蒼柴垣に隠れられてから、その神々が真に落ち着かるべき処へ落ち着かれたという古代伝承を、毎年繰返し繰返し銘記して行く神事である」。だが、この神話と伝承神話のみごとな符合に対して、わたしはどうもしっくりしないものを感じている。  疑問の第一は、この神社の祭神に関することだ。コトシロヌシの神と縁の深いはずのこの美保の地においても、かれはやはり、古くは、神として祭られてはいなかったように思う。本来、オオクニヌシの廃大司祭《はいだいしさい》、コトシロヌシの鎮まるべき地は出雲にはないのではないか。〈国譲り〉とか、〈言《こと》向け〉(外交交渉による平定)も、なだらかに言いなせばなだらかにも聞こえるが、古代の王権同士の征服戦争の結果の、大司祭でもあった小王者の廃絶である。ここはほんとうにコトシロヌシの宮居なのか。  前に引いた神祇院の『官国幣社特殊神事調(四)』や『特選神名牒』(内務省、一九二五年)などの明治以後の官庁関係の文献は、この神社の祭神をコトシロヌシ一柱にきめてかかっている。しかし、それはそれらの文献の当時および現在の実際にも背いている。この美保の関の町では、「美保両[#「両」に傍点]神社」とか、「美保両[#「両」に傍点]社大明神」と呼ばれ、そういう大幟《おおのぼり》を現に立ててもいて、コトシロヌシと三穂津姫の命を祭った宮として美保神社を考えているからである。神殿の右殿がコトシロヌシ、左殿が義母のミホツヒメとし、いまは主祭神であるコトシロヌシの右殿を、地元では「二の御前」といい、相殿として祭っている左殿の方を、「大御前」とか「一の御前」とか呼ぶ。だから、現状はむしろ主客顛倒とみるべきで、ミホツヒメこそ主祭神とすべきものであろう。このような両社大明神的性格は中世においてすでにそうであったらしい。その辺を詳細に解明しようとした和歌森太郎の前掲書は、詳細に調べた結果、かえってひとつの自家撞着を犯す結果になっている。その原因は、『出雲の国風土記』の [#ここから1字下げ]  美保の郷郡家《さとこほりのみやけ》の正東《まひむがし》廿七里一百六十四歩なり。天の下造らしし大神の命《みこと》、高志《こし》の国に坐《いま》す神、意支都久辰為《おきつくしゐ》の命のみ子、俾都久辰為《へつくしゐ》の命のみ子、奴奈宜波比売《ぬながはひめ》の命にみ娶《あ》ひまして、産みましし神、御穂須須美《みほすすみ》の命、この神|坐《いま》す。かれ、美保といふ。 [#地付き](島根郡) [#ここで字下げ終わり] という記載にある。この地に祭られていた古代の神はミホススミの命で、コトシロヌシでもミホツヒメでもない。もちろん、この記載は郷名の起源を語ろうとするもので、他の二神がどこにも祭られていなかった、とするわけにはいかない。しかし、コトシロヌシのような重要な神話上の存在が、神鎮らねばならない理由があって鎮まったとすれば、『風土記』においても、その地のその神を記念してよいはずである。『風土記』の書かれ方からみてそう言える。和歌森氏は、コトシロヌシ・ミオツヒメ諸説を検討の上、「ところが江戸時代も末天保十四年公刊の『出雲国式社考』(千家俊信撰、岩政信比古校訂)には注目すべきことが言われている。すなわち風土記の『美保神社』は三穂崎なる三穂明神のことであり、それはもと二社あり、かの式内社の方は美保須々美命を祭った社である『由』だという。しかも、『今の社説は美保津姫命、事代主命を祭るといへり、此は美保須々美と申神は日本紀に無きによりて、さかしらに[#「さかしらに」に傍点]三穂津姫に改め事代主神は此崎に遊び玉ひし事、書紀に見えたるに依て祭れるならむ』、しかし風土記から考えても、美保須須美命をまつったという方が真だと言っている。本居宣長の弟子たる千家の一族俊信の説であるだけに重んじてよいようである。そして社外の一社、私が福浦の三保神社だとしている方の神社については、これが『並—二祀事代主神同第(弟)百八十神一』ところだという出雲風土記鈔の記事に従っている」といい、さらに進めて、「要するにミホという土地に最も縁の深い神をまつる社として本来あったのではなかろうか」という。  ミホススミの命説を重視する和歌森氏の考えを、わたしはこう読み取りたい。美保は穂に突き出た岬であり、それを敬称して御穂と呼ぶ。とすれば、美保は神である岬《さき》(みさきも御[#「御」に傍点]崎で、すでにそういう意味である)である。その岬の神の社だ、と。(ミホススミは岬《みほ》を無事進むということと関係があろう。)しかし、そう考えるならば、氏のように、同じ社の青柴垣神事をコトシロヌシの自決の神話と表裏するもの、と見る在地的な考えを尊重するわけにはいかなくなるではないか。自家撞着ということになろう。おそらく、混乱の本は青柴垣神事という名であろう。名を除いて実体だけをみれば、これは、コトシロヌシとかかわりない、美保の岬の神ミホススミの命の祭の最終段階の御渡り——海上への御神幸である。  当面の古出雲のコトシロのことを考えるためには、美保の青柴垣神事について考えるのは、たいへんな徒労であったように見える。確かに大きな回り路であるが、そこに、なおひとつ大切な事が隠れているように思える。日本の神がかりのあり方である。美保神社の一の頭屋・二の頭屋は、祭りの最中、神社ですでに神がかりに近い状態になり、ひとりでは歩けないので介添えに抱きかかえられて船に乗る。この状態をすでに神がかりとみる説もあるが、本式に神がかるのは、多くの人々から遮断された船上の、黒木の柱を立て幕をめぐらして作られた、斎庭《ゆにわ》においてでなければならない。頭屋は船上のこの密かな祭祀の場で化粧をほどこされる。頭屋の顔にお白粉の化粧がほどこされ、紅を額にひとつ、両頬にひとつずつ丸く塗られた時、頭屋は神になったとみるべきである。わが国には、面をかぶれば神である、という考え方があるが(中山太郎「神と面」『ドルメン』一九三三年一月号。土橋里木「偽神の譚」『旅と伝説』六の三、一九三三年三月)同じように、祭の中で神のヨリシロが化粧をほどこされるということは、その時、かれが、別人、神そのものになるということなのである。日本の神は常在しない。祭の日に訪れる。しかも、コトシロが神となって神態《かみわざ》をするという形で現われる。と同時に、その訪れた神は容易に多数の人々の前には姿を現わさないのである。  美保の青柴垣神事には、神船を拝そうと近国近在の船が出てにぎわうが、その多数の参加者の全く与《あずか》り知らない形で、船中の儀式は進む。それは一般の人々の望見すべからざる秘事である。同じような事は全国各処にみられる。烈しい喧嘩で知られた武蔵・大国魂神社(東京都府中市)のくらやみ祭(五月五日)は、深夜に七つの神輿が社を出て、御仮屋と呼ぶ神の御旅所へ出かけ、払暁にもどる、祭の最終段階で、神を御仮屋に送る神輿が闇の中で大練りに練って町筋を暴れて進み、神輿同士も夜明けの還御の際は先を争って、すさまじい喧嘩となる。浄衣をつけた白丁《はくちよう》姿の担ぎ手たちの興奮のあまりそうなるのだが、御仮屋に着いて執り行なわれる七十五箇度の神への供饌は、これらの担ぎ手や幾万の見物人の全く関知しないところである。死傷者の出るこの渡御は、数年前から白昼行なわれることになったが、この場合も、武蔵の国|総社《そうじや》の大祭に参集する人々の雑踏は、祭そのものとは全く隔離された、外延での大騒ぎにすぎない。日本の祭にはそういう顕著な性格がある。すべての人々が神事に参与する祭とは決してならないのである。  祭そのものは、くらやみ祭が、御神幸を人々に見せないために神輿の通路の灯火をすべて消すことを求めて、「くらやみ」祭と呼ばれるように、厳格な秘密性を持っている。元来は、ごく少数の事に携わる者以外は、屋内に忌み籠っていなければならない性格のものであった。長門・住吉神社(下関市)の神職が和布刈《めかり》神社(北九州市門司区)に出向いて行なう旧の大《おお》晦日《みそか》の夜の和布刈神事の折は、関門海峡の両岸の住民は、用便のためにさえも一歩も外に出ないことになっていた。隙間から海中のわかめを刈る神事の火をのぞき見することも固く禁じられており、戦前までは厳重に守りつづけられていた。そして、日本の神祭りの大衆の参加を拒むそのような性格、〈神の独占〉は淵源するところが遥かでもあった。    神がかりの密室性  美保神社の青柴垣神事の神船上の密室は、皮つきの黒木を幾本かまとめて一本の柱としたものを四隅に立てて、青柴垣を象徴しているが、コトシロヌシの神が船を乗り入れて船を踏み傾けて入水した「青柴垣」(『古事記』)とか「八重《やへ》の蒼柴籬《あをふしがき》」(『日本書紀』)とは、どういう構造のものだろうか。  現在でも青柴垣を用いるものに、京都の賀茂|別雷《わけいかずち》神社(上社)の有名な御阿礼《みあれ》神事(五月十二日)の御阿礼所がある。「御阿礼」は神の誕生の意味であるが、下社(賀茂御祖神社)の祭神|多々須玉依媛命《たたすたまよりひめのみこと》が夢の告げを受けて、ワケイカズチの神を祭った、といういわれに基いて、年々行なわれている。また、同じ京都の石清水《いわしみず》八幡宮の青山祭(一月十八日)も青柴垣を作るならわしである。この二つの祭の共通点は、神を神社の常設の神殿で招《お》ぎ降さず、臨時に作った仮宮に迎える点である。図に掲げたのは、青山祭の祭場であるが、「外の青柴垣」をめぐらした中に「内の青柴垣」を作り、その中に砂を盛り、榊を立てている。「八角形に竹を樹て南方一方を開き、八角形の竹に随ひて青柴垣を設く。青柴垣の中央に榊の枝にて冂形の内青柴垣を更につくり、……」(『官国幣社特殊神事調 (三)』)と神社は説明している。『日本書紀』の「八重[#「八重」に傍点]の蒼柴籬」という呼び方にぴったりするものである。 [#挿絵(img/119a.jpg)]  さらに注目すべきは、柳田国男の賀茂のみあれ[#「みあれ」に傍点]所にかかわる次のような考察である。柳田氏は伊豆の大島の、イボッチャと呼ばれる、村社などに集めてある境内末社に関連して、「イボッチャ」は別に、この島では、藁で囲って、上をしばったものをそう呼んでいるから、両者を考え合わせて、神の生《あ》れくる場所の姿を考えうる、とする。 [#ここから1字下げ]  それから今一つ、又やゝ変つた例を、信州の上伊那地方で私は見ました。ほこらの材料は藁では無く、樹の細い柱を上窄まりに、壺形に組み合せた上へ、檜の青葉を隙も無く編み附けたもので、伊豆の大島のと形はやゝ似て居りますが、この方が何十倍も大きく、地上三四尺のところに板の床を張つて、簡略な梯子が掛けてありました。一方に口があいて居るので覗いて見ますと、正面には戸隠神社の御札が立て掛けてあるのみで、別に器具などは置いてありませんでした。ところの人の話を聴くと、戸隠さまには限らず、新たに遠くの神社に参詣して来た村民が、是を新造して御札を祭つて置くのださうで、他の人々にもそれを拝ませようとする点は、伊勢参宮などの御祓ひ配りも同じ趣旨だつたかと思はれますが、とにかくこの形状が、賀茂の御生野《みあれの》の神事の青柴垣にも、又一方には此地方で見られる、正月十五日の火祭の三九郎の構造とも、似通うて居たことは大きな興味でありました。信州以外の土地にも有りさうなものと気を付けて居ますが、まだ僅かしか見出しませぬ。三河ではこの祠の名をオタチクサマと謂つた人がありますが、其名が弘く行はれて居るかどうかも確かでありませぬ。注意すべき言葉だとは思つて居ります。といふわけは墓地の殊に古く、由緒があつて半ば忘れられて居るやうなのを、オタッチョウ又はタッシャバなどゝいふ語が、信遠地方から始めて、弘く四国九州あたりまでも行はれて居て、其起りはタツ即ち霊の出現するといふ意味の動詞から、導かれて居るやうに考へられるからであります。(『神道と民俗学』) [#ここで字下げ終わり] [#挿絵(img/119b.jpg)]  柳田氏のこの神社の原初形態の考察は、神の新たな出現にあたって、その〈場〉として必要なものを示唆しえて、鋭い。『民俗学辞典』は、「毎年新藁でカリヤを葺き替える」屋敷神として、大島のイボッチャと同じ構造の福島県相馬地方のものの図を掲げている。東京近辺では、いまでも南多摩の鶴川(町田市)あたりでならば、正月十四日の晩燃やしている、道祖神《さえのかみ》の高い「大神《だいじん》さま」と低い「小神さま」の青竹と篠竹で作った祠《ほこら》が、それと同じ形のものといえる。信州の「福間三九郎」と呼ぶ道祖神の仮宮について、胡桃沢《くるみざわ》勘内に『福間三九郎の話』(一九五六年)という研究があるが、胡桃沢氏は、その中で天野信景の『塩尻』が記録した、少し聞き捨てならないことを書き抜いている。 [#ここから1字下げ]  柱の下をわらを以てかこひ、且童輩中の一人を別当と名付け、水あびせて柱下これを饗するさまありといへり。 [#ここで字下げ終わり] 神の出現とは、ヨリマシあるいはコトシロが神となることでしかない。信州の正月の水は冷たかろう。その尋常ならぬ体験の中で、茫然自失、「別当」の子はサエの神となっていくのである。 [#挿絵(img/121.jpg)]  だんだん自力で神がかることがむつかしくなると、このように介添えが非常の手段で神がからせることになったのだが、「福間三九郎」の藁小屋の中のヨリシロの姿に、太古の八重の青柴垣の中に籠って神を現ずるコトシロのおもかげを見出すのは、決して牽強付会とはいえまい。  コトシロヌシの神隠れの伝承の特色は、第一にこの青柴垣であり、第二には船を踏み傾けるという入水方式である。『古事記』は、神功皇后の朝鮮からの凱旋を邀撃した継子《ままこ》の香坂忍熊《かごさかおしくま》の王が、遂に振建熊《たけふるくま》の命《みこと》の率いる皇后の軍に追いつめられた時、忍熊は、船に乗り、琵琶湖の湖上に出て、 [#ここから1字下げ]  いざ吾君《あぎ》 振熊《ふるくま》が 痛手《いたて》負はずは 鳰鳥《にほどり》の 淡海《あふみ》の海に 潜《かづ》きせなわ [#ここで字下げ終わり] と歌って入水した、という。振熊に致命傷を負わされるのではなくて、わが手でわが身を葬り去りたい、と考えた王は、(イ)船で沖に出て、(ロ)水に入る、という方法を採ったのである。  しかし、この自殺のしかたには、コトシロヌシの「その船を踏み傾けて」という方法が抜けている。入水に際して船を踏み傾けるというのは、少なくとも積極的な身投げの場合の作法ではなさそうである。いったい、船はどんな時に踏み傾けたものだろうか。同じ『古事記』の伝承によれば、応神天皇の死後、皇位をめぐって大山守の命と宇遅能和紀郎子《うじのわきいらつこ》の異母兄弟が戦った時、ワキイラツコは渡し舟の船頭に化けて、異母兄を乗せ、「その船を傾《かたぶ》けしめて、水の中に堕《おと》し入れ」流れて行くところを、伏兵に射撃させた、ということになっている。踏み傾けるのは、どうも故殺の法とみなければなるまい。コトシロヌシがみずから投身して死ぬにあたって、このような他力による入水の形をわざと採ることに、ひとつの意味がないものであろうか。自分で飛び込まなくて、船を傾けて落ち込む、という死に方——それは、おそらく、ただ死ねばよい、というのとは違った死の作法[#「死の作法」に傍点]であろう。とともに、たとえ船を踏み傾けて入水するにしても、遥かな沖合いをめざして漕ぎ出し、茫々たる洋上でそれが行なわれてもよいわけであろうが、コトシロヌシはわざわざ海中にしつらえた青柴垣の囲いの中で入水するのである。神おろしの斎庭《ゆにわ》と同じ構造の場所を海中に設け、そこで死んでいくのが伝承のコトシロヌシの神である。神隠れは神生《かみあ》れと同じように、神とコトシロだけの世界でなされなければならないのであろうか。あるいは、コトシロヌシの死の描写は、古出雲の豪族コトシロの敗死の姿そのものを、反映してはいないだろうか。  それにしても、日本の神がかりがこのような人々と隔絶したコトシロの孤独の世界で行なわれるのは、神がかりという点でしばしば同一視されるシャーマンの神がかりとは、ずいぶん違っているように思われる。日本民族の古い信仰形態をシャーマニズムの一種と見る研究者も少なくないが、あまり簡単に同一視すると、日本の神がかりのこうした個性が見失われてしまう。  シャーマニズムは、本来はツングース族の信仰についていわれはじめたもので、ツングース族は中国の解放後はエヴェンキ族と呼ばれるようになった。一九一九年一〇月、黒竜江下流の調査に行った人類学者鳥居竜蔵は、アムグン河の河口でツングースの一支流ネグダ人の村を訪れて、シャーマンの祈祷ぶりを見てこう描写している。「余の訪うた時に丁度|薩満《シヤーマン》の巫女が来て祈祷して居つた。余は其処へ往つて色々調べをした。巫女は六十歳位の老女で、太鼓を叩いて盛んに祈りをして居つた。彼は儀式の時に、腰に金属で拵へた腰鈴や鏡などをつけ、頭髪には柳の樹の縄に削り掛けを付けたものを巻き、身体には等しく削り掛け、而して太鼓を打つて踊る。其の状態は他の西比利亜、朝鮮あたりの巫女と能く似て居つて、薩満の工合が能く分る」(『人類学及人種学上より見たる北東亜細亜』一九二四年)。  中国の秋浦等は、エヴェンキ族には一氏族に一人のシャーマンがおり、シャーマンが死ぬと、三年目に次代のシャーマンが生まれることになっている、一般には同一家族内で受け継がれるが、なければ他から求められる。他氏族のシャーマンについて三年修業して、四年目から同一氏族のもののために、病気の治癒や狩猟の多収穫のための〈跳神〉を行なうが、報酬は求めない、といっている(『鄂温克人的原始社会形態』一九六二年、北京)。おそらく、最も純粋なシャーマニズムの姿であろう。シャーマンは祈祷を求める人々の前で〈跳神〉を行ない、神がかって、託宣を告げるのである。その〈跳神〉の具体的経過を綿密に報じたものに、小堀巌の「満洲族薩満の祭祀を見て——黒河省※[#「王+愛」、unicode74A6]琿県大王家子村の場合——」(『民族学研究』一四の一、一九四九年九月)がある。まだ、満洲語を用いている満洲族の村の例である。二十二歳の男のシャーマンで、「神帽は帽上に3羽の金属製の鳥がつき(烏かカササギと思ふ)1米ばかりの色布片が尾となつて居り、鳥は踊るにつれて頭上をぐるぐる廻るやうになつてゐる。神衣は普通の支那服に似、色は桃色がかつた赤色で腰には腰帯をつけ、長さ20糎ばかりの鉄管の一端をまげて帯に2個又は3個宛の組にして鉄輪で結びつけてある。神鼓は重要な祭具で円形の単面鼓を用ひ、背面には銅輪を中心にして4筋の皮紐で十字形に框に結び、金属銭がヂャラヂャラなる仕組である」。年一回の祭で室内に祭壇が設けられ、会衆が多数いる。神がかりは、このシャーマンが二回、間で人を替えて一回、一夜に計三回であった。  第一回の経過は、次のようであった。 [#ここから1字下げ]  午後7時、助手のみで開始、神鼓を叩いて節をつけて何か唱へると、会衆これに和す。  7時30分、薩満も開始、数分間薩満は神鼓をタ・タ・タン、タ・タ・タンと連打し腰鈴を鳴らしながら跳単鼓(踊り)を行ふ。助手は静止したまゝ神鼓を打つて之に和す。突如として祭室より神を向《(マヽ)》へに外に出る。(×印へ〔引用者注、原本には見取り図がある〕)ここで焼香し神鼓を連打して神を向へる。五〜六分して室に戻り神帽をつける。暫時神鼓連打、突如として×印に出、呪文を唱へながら連打神がかりの状態となる。入口で呪文を唱へ跳単鼓、室に飛入る。しばし間あり。  8時、再開、神がかりした為か前よりも激しく神鼓連打、腰鈴も狂はんばかりになり、神帽の鳥くるくる廻る程、激しく踊る。子供が叩頭してしばしば祭壇の線香を取換へる。  8時05分、薩満腰掛に腰を下ろし、節をつけて託宣を唱へる、2分間位。助手は薩満の口に耳をあてて盛にこれをきく、その後薩満につれて会衆和す(成年男子のみ)。薩満は満漢両語、会衆は満洲語と思はれた。  8時10分、託宣終る。薩満立上り、神鼓を何度もかへ室内も狭しとばかり跳単鼓を行ふ。助手は静止して神鼓にて之に和す。  8時35分、跳単鼓終る。突然直立して神帽の鳥をぐるぐる廻しだすと思ふ間もなく×印にでて跳単鼓。神をお送りしたわけである。すぐ室内に戻つて間もなく演戯終る。約一時間半、神は黒虎だつたといふ。 [#ここで字下げ終わり]  このように、シャーマンの神がかりが会衆の中で進められ、かれの唱えごとを会衆が口を揃えて和し、託宣をもまた会衆が唱和する形式で行なわれる、シャーマニズムの場合と比較すると、日本の神がかりの形態は、古いものであればあるほど人々と隔絶した密室で行なわれている点に、大きな違いが見出される。神を祭る者当人以外には、祭る者の神との交通について目撃しうる者はほとんどいない。あっても極端にかぎられたごく少人数である。それにもかかわらず、祭る者が神となる事実は多くの人々に信じられていく。これが日本の神がかりの特性であるとすれば、原始社会における司祭者が神聖家族を形成して土地の支配権力となっていく道も、ここにすでに、そのための有利な条件が用意されている、と見なければなるまい。もとより農耕その他の生産力と生産関係の問題を無視することはできないが、同時に、この側面も考えてよいように考えられる。  神が常在しない。有力な神が訪れるにあたっては、その神と交わる技能をもつ神のコトシロたちが仲介するため、有力な神の管理権は特定の人間に所有され、しかも、その人間たちは、他から隔絶したところで神がかる。その間人々はひたすらに心身を潔め、忌み籠っている。そういう信仰形態が民族の思想に対してだけでなく、社会構造にも強力に影響をおよぼしていくとすれば、これはマグマの神を祭った神聖家族の支配した古出雲だけの問題ではない。それはまた別に詳細に究明するとしても、大和の神聖家族にも共通するものがあったのではなかろうか。    敗北の儀礼  一九六二年一一月、島根県八束郡鹿島町|恵曇《えとも》の古浦《こうら》砂丘の遺跡を発掘した金関丈夫・山本清らは、弥生式前期土器を伴う人骨包含層から、ひとつの注目すべき熟年の男性の頭蓋骨を発見した。これは、同じところから出土する同時期の人骨に一般的に見られる、上顎の左右の犬歯を抜歯する風習を共有しているとともに、前頭骨の前頭面に緑色の着色が認められた。同時に発見された直径約三七・五ミリメートルの銅製円板が接着していたための死後着色らしいが、側頭骨後部から後頭骨にわたる不自然と思われる狭窄の状態と考え合わせて、生前、若い時から、正面に銅円板を付けた幅約五センチメートルの布製のバンドを、ふだんに使用しつづけて離さなかったための圧痕ではないか、と金関氏らは推定した。そして、この特殊な人物をおそらく呪術者ではなかったろうか、と氏らは見ているのである。(金関丈夫・小片丘彦「着色と変形を伴う弥生前期人の頭蓋」『人類学雑誌』六九の三〜四、『考古学年報』15、一九六七年度)  現在は松江市に隣る鹿島町のこの恵曇は、『出雲の国風土記』に見える恵曇郷の恵曇の浜の地にあたる。『島根の文化財第三集』(一九六三年)によれば、「この遺跡は、上層は古墳時代からおよそ奈良時代ごろにわたる住居関係の遺跡と思われるが、下層には弥生式前期乃至中期の埋葬があり、腕に貝輪をつけたものなど多数の屈葬並びに伸展葬人骨が遺存」するという。『風土記』の時代まで、弥生時代前期の呪術者以後、同じところで人々の生活がつづいていたことになる。しかも、『風土記』が記しているように、この日本海岸の恵曇は、背後に、宍道湖との間に昔の神名火《かむなび》山、いまの朝日山を背負い、山の東麓に佐太《さだ》の大神の社を持っている。佐太神社は、『風土記』で、熊野・杵築以外にはただひとつの、「大神」と称せられている神の社であるから、その格がほぼ推測できよう。古浦砂丘に葬られていた呪術者は、佐太神社の発生よりもはるか前の人物かもしれない。まだ、佐太の大神の祭祀とはつながりがないのかもしれない。しかし、一方では、その子孫たちが佐太の大神の司祭家となっていった、と想像できないこともない。  古出雲は、秋鹿《あいか》郡(いまの八束郡)の地方に、そうした早い時期から特殊な呪術者を生み出していた。神聖家族の形成よりも前の段階の人である。意宇郡の湯の神を祭る呪術者が、当時存在したかどうかもわからないが、恵曇の呪術者の子孫がもし先祖たちの業を伝えていたとすれば、やがては、どんな形でか、マグマの神のコトシロたちと交渉を持たざるをえなかったろう。そして、その支配下に組み込まれていったことになる。  頭骨のその部分がそう大きくならないほどに、光るあかがねの円盤の付いたバンドを生涯締めつけていた弥生前期の男——かれの人生の日々は呪術的作法に満ちていたに違いないが、古出雲の最後のコトシロの生涯も、それにもまして儀礼的なものに満ちていただろう。そして、大和に対する政治的敗北——王権の失墜の日がきた時、かれは神がかるための儀礼を整え、その儀礼のさなかで、神がかって世を去っていった、と見なければならないように思える。敗死もまた儀礼を要した。神のコトシロらしく敗退せねばならなかったのであった。 [#改ページ]  王と子——古代専制の重み——    最後の英雄  父景行天皇は、オウスノミコトに、「なにしかも汝兄《みましいろせ》は朝夕の大御食《おほみけ》に参で来ざる。もはら汝《みまし》ねぎ教へさとせ」と言った。  五日たっても兄の皇子は父の前に出て来ない。「いまだ教へずありや」と景行はオウスに問う。オウスは「すでにねぎつ」と答えた。父の前に出るように懇望したというが、その懇望の仕方は、つかみひしいで、手足をもぎ、こもに包んで投げ捨てるという、おそろしく乱暴な懇望の仕方だった。  景行にまず「ねぎ教へ[#「ねぎ教へ」に傍点]さとせ」と言わせておいて、その「教へ[#「教へ」に傍点]」のほうだけ取り上げて、教えたか、とオウスに向かって尋ねさせ、オウスが逆に「ねぎつ[#「ねぎつ」に傍点]」と、教えるどころか、下手に出て頼んだように語り、一転して、つかみ殺していたことを描く『古事記』のこの部分の作者は、容易ならぬ曲者《くせもの》である。原文で見ると、「汝泥疑《みましねぎ》 教覚《おしヘさとセ》」「有リ[#レ]未《いまダ》ず[#レ]誨乎《おしヘ》」「既ニ為《つ》[#二]|泥疑《ねぎ》[#一]」となっている。『古事記』の漢文は、どちらかと言えば上々の漢文ではない、と言われている。しかし、この作者は、倭建命《やまとたけるのみこと》の疾風怒濤のような強烈な性格をどのようにして端的に描き出すか、その術を心得ていた、たいへんな文章家である。 『古事記』と『日本書紀』の同じ景行天皇のくだりを読み比べてみると、これほどまでに違うか、と驚かされることがある。それは、「景行記」は景行天皇の系図的叙述をしたほかには、天皇を中心にした記述をしていない、ということである。倭建命の物語ばかりであり、それで終わっている。それに対して、「景行紀」のほうは、天皇は美濃に行幸してもいるし、筑紫征伐にも自ら出かけている、というふうで、日本《やまと》武尊《たけるのみこと》(『紀』はこう書いている)の物語はその一部として、天皇の事跡の記述の間にまくばられているにすぎない。『古事記』の編者と『書紀』の編者の意識の間には、非常に大きな隔たりがある。『書紀』の編者は、ひとりの強烈な個性を持った男が生きており、その男が生きていることでその時代が記憶されねばならないような歴史のあり方を知らなかったのだ、とも言えよう。単に、八年前の『古事記』よりもいっそう正史らしい叙述をとったとか、とらないとかいう問題ではない。記紀の間に発見される、時代をになう英雄倭建命の失踪は、そのまま、古代の歴史の根本的な問題でなければならない。  記紀の間に流れた八年の歳月は、物理的時間としては八年であったかもしれないが、実は八年ではなかったのである。「景行記」と「景行紀」に向き合っているのは、一つ古い貴族社会の人々の意識と、八世紀の貴族社会の人々の意識なのである。倭建命という、悲劇的運命を生きた男に歴史をになわせることのできる人々の心と、天皇の治績以外に歴史を語ることのできない人々の心とが、向き合っているのである。ある英雄的な男の生涯を語る以外に歴史を語るすべを知らぬ人々、それは、古く神々の生涯の伝承によって昔を語ってきた人々の心につながっている。そういう語り方を受け継ぐ可能性を抱きながら、それを破壊して〈史〉を編もうとするところに、律令的国家支配の性格が端的に表わされている。人々の心に生きてきた倭建は、〈史〉によってよみがえり得ぬまでに切りさいなまれる。日本の〈史学者〉たちは、司馬遷の『史記』を読みながら、人を描くことによって時代を描く方法は学び取らなかった。要するに、『書紀』の編者たちは、律令的官僚以外ではなかった(註)。『古事記』の倭建は、倭建の伝承の滅び去ろうとする直前の姿である。 [#ここから2字下げ] 註 これは日本における世襲的な史官の家柄の未成長の問題、古代中国の場合と違って、そういうものを育てえなかった日本の古代専制国家の組織の問題とかかわっていよう。 [#ここで字下げ終わり]    敗北者の祝福  兄をつかみ殺したオウスは、父にうとまれて、熊襲征伐を命じられた。『紀』のほうでは、景行が前に自ら熊襲征伐をしており、そのあとで彼らがそむいたので、オウスに命じたことになっており、オウスの殺人というような記事はない。英雄の運命の伝承を語ろうとする『記』のほうは、あくまで熊襲征伐の原因を、思いもかけないわが子の猛勇を心底ひそかに恐れはじめた父との対人関係の中に求めた(註)。彼が生涯を通じて大刀をかざして戦ったのは、各地の反大和朝廷勢力であったが、実は、その生涯は父天皇との戦いであった、とみる『記』の執筆者にとって、それ以外の遠征理由はないのだろう。  父の命を受けたことを書いて、作者は、「この時にあたりて、そのみ髪み額に結わせり」と言う。この一句で、われわれは、オウスがまだごく若者であったことを思い出す。やがて、この若者は女装してクマソタケルに接近する。藤間生大氏はその点に触れて、「こうしたすさまじい人がらで、力のある人間を、……古事記の作者は、……女性にも扮装できるような美しい人と考えていたわけです」(『やまと・たける』)と言っている。何気ないことだが、この物語を伝承してきた人々の心の構造をみごとに探り当てたことばである。男性的なたけだけしさと女性的な美しさとを、背馳《はいち》するものとしてしかとらえようとしない、今日のわれわれの精神構造を権威として語り手たちに押しつけて、矛盾だ、などと言うことができない、大切な点である。アガペーが古代ギリシア人にとって善であり美であったように、彼らは、人間のこの二つの理想を同時にかなえようとすることに、絶望していなかったのだ。このようなところに、古い民族の昔が息づいている。  古い昔は、人々が何よりも知謀を尊敬していた時代としても語られる。女装してタケルに近づくことが最も勇者らしいしわざである世界を、われわれは、すぐに理解することがむずかしいほどである。剣を刺し通されて今にも死にかかっている弟《おと》タケルが、わがかたきをば、「我《あれ》み名を奉らむ。今より後、倭建の御子《みこ》とたたへ申すべし」とことほぎ、その呪術的な祝福のことばの力によって、勇者がますますたけだけしくなりうる世界、神に仕える叔母ヤマトヒメノミコトが、出発に際して衣と裳を与え、それがみごとに役立つ、というふうに語られる約束になっている巫女《ふじよ》の力、あるいは柳田国男流に言って、〈妹《いも》の力〉の生きている物語の世界の中で、次のイズモタケルの征伐の時のような、だまし討ちの狡知《こうち》であれ、なんであれ、知恵が第一に重んじられているということは、非常に重要である。人間の知恵というものの力に対する強烈なあこがれが燃えている世界と、呪術的なものがはびこっている世界とを同時につかむことは、現代人にとっては容易なわざではない。が、われわれの祖先は、ずっと原始の時代から、困難な条件と常に戦わねばならない生活の中で、絶えず、知恵こそ人間の最大の力であることを教えられてきていたのであった。呪術もまたその知恵の、ある段階での現われである。呪術と呪術的でない知恵とが、ここでは併存している。  オウスがタケルの住む里に到着して見ると、「その家のほとりに軍《いくさ》三重に囲《かく》み」近づきようがないが、新室《にいむろ》の宴《うたげ》の準備中であったため、「かれ、そのあたりを歩きて、そのうたげする日を待ちたまひき」と待機する。作者は、日を経て征伐の日を設定することで、タケルへの接近のむずかしさを写実的に語る。と同時に、上にも述べたように、ヤマトヒメの予見によって授けられた衣服が必ず役立ってくるように、伝承の約束によって型通りに話を作って語る語り手でもある。この物語をそういう位置に見さだめ、伝承的な約束に満ちた語り口の中に悲劇の英雄の運命がリアルに語りこめられていく、日本の文学の歴史のある発展段階において、われわれはこの物語を見いださねばならない。  美しくたけだけしい皇子は、父に敬遠され、苦難の道に追いやられたにもかかわらず、勝利の栄光に輝く。『古事記』は、かつてオオクニヌシノミコトが黄泉《よみ》の国のスサノオノミコトのもとに行き、寝入ったスサノオの髪を柱に縛りつけて、娘スセリヒメを連れて逃げ出した時、めざめたスサノオを黄泉《よもつ》比良《ひら》坂に追って行かせ、はるばると逃げて行くふたりを望んで、「その汝《いまし》が持てる生大刀《いくたち》、生弓矢をもちて、汝が庶兄弟《ままあにおと》をば、坂の御尾《みを》に追ひ伏せ、また河の瀬に追ひはらひて、おれオオクニヌシの神となり、またウツシクニタマの神となりて、そのわがむすめスセリヒメを嫡妻《むかひめ》として、宇迦《うか》の山の山もとに、底つ岩根に宮柱太知り、高天《たかま》の原に氷椽《ひぎ》高知りてをれ。こやつよ」と絶叫させた。この倭建の物語の世界でも、同じように、あの敗者の祝福の力が堅く信じられている。しかも、「このこと申し終へつれば、すなはち熟瓜《ほぞち》のごと振りたちて殺したまひき」と、女装の皇子は、その祝福の相手を裂き殺してしまう。言いようのない強烈な描写である。 [#ここから2字下げ] 註 神話におけるわが子の猛けだけしさを恐れる父神の遁走譚、ホアカリノミコトを恐れて島に置き去りにしようとしたオオナムチの伝承(「黎明」の章参照)などの、〈父と子〉の話の伝統を、ここでも、ふくみ込んで考える必要がある。 [#ここで字下げ終わり]    不敗の流浪  倭建命の物語の後半は、クマソタケル・イズモタケルを次々と征服した前半の勝利者の姿とは違って、受難者としての姿を描いている。前半が朝日の物語であれば、後半は夕日の物語とも言えよう。都にもどって、まだいくらもたたない倭建命は、「東《ひむがし》のかた十二道《とをまりふたみち》の荒ぶる神、またまつろはぬ人どもを言向《ことむ》け和《やは》せ」という天皇の命によって、東国へ出発しなければならなくなる。「西のかたにクマソタケルふたりあり。これ、まつろはず礼《ゐや》なき人どもなり。かれ、その人どもを取れ」という前回の命令と比べてみて、今回の任務のほうがはるかに困難である。十二道という広範な地域を対象とし、主として国つ神たちと戦わねばならない。クマソタケルやイズモタケルのような人間と戦ってきた英雄は、今や限りなく多い神々と戦わねばならないはめに陥った。  この行に、天皇は、吉備の臣の祖先であるミスキトモミミタケヒコを随行させたという。が、不思議に、このミスキトモミミタケヒコは、東国での倭建のどんな危機にも名を出さない。これはたとえば、ヤマトヒメノミコトが物語の中に登場すると、神に仕える彼女は贈り物をするだけしか活動しないが、それが激しい戦いの中で、やがて倭建を救うことになる伏線となっているような、物語自体に不可欠な人物の登場ではない。奇妙な夾雑物である。こういう何々の氏族の祖先を顕彰する記載は、『古事記』の中にしばしば見えるが、おそらく、物語自体にかかわりのないもの、『古事記』の、諸氏族と天皇家との歴史的な深いつながりを宣伝するための、一つのたくらみであろうと思われる。事実上からも、吉備の臣というのは、鉄の生産を握っている中国地方きっての大豪族であり、大和朝廷への服属は、周囲の地方の豪族に比べてはるかにおそく、五世紀以後らしいので、倭建の東国行にはふさわしくない随行者であると言えよう。天皇は「柊《ひいらぎ》の八尋矛《やひろぼこ》」を皇子に与えた。柊は、節分の日の門に出す目籠に刺して今日でも鬼やらいに用いられて、呪力を持ったものとされている。八尋矛というからには、大きな呪術的な木製の矛であろうが、父の与えたこの矛は、ついに倭建の死に至るまでなんの役にも立たない。それに対して、前回は女性用の衣裳を贈ってくれた叔母が授ける小さな火打ちの袋が現実に彼を救う。物語はそういう構造になっている。  その叔母に対して、「すめらみこと早く我を死ねと思ほすらむ」と訴える若く美しいこの勇者は、もはや不敗の征服者ではなく、流浪の旅に上る貴人である。前半の物語が、結局はこの受難者を語る後半のためにささげられた序曲であることは、この物語に接する者すべてが気づくことである。倭建命の伝承を語り伝えた人々は、受難者としての彼を設定し、受難者を語るところに、物語ろうとする力の源泉を得ていたようである。このことは、倭建という英雄がどんな人々の胸の中に育ったかを教えてくれる。そして、この物語の主人公が、旅で会ったミヤズヒメを心から愛するようになり、後にはオトタチバナヒメとの悲しい別れにあわねばならないのも、運命の受難者を人間らしい愛情の豊かな持ち主としなければおれないような魂が、物語をささえてきたからであろう。  東国征伐で、まつろわぬ人間を相手としたように描かれているのは、焼遣《やきつ》の戦いだけである。野中で付け火に取り巻かれて、皇子は進退きわまった。窮地に陥って、ヤマトヒメから授けられた袋の口をあけてみる。そこに千万の味方にまさる小さな石が隠されていた、という。同じ『古事記』は、スサノオに火をつけられて、野中のオオクニがやはり窮地に陥った時、ねずみがやってきて、「内はほらほら、外はすぶすぶ」と隠れ穴のありかを教えた、と語った。しかし、倭建は火打ち石で向かい火をつけて火を焼き退けるばかりか、最後には切り殺した敵の死体をも焼いてしまう。動物の助けによって救われる火難の物語の型は、合理的な知恵による火の撃退の物語に受け継がれたのであった。    神々との戦い  しかし、それに続くオトタチバナヒメの物語は、彼女が渡りの神にみずから身をささげる人身御供《ひとみごくう》の話である。火打ち石の助けによって人間にうち勝った倭建も、神々にはたやすく勝つことができない。このうえもなく高価な犠牲《いけにえ》——姫は荒波の上に飛び降りた。神々と英雄との戦いは、古代の多くの民族の伝承の大きなテーマであった。人間はすべて、神々に対する恐れとおののきで精神を緊縛されていた過去を負っている。最初の独立した個性の持ち主たる英雄の物語が、神々との戦いを任務としなければならないのは、歴史的必然でもあった。  しかし、この物語のその戦いは、なんと悲しいことだろう。オトタチバナは「さねさし 相武《さがむ》の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問ひし君はも」と歌い上げて、身をさかまく波に投じた。愛するもののために身を捨てる刹那《せつな》、姫は、愛するものがかつてわが身の危険を忘れて自分の安否を気づかってくれた日のことを歌う。愛とは、ささえ合いである。彼女の姿は再び浮かび上がらなかった。七日たって、海岸に櫛《くし》一つ流れ寄ったという。それを納めて墓を築いたという。抒情は文中の歌謡だけでなく、散文の部分にもこめられている。悲劇的運命を生きる英雄の物語は、悲恋の物語に綯《な》い合わされている。  そうした悲しみを越えて、倭建は十二道の神々をことごとく従えた。「ことごとに荒ぶる蝦夷《えみし》どもを言向け、また山川の荒ぶる神どもを和して」帰途、足柄《あしがら》の坂の神をもうち殺した。彼は不死身であったのだ。その不死身の英雄が、ついに敗れる時が来た。伊吹山の神を見誤って言挙《ことあ》げしたために、言挙げの持つ呪術的な力は、神をうち退ける力を彼から奪ったのである。こういう原始的な思惟《しい》の方法は、今日のわれわれとはあまり異質である。しかし、英雄が敵の手によって倒されず、ささやかな自らの誤算によって倒れるという、『古事記』のこの部分の作者の文学的設計の確かさは、恐るべきものと言えよう。    「国|思《しの》ひ」  この列島の、遥かな西の果ても、東の国々も、勇武の皇子の休みない多年の働きによって、大和朝廷の版図に組み入れられた。古代統一国家が着々と完成して行った。長い征服戦争の旅はもはや終わろうとしていた。その最終の段階で、倭建は戦いに敗れ、重い病をえた。 病篤くなりまさる皇子を、歌謡によって心境を吐露させながら、一歩一歩故郷に近づけていく語り手は、本来はこの物語には関係がなかったであろう歌謡を取り入れて、歌物語を編み上げるのに成功している。文学の発達のある段階を反映しているであろう、他の歌謡を借りてきて抒情を結晶させるこの手法も、『古事記』の特徴的なものである。本来は人々の年ごとの国見や祭りの宴に発生した郷土讃《くにほ》めの歌謡であるらしい「国|思《しの》ひ歌」が、このうえもなく切実な倭建の叫びになっている。 ついに帰り着くことができない運命を悟った時、故郷はたとしえなく美しい。「倭は 国のまほろば……」——死なねばならぬがゆえに、彼は生きながらえるであろう人々の生命を祝福し、いよいよ長かれと祈るのだった。「いのちの 全《また》けむ人は たたみこも 平群《へぐり》の山の くまかしが葉を 髻華《うず》に挿《さ》せ その子」——この歌謡から見ると、年ごとに髪に常緑樹のかしの葉を挿して、その木の生命力によって永生を呪祷する儀礼が、大和地方にあったようである。これは本来そのおりの歌かもしれない。が、物語の倭建命は、この歌を死に臨んで作った。彼は、生きて都へ帰るであろう部下たちの一行をことほぐ。あのように雄々しく、あのように敗れることを知らなかった彼が、今、敗北者のささげる最後の祝福のことばを、残していくすべての人にささげねばならない。死を目の前においてふり返ってみると、生命——それはなんと美しいものであろうか。なんと価値あるものであろうか。倭建命が死を代償としてそう歌い得た時、多くの人々をこともなげに殺した、倭建と呼ばれる彼の中に、われわれは英雄でない一個の人間の魂を見る。歌は「いのちの全けむ人」にささげられた。が、この歌の中で、彼がその瞬間、生きたい、どうでももっともっと生きたい、と叫んでいることは疑えない。  彼は神との戦いに最後に敗れた。しかし、事実彼を殺したのは、彼をそのはてしない神々との戦いに追いやった父天皇(もっと言えば、英雄を生かすことのできない古代国家のデスポチックな権力機構であろうか)以外ではない。彼を待ち受けるやすらぎの世界は、本来、彼があのようにせつなく慕った故郷の都にはないのである。  白い鳥はもと神の仮の姿であるということを、柳田国男や折口信夫が幾度も繰り返して実証したように、はるかな大昔の人々は、年ごとに訪れて舞い降りる白い鳥に、神を見たのである。が、倭建の物語の時点にあっては、それは神そのものではない。霊力を秘めた鳥にすぎない。皇子は鳥となった。鳥となって、翼を休める地を求めてさまよう。その地はどこにもない。いまでも、その白い鳥はさまよいつづけている。ことしもまた白い鳥になった彼が、われわれの目の前にしばし舞い降りて来るかもしれない、と物語を伝承する人々は考えるのだ。  せんじつめてみると、倭建はある実在のひとりの皇子と言いきれない点がある。諸国の『風土記』などに散見する彼の像を見ると、各地で各様に彼は伝えられている。『常陸の国風土記』によれば、入水《じゆすい》したはずのオトタチバナヒメと彼が、その後、山と海に分かれて狩猟の競い合いをしてさえいる。たれかれにモデルをかりながら、彼をひとりの悲劇の英雄として生み出さねばおれなかった人々が貴族社会に多くいて、彼らは、景行天皇のすべての治績よりも、系図の上でその皇子とされる倭建の物語を語ることを望んだのであろう。人々はデスポチズム形成過程の悩める魂の像を作り上げずにはおれず、それをこよなく美しいと感じたのである、と言えよう。それは、敗北の悲劇を語ることによって、若いデスポチズムの進展下に人間性を主張しようとする、貴族自身の一つの営みであったように思われる。 [#改ページ]  鄙に放たれた貴族 [#ここから1字下げ]  古代貴族が、民衆の社会を蔑視し、みずからの特権を強調するために生み出した〈都誇り〉の思想は、やがてみずからに刃向かう巨大な怪物として、成長した。〈天ざかる鄙〉に生きねばならない地方官僚貴族の心に底知れぬ苦悩を与え、かれらをさいなんだ。最上層貴族大伴の旅人といえどもその例外ではなかったのだ。 [#ここで字下げ終わり]    一  筑紫で、大伴の旅人が風流文人をつどえて梅花の宴を張った、という臆説は、信じられはじめて、年すでに久しい——  七三〇(天平二)年正月一三日、大宰帥《だざいのそち》大伴の旅人はかれの邸宅に部下を招いて、梅花の宴を張った。この日の客には、旅人が日常接している府(大宰府)の下僚たち、大弐《だいに》・少弐以下の面々や、同じ土地にある下級機関、筑前の国府の国司たち、山上の憶良以下の顔ぶれの外に、昨年末大宰府に到着したばかりの(1)珍しい顔が多く加わって、おのずから角ばった雰囲気をかもし出していた。  九国二島の各地から集ってきた今年の朝集使たちは、大宰府所管の西海道を除く畿内六道の国々の朝集使が、やまとの都に参集して、天皇に拝賀を行なうのと同じように、正月のはじめ「遠《とほ》の朝廷《みかど》」と呼ばれる府の政庁で拝賀を行ない、帥旅人から饗を給うたはずである。今日はその公式の宴と変って、旅人が私邸に招いての宴であったが、年ごとに輪番で植民地総督のいる大宰府に上ってくる国司たちにとっては、何年に一度の、もの珍しく晴がましいものだったにちがいない(2)。地元の筑前の国を除いて、遠来の朝集使たちを、当日の記録(『万葉集』巻五)の凝った呼び方そのままで挙げると、豊後からは守《かみ》大伴|大夫《のもうちぎみ》、筑後からも守|葛井《ふじいの》大夫。大隅は目《さかん》が番に当った年で、榎|氏《し》鉢麻呂。対馬《つしま》、目|高氏老《こうしおゆ》、薩摩、目高氏|海人《あま》。壱岐《いき》はどういう工合か、守の板《ばん》氏安麻呂と目の村氏|彼方《おちかた》がおりから滞府中で、両名が出席している。豊前・肥前・肥後の国府からの朝集使の名がみえないのは、いずれも史生であったためであろう(3)。身分の低い史生たちは、公式の饗は受けたが、今日の私宴に招かれる対象とはならなかったものと考えられる。だから、東西南北からの国司たちは、事実上全|部内《ぶない》を網羅したもので、かれらを交えた大宰府・筑前の国府の全高級官僚に取りまかれた旅人は、西海道の首長としての[#「西海道の首長としての」に傍点]宴席のあるじであった。  宴半ばにして、人々はこぞって梅花を詠じた。正月一〇日すぎ、さかりの梅の花に逢い、すでに時たまちらちらと枝先から離れる花びらを見うるのは、さすがに大宰府。都に比べて筑紫の春の足どりは早かった。 [#ここから1字下げ、折り返して4字下げ] 815 正月《むつき》立ち春の来たらばかくしこそ梅を招《を》きつつ楽しき竟《を》へめ [#地付き]大弐紀卿  816 梅の花今咲けるごと散り過ぎずわが家《へ》の苑《その》にありこせぬかも [#地付き]少弐小野大の夫  [#ここで字下げ終わり]  新しい年が立ち、春のめぐりくるごとに、こうして梅の花を招いて楽しさのかぎりを尽くすことにいたしましょう。上席の客大弐がまず立って寿《ことほ》ぎの歌を詠じれば、梅の花が今咲いているように、散り去ることなく、この家の苑にありつづけてほしいものだ、と次席の少弐がその歌を受けた。帥《そち》の館の今日の宴の前庭を「わが家《へ》の苑」と親しみ深く歌い上げ、常春をことほぐ小野|老《のおゆ》にさそわれて、歌は盃のように順《ずん》流れる。 [#ここから1字下げ、折り返して4字下げ] 817 梅の花咲きたる苑の青柳はかづらにすべくなりにけらずや [#地付き]少弐粟田の大夫  [#ここで字下げ終わり]  杞柳手折りて鬘《かずら》にせん。唐風な気の利いた詠みぶり。眼を青柳に転じているが、やはり〈賀〉の歌である。 [#ここから1字下げ、折り返して4字下げ] 818 春さればまづ咲く宿の梅の花ひとり見つつや春日暮らさむ [#地付き]筑前の守山上の大夫  [#ここで字下げ終わり]  そのかみ唐土に渡っていたこともある、次の席の筑前守だが、意外にモダンな詠み口を示さなかった。老人憶良は、賀の歌の流れを断ち切って、「ひとり見つつや春日暮らさむ」と口ずさむ。格別のことはないが、「園の梅」という今日の題に沿って、なだらかな老人のひとりの思いを吐露したのだ。だが、それは、〈賀〉の歌で宴をもちきるこの国のしきたりと違って、情をのべて楽しむ文学の風流を身につけた人のしわざだった。抒情の歌は次ぎに受け継がれる。 [#ここから1字下げ、折り返して4字下げ] 819 世の中は恋繁しゑやかくしあらば梅の花にもならましものを [#地付き]豊後の守大伴の大夫  [#ここで字下げ終わり]  だが、次には、また〈賀〉の形式張った歌にもどった。 [#ここから1字下げ、折り返して4字下げ] 820 梅の花いま盛りなり思ふどちかざしにしてな今盛りなり [#地付き]筑後の守葛井の大夫  [#ここで字下げ終わり]  が、その隣りには観世音寺の満誓|沙弥《しやみ》が坐っている。 [#ここから1字下げ、折り返して4字下げ] 821 青柳《あをやなぎ》梅との花を折りかざし飲みての後は散りぬともよし [#地付き]笠沙弥  [#ここで字下げ終わり]  さすがに出家の満誓は、宴の形式張った気分をひとり超越して楽しんでいる。「折りかざし 飲みての後は散りぬともよし」。かつては都で右大弁の高官にあり、大弐や少弐たちよりはるかに先輩官僚であったかれである。こだわる何ものもない満誓は、楽しげに詠じて、あるじをかえりみた。  旅人も、形式通りの寿ぎの歌で客に謝しはしなかった。 [#ここから1字下げ、折り返して4字下げ] 822 わが苑に梅の花散るひさかたの天《あめ》より雪の流れくるかも [#地付き]主人《あるじ》  [#ここで字下げ終わり]  おおどかなしらべである。 [#ここから1字下げ、折り返して4字下げ] 823 梅の花散らくはいづくしかすがにこの城《き》の山に雪は降りつつ [#地付き]大|監《げん》大伴氏百代  [#ここで字下げ終わり]  大監には「わが苑に梅の花散る」という旅人の心象《イメージ》がわからない。空から舞い下りるたまさかの一ひらに描き出す、かれの心の風景を受けとめることができない。眼の前の馥郁たる満開の花だけが見えるのだ。梅の花の散るのはいずこでありましょう。今こそ盛りでございます。あるじの歌を受けたつもりで、大監は問いかえす。満開の枝頭からたまさかに離れて空にただようものに、心細かに眼をとめ、雪の一ひらと見て、早春の情をのべようとする帥に、「しかすがにこの城の山に雪は降りつつ」と応じる。老帥が落花によって行く春を嘆じた、と取り、慰めているのだ。ふり仰いで見れば、あなたの城《き》の山の頂《いただき》は白いようだ。大監のいうように、ここは花の盛り。だが、春はまだようやく立ち帰ったばかり、ふたたびめぐり逢う春を待ちつけた心持や、雪かと思いまがえるほど早い時節に咲き、すでにちらちらする唐土の花、梅花の若々しい強さへの感動は、老境の人たちのみが解するものかもしれない。 [#ここから1字下げ、折り返して4字下げ] 824 梅の花散らまく惜しみわが苑の竹の林に鶯鳴くも [#地付き]少監阿氏|奥《おき》  825 梅の花咲きたる苑の青柳をかづらにしつつ遊び暮らさな [#地付き]少監土氏百村  [#ここで字下げ終わり]  歌は抒情の歌となり、賀の歌となり、つぎつぎに詠じ上げられる。しかし、一つの大きな抒情の渦巻きがおこって、歌の座を巻きこんではいかない。それは、風流人士ばかりをつどえた歌のための宴でないから、当然のことでもあった。歌というものに対する二様のわきまえ方がジグザグに立ちあらわれて、揺れ進むのだ。薬師《くすし》の次ぎは陰陽師、次ぎは算師、大隅の目、筑前の目。  その半ばおおやけな帥の招宴の雰囲気の中で、あるじの旅人の胸の中ばかりには、抒情の嵐がおこり、三十二人の人々が順に詠じ終るのを待って、かれは番外の歌を歌い上げずにはおれないほどになっていった。しかも、歌は、今日の題「園の梅」からは逸《そ》れて、故郷を思う歌であった。 [#ここから1字下げ、折り返して4字下げ] 847 わが盛りいたくくだちぬ雲に飛ぶ薬はむともまたをちめやも[#「わが盛りいたくくだちぬ雲に飛ぶ薬はむともまたをちめやも」はゴシック体] 848 雲に飛ぶ薬はむよは都見ばいやしきあが身またをちぬべし[#「雲に飛ぶ薬はむよは都見ばいやしきあが身またをちぬべし」はゴシック体] [#ここで字下げ終わり]  一座の客には、まったく意外であったろう。大きな感動を与えただろう。帥が、せつないまでに老衰と望郷の歎きを歌い上げたのである。おぼえている人は、ほとんど今の客にはないかもしれない。しかし、それは、去年、当時少弐であった石川の足人が、 [#ここから1字下げ、折り返して4字下げ] 955 さす竹の大宮人の家と住む佐保の山をば思ふやも君 [#ここで字下げ終わり] と歌いかけた時、 [#ここから1字下げ、折り返して4字下げ] 956 やすみししわが大君の食《を》す国はやまともここも同じとぞ思ふ [#ここで字下げ終わり] と答えた同じ人である。その時、長官らしく官人意識に満たされて歌い上げた旅人にとって、今日とても、特別に自由で解放的な、プライベイトな条件があったわけではない。が、旅人には、みずからの抒情を抑えつけようとする内的な制御が、まったくなくなっていた。ひたすらに衰えを歎き、望郷の思いをかこって、はばからない。  かれには、制作の時期はあきらかでないが、この時に先だつと思われる、五首の望郷歌がある。 [#ここから1字下げ、折り返して4字下げ] 331 わが盛りまたをちめやもほとほとに寧楽《なら》の京《みやこ》を見ずかなりなむ 332 わが命も常にあらぬか昔見し象《きさ》の小河を行きて見むため [#ここで字下げ終わり]  旅人の望郷も、単に生まれ故郷を恋うるだけの思いではなく、地方の任についたすべての貴族たちの望郷の念をささえていた、都誇り=鄙《ひな》の蔑視にささえられている。吉野の行幸に従った日の再現を思い、「昔見し象の小河を行きて見むため」というかれには、あきらかに都へのあこがれがあり、鄙への蔑視がそれと背中合わせになっていた。別に [#ここから1字下げ、折り返して4字下げ] 960 隼人《はやひと》の瀬戸の磐《いはほ》も鮎走る吉野の滝になほしかずけり [#ここで字下げ終わり] という歌もあって、それを証明する。しかし、かれに都を恋わしめるものが、本質的には、「わが命も常にあらぬか」との願いを生む老衰の自覚、生命の焼尽に気づいたものの人生に対する悲しみに発していて、都誇りをも含んでいることに注意しなければならない。人は生命の終焉に近づいて、出発点への回帰を願う。「わが盛りまたをちめやも」の自覚は、「ほとほとに寧楽の京を見ずかなりなむ」の絶望の歎きを生む。望郷がなじんだ土地への懐旧を超えて、〈生命《いのち》の若き日〉への懐旧となる例は、早く倭建命の「いのちの 全《また》けむ人は たたみこも 平群《へぐり》の山の くまかしが葉を 髻華《うず》に挿《さ》せ その子」に見られたが、短歌の世界にその古い歌謡に通じる望郷の念をはじめて流しこんだのは、旅人と憶良だと見ねばならない。憶良にはそれに沈淪の歎きが重なっている。 [#ここから1字下げ、折り返して4字下げ] 333 浅茅原つばらつばらにもの思《も》へばふりにしさとし思ほゆるかも [#ここで字下げ終わり]  旅人の歌が心にひびくものを持つのは、単なる都誇りの望郷を超えた、衰える生命を呼びもどそうとする、かの日[#「かの日」に傍点]への思いがあるからである。「つばらつばらにもの思へばふりにしさとし思ほゆるかも」という沈んでいて明るく静かなリズムが、よくそれを現わしえている。とはいえ、思いがつのれば、望郷が沈静の明かるさをいつも保ちつづけてすむわけがない。 [#ここから1字下げ、折り返して4字下げ] 334 わすれ草わが紐に付く香具山のふりにし里を忘れぬがため [#ここで字下げ終わり]  望郷の思いから解放されようと、わすれ草を下紐に結びつける悪あがき——忘れ去れるものか。次には、都に帰る日の近いことを自分に教えこもうとする。 [#ここから1字下げ、折り返して4字下げ] 335 わが行きは久にはあらじ夢《いめ》のわだ瀬にはならずて淵にあらなも [#ここで字下げ終わり]  けれども、それで希望が見出だされるわけではない。「わが盛りまたをちめやも」という悲しみ、「ほとほとに寧楽の京を見ずかなりなむ」という絶望は、歌の連作の中で、「わが行きは久にはあらじ」という自分へのいいきかせを包んで、果てしなくひろがる力をもっている。が、そのような文学創造のもつ自律的展開力—構想力の展開は、所詮、現実を動かしえないという〈壁〉を持っている。  望郷は旅人の不断に抱きつづけなければならない思い、生命の喚起した課題であった。今日かれは、長官であること、席に居並ぶ部下たちへの影響も忘れて、それをぶちまけてしまったのであった。 [#ここから1字下げ、折り返して4字下げ] 1639 あは雪のほどろほどろにふりしけば平城《なら》の京し思ほゆるかも [#ここで字下げ終わり] という平素の生地《きじ》をぶちまけてしまったのだ。 「薬はむともまたをちめやも」という今日の詠。唐土には寒食の風がある。薬を寒食散とも五石散ともいう。前者は服用法からきた名、後者は原料からきた名である。紫石英に白石英、赤石脂に鍾乳、それに石硫黄の五石の粉を主成分にしている。水か冷酒でこの石の粉を服する。すると、「身軽く、行動すれば飛ぶがごとくなり」(『王羲之帖』)という結果になる。もちろん、服用に法あり、時あり、間違えば生命取りになる。そして、この薬をもっとも珍重し、その効用を深く信じたのが魏・晋の隠者たちであった。後漢末の天災と政権の興亡相継ぐ社会の混乱に処して、人々がもっとも深刻に感じとるようになったのが、時は早し、人生は短し、という思想であり、それをもっとも敏感に感じとって、死を恐れ、長寿を願うため、容貌の若さ維持と精力の不滅のために、山林に隠れた清談派がこれを愛用したのである(4)。そして、同じ時代に同じ人々によって、飲酒の風が流行するようになった。一日よく五斗、あるものは八斗、また一飲二斗というのが竹林の諸賢たちで、酒は、かれらを精神的に解放し、人生短し、の念から離れさせる力でさえあった。「また実際の社会情勢は、かれらをして飲酒せざるを得なくさせたのである。現実を逃避するため、生命を保全するために。かれらは韜晦せざるを得なかったし、沈湎せざるを得なかった(5)」と王瑤が論じているように、 [#ここから1字下げ、折り返して4字下げ] 338 験《しるし》なき物を思《も》はずは一|杯《つき》の濁れる酒を飲むべくあるらし 339 酒の名を聖《ひじり》と負《おほ》せしいにしへの大き聖の言のよろしさ [#ここで字下げ終わり] と旅人が「酒を讃むる歌」でたたえた「大き聖」の時代に、 [#ここから1字下げ、折り返して4字下げ] 340 いにしへの七の賢《さか》しき人どもも欲《ほ》りせしものは酒にしあるらし 341 賢しみと物いふよりは酒飲みて酔ひなきするしまさりたるらし [#ここで字下げ終わり] の「七の賢しき人ども」は、服薬派であり、飲酒派であり、薬や酒に力をかりて、襲いかかる政治権力から遠ざかり、自由に生きぬこうと抵抗する貴族の集団であった。そうした生き方をすることによって、かれら唐土の文人たちは、消極的悲観主義の中でであれ、単に厭世的悲観的ではなく、あい継起する政権の時代を生きぬく自由を手離すまい、としたのであった(6)。薬と酒はそのように結びついていたし、旅人はかれらの思想に共鳴する傾向をもっていた。旅人と魏・晋の隠逸との関係は微妙であるが、肝心なのは、かれが山林に隠れ住むこともできず、市井に隠れる市隠たり得ず、朝廷にあって隠れている朝隠にさえ徹しきれないでいることだろう。  隠者は酒と薬の力を信じねばならない。それが保証する自由さと生きぬく力によりかからねばならない。だが、いまはすでに、唐土でも、魏・晋の隠者の後継者たちは、自分の生活を変えないままでかれらの精神に共鳴する、えせ[#「えせ」に傍点]隠者に堕していた。問題は、七〇〇年代に旅人が、なぜ中国のかずかずの受け継ぐべき文学的・思想的遺産の中で、かれらにもっとも接近したか、という点にもある。今はそれをさておいても、かれが酒を信じながら、薬を信じ得なかった、ということは大切なことだろう。それでいて、薬はたえず気にかかっていたのであった。  薬による不老——だが、それにしても、若さを保ちつづけるための不老の薬は、すでに老いたものの若返りには役立たないだろう。「わが盛りいたくくだちぬ」と旅人は嘆く。——薬の服用さえもいまは遅すぎるのだ。旅人が隠者たちの不老の思想そのままをあこがれず、それを、この国の〈おちかえり[#「おちかえり」に傍点]の思想(7)〉(それが壱岐の豪族たちの都へ運んできたものらしいことは、「廃王伝説」で論じた)を通して受容せねばならなかったのは、かれと不老の問題との出会いが、すでにその老齢の、不老の薬の手のとどかぬ時におよんでであったからだろう。不老の薬の役立たぬ時になって、旅人は「月よみの 持《も》たる をち水」(巻一三、三二四五)をなぜ思い浮かべないのか、なぜ、歌わないのかとも聞きたくなる。おそらく、若返りの水——それも、この国の人々にとって、遠い伝承の中のもので、手に取ることができなかっただけではなく、 [#ここから1字下げ、折り返して4字下げ] 627 わが袂まかむと思はむますらをはをち水求め白髪《しらが》生ひにたり [#ここで字下げ終わり] と戯画化される状態にまでなっていたからであろう。そういう「月よみのをち水」に比べて、信じるに足る薬は、間違いもなく現実的な存在であったのだ。しかし、旅人は、かれを物思いから解放する酒のようには、その効能をすなおに信じることができない。信じるには年をとりすぎていたのだ——「雲に飛ぶ薬はむともまたをちめやも」。雲に飛ぶ薬はむよりは——「都見ばいやしきあが身またをちぬべし」。故郷へ帰ること以外に若返りの道があろうか。旅人はそう歌い、一座は、それに心撃たれて、たれもたれもはげしく望郷の思いにかられたのだ。  旅人の恐れた老衰は現実であった。その年、かれは病床で死線を彷徨するようになる。病いえて、一〇月大納言に昇任、奈良に帰ることができたのは、望外のことであった。  運命は自分自身にもわかるものではない。まして、人々には。この時には、宴席に居並ぶ植民地の官僚たちは、「都見ば」と、絶望しながらも都にすべての生きがいを託そうとする、老帥のせつない気持に誘いこまれながらも、この西海道の首長に「いやしきあが身」とまで歌わせるものについては、深く考えいたることもなく、都の生活に似たこの座の高雅な雰囲気に陶然となっていたのではあるまいか。 [#ここから2字下げ] (1)天平六年の『出雲国計会帳』では、朝集使は一二月一六日に奈良へ向け出発している。(坂本太郎「正倉院文書出雲国計会帳に見えたる節度使と四度使」『寧楽』一五) (2)『令集解』巻二二考課令第一条「大弐已下」の項の「分番朝集」の註に、「穴に云はく、其れ九国二島は府に集む。府官朝集を所管するのみ。朝集使は一年内在京なり」とある。大宝令も同様だったらしい。 (3)同じ条に朝集使に関して、「史生もまた国司に入るるものなり」という古記の註がある。古記は大宝令の註である。養老令の穴註もこれと同説である。 (4)王瑤「文人与薬」(『中古文学史論集』一九五六年、上海) (5)同「文人与酒」(同) (6)憑明之「『竹林七賢』的真面目」(『中国古典作家風貌』五七年、香港) (7)石田英一郎「月と不死」(『桃太郎の母』) [#ここで字下げ終わり]    二  七三〇(天平二)年一〇月一日、帥として大宰府に下っていた中納言大伴の旅人は、大納言に任じられた。『公卿補任』は、同年条|尻付《しりつけ》に「淡等《たひと》と改名す」と記している。しかし、都に帰った翌天平三年条には「大納言従二位大伴の宿禰旅人[#「旅人」に傍点]」とあるから、不審は残るが、かれが筑紫時代の晩期に、ひところわが名を「淡等」の文字に改めていた、と信ずべき点がある。先の征|隼人《はやと》持節大将軍としての西下、再度の西下である今の任。晩年の旅の生活を思えば、旅人と名づけられているのは意味があったのだ。自分を宿命の旅人《たびびと》——と意識し、わが名を厭悪したとしても、当然といえないことはない。『東大寺献物帳』には、旅人が聖武天皇に献じた槻《つき》の六尺六寸六分の弓、檀《まゆみ》の六尺五寸五分の弓があり、いずれも天皇の死後東大寺に献じられたものだが、「大伴の淡等」の名が記されている。また、『万葉集』のかれの「梧桐の日本《やまと》琴一面」の歌に、「大伴の淡等謹みて状す」「天平元年十月七日、使に附けて進上す」とあるのを見れば、旅人がすでに『補任』の前年から淡等の雅号を用いていたとすべきで、必ずしも『公卿補任』にしたがって七三〇年に「淡等」使用開始時期を限定すべきではなかろう。しかし、この七二九年、七三〇年の大宰府生活の晩期に、かれはわが身を、生涯の旅人《たびびと》であり、異郷に朽ち果てるらしい運命から、何とかして切り離そうと希求していた——改名もそのひとつ、と考えられないことはないのである。  だが、今、大納言に任じられ、老帥の旅の生涯は終った。晩年の遍歴は終った。「旅人《たびびと》」であることを止め得たのだ。 [#ここから1字下げ、折り返して4字下げ] 331 わが盛りまたをちめやもほとほとに寧楽の京《みやこ》を見ずかなりなむ 1639 あわ雪のほどろほどろにふりしけば平城《なら》の京《みやこ》し思ほゆるかも [#ここで字下げ終わり] という絶望に近い歎き、それゆえにますますつのった望郷の思いは悪夢のようである。 [#ここから1字下げ、折り返して4字下げ] 847 わが盛りいたくくだちぬ雲に飛ぶ薬はむともまたをちめやも 848 雲に飛ぶ薬はむよは都見ばいやしきあが身またをちぬべし [#ここで字下げ終わり] というせつない熱望は達せられたのだ。「わが行きは久《ひさ》にはあらじ」(三三五)とみずからいい聞かせ、いくたびかまた、そうは信じられなくなったりしたのだが。  旅人という名を、かれの父大納言安麻呂がのろいをこめて付けた、とは考えられない。それは、例えば七二四(神亀元)年『近江の国志何郡計帳』の大友|但波《のたにわの》|史族ふひとのやから》広麻呂の戸口に  [#1字下げ]男|羈人《たひと》 年五 小子 七四三(天平一五)年七月廿九日の『写官一切経所解』に  [#1字下げ]日置旅人 写経二巻 用紙※[#4本の縦棒に横棒を通したもの(四十) ]二張 と見えるように、民衆の社会にも見られる、ごく普通の名らしい。旅からくるたまさかの訪問者をまれびと[#「まれびと」に傍点]と感じる風が生きていた世界では、「旅人《たびびと》」は貴人の意味をふくんでいたに違いない。が、旅人《たひと》自身は、遠い任地での生活でいやというほど漂泊の思いをした。旅人《たひと》の「旅[#「旅」に傍点]」が、この国の遠い昔からの、年々に村里を訪れる神の遊行に発した「旅人」の旅、とは思われなくなってきていたのである。唐土の詩文でなじんだことのある流浪の旅、望郷の悲しさ。むしろ、あの旅[#「旅」に傍点]の旅人《たびびと》が自分であり、自分はその名を負っている。そう、旅人《たひと》はわが名をいきどおろしく思ったかも知れない。しかし、奈良に帰ることになったのだ。  帰京——だが、その時が近づくにつれて、旅人の胸の内には、よろこびと違うもの、一種の恐れが生まれてきたのである。 [#ここから1字下げ、折り返して4字下げ] 439 還るべく時はなりけり都にて誰《た》がたもとをかわが枕かむ[#「還るべく時はなりけり都にて誰《た》がたもとをかわが枕かむ」はゴシック体] 440 都なる荒れたる家にひとり寝ば旅にまさりて苦しかるべし[#「都なる荒れたる家にひとり寝ば旅にまさりて苦しかるべし」はゴシック体] [#ここで字下げ終わり] 妻のいない都に帰るのだ。ひたすらに恋い慕った時と違って、いざまともに向き合って見ると、帰ろうとする都は期待を裏切るかもしれないものを内蔵しながら、かれを待ちもうけていた。  旅人が、十三年間在職した中納言から、大宰帥兼帯のまま大納言に昇進したのは、九月八日に大納言多治比の真人池守が没したからである。池守は在官十年の大納言の一臈、六十三歳。二臈は、先年かれを越えて大納言に任じられた、藤原氏の氏《うじ》の上《かみ》藤原の朝臣武智麻呂で、五十一歳の若さ。それに対して、旅人は六十六歳であったから、かれが先に没しこそすれ、池守の死去の報を聞こうとは、夢にも思いがけなかった。年下の先任者の死によって栄進し、長い長い望郷の煉獄から解放される。官僚世界のはらむ原罪的なものである。もちろん、それは旅人の意識しようはずのない官僚制の仕組みであるが、それにしても、かれがこういう形で大納言についに昇進したことは、よろこびの外の何かで報いられる可能性をふくんでいねばならなかった。「帰るべく時はなりけり」。その時に、「都にて誰がたもとをかわが枕かむ」と帰っていった時の自分を恐れる気持が湧いてくる。  この秋のなかばごろ、瀕死の病床から自分がやっと脱け出たころに、都で吉田|連宜《のむらじよろし》が書いたらしい手紙が、相撲《すまいの》部領使《ことりづかい》に託されてとどいた。その末には、 [#ここから1字下げ、折り返して4字下げ] 867 君が行きけながくなりぬ奈良路なる山斉《しま》の木立も神さびにけり [#ここで字下げ終わり] とあった。七月一〇日の日付け。「奈良路なる山斉《しま》の木立も神さびにけり」——宜がそこまで知っているかどうか知らないが、旅人にとっては、奈良の邸の庭園のたたずまいの一々は、みな妻とともに生きた日の形見である。一々が、語り合い、ふたりが想を凝らしてできたものだった。神さびてしまったというか。「都なる荒れたる家にひとり寝ば」——それを考えずにはおれなくなった旅人は、「旅にまさりて苦しかるべし」と、いま終ろうとする晩年の旅の生涯の果てに、旅にまさる苦しさの予兆を見る。旅の生涯に総決算をつけ、おちかえり[#「おちかえり」に傍点]の新生を生きようとした、希望の〈都〉は、いつか姿をかくす。「都見ばいやしきあが身またをちぬべし」という望郷時代の思いこみは、くずれ去っていかざるをえないのだ。部下たちのよろこびや祝いのさわぎを見過して、帥は胸中にかれらと別な都の姿を想像するようになっていった。  都には、新大納言に輝かしい政治的活動を期待するものが待っているか。旅人は大きな期待を抱くことができないでいる。大納言であった父安麻呂の官にたどりついて、家名を恥ずかしめないですむ安堵とともに、去年二月の政変にあたって、かれが受けた待遇をも忘れることができないでいる。政変とは、左大臣長屋王伏誅事件をさしている。左大臣はひそかに左道を学んで国家を傾けようとしている、と密告するものがあり、式部卿藤原|宇合《のうまかい》らが六衛府の兵を率いて、突如、長屋王の邸を取り囲んだ。三関はその前にとざされる手配がすみ、畿内と諸道の交通は杜絶していた。翌日、藤原|房前《のふささき》一人しかいなかった参議の増強が発令され、大宰府の旅人の下で次官を務めていた大宰の大弐多治比の真人|県守《あがたもり》を筆頭に、左大弁石川の朝臣|石足《いわたり》、弾正|尹《のかみ》大伴の宿禰道足が権《かりの》参議に任じられ、廟議に加わることになり、一方、知太政官事|舎人《とねり》親王・新田部親王・大納言多治|比真《の》人池守・中納言藤原の朝臣武智麻呂らが長屋王の邸に赴いて、窮問した。王は抗弁せず、またの日自尽し、妻吉備内親王、息|膳夫《かしわでの》王・桑田の王・葛木の王・鉤取の王はみずからくびれ[#「くびれ」に傍点]て果てた。三月四日、一臈の中納言旅人を越えて、武智麻呂が大納言となり、政治の実権を握ることになった。長屋王のかれ独自の方式を盛った皇親政治は、藤原氏中心のクーデターによってくずれさった。この事件に関して、旅人はまったくつんぼ桟敷に置かれていた。滞京の部下多治比の県守は謀議の中核に加わっているが、かれとの共同行動はなかった。よし、遠隔の地にあった旅人に事前に謀ることができなかったとしても、クーデターの中枢部は、事後もかれを無視しつづけた。藤原氏の権力確立のため武智麻呂に超えられ、その後も、かれを京に迎えて新しい政治に参加させようとする動きは、まったく見られなかった。旅人は政界の孤児であった。  といって、新勢力がかれを長屋王方の人物としてにらんでいた、とは思えない。池守が死ねば順当に昇進できたことが、それを証明している。川崎|庸之《つねゆき》の「長屋王時代」(『記紀万葉の世界』)は、左大臣長屋王の下で長い間中納言であったかれが、長屋王覆滅計画の準備段階で筑紫へやられたらしい、とみているが、たとえ、川崎氏のいうように、『公卿補任』の七二八(神亀五)年条に見える詔書奉行の註などに、知太政官事舎人親王を長屋王より先に署名させていることから、そのころすでに覆滅計画の準備が進行していた、とみることはできても、にわかにそれと旅人の西下を結びつけることは、かならずしも可能ではない。  旅人の去年の事件に際しての態度を察せられるものに、次の歌がある。 [#5字下げ]大宰の帥大伴卿、大弐丹治比の県守卿の民部卿に任《ま》け還さゆるに贈れる歌一首 [#ここから1字下げ、折り返して4字下げ]  555 君がためかみし待ち酒安の野にひとりや飲まむ友なしにして [#ここで字下げ終わり] 新勢力の中枢の一人県守への贈歌で、重要な意味をふくんでいるように思われるが、詞書には疑問がある。『公卿補任』によれば、県守が民部卿になったのは、七三一(天平三)年正月、旅人上京後であるから、「安の野にひとりや飲まむ」と合わないからである。旅人が筑紫にいた間の歌に違いない。とはいえ、『補任』が天平元、二両年の県守を「兼大宰大弐」とするのはどうであろうか。かれが天平二年、すなわち七三〇年正月の梅花の宴当時すでに大弐でなかったことは、「大弐紀卿」という『万葉集』の記載から明らかであるからだ。宴の記録は、その性質上、序も歌も当日のものであるべき上に、旅人が四月にはその写しを京の吉田の宜に送っているから、その当時の事実を反映している点で、信憑度は高い。だから、県守は大弐を辞して梅花の宴以前に民部卿になったか、大弐を辞して約一年後に民部卿を兼ねるようになったかである。上述のように後者の場合には、もう旅人は筑紫にいない。前の場合は、『補任』の七三〇年の民部卿兼官をあやまりと見て成り立つのであり、その上で、この歌の詞書と合することになる。しかし、そうすると、大弐兼任の権の参議が民部卿になった、七三〇年正月以前のある時の歌で、すでに兼官で本人が大宰府に帰任の見込みがなかったのに、いかにもその望みがあったかのように「君がためかみし待ち酒」と儀礼的に歌ったことになる。それに対して、詞書を分離して、歌の内容からだけ見れば、上京中の大弐が権の参議となり、廟堂の枢機に参じ、兼大弐となって、再下が期待できなくなった時、と見るのが、いかにも「待ち酒」のことばにふさわしくはないだろうか。とすれば、これは七二九年二月の事件直後のものとなる。いずれの場合にせよ、それは事件の年に、中枢部に坐している県守にはるばると送ったものであるが、わたしには、中央政界に対して旅人がどういう姿勢でいたかを明らかにするものと思われる。  また同じ去年の一〇月に、武智麻呂陣営の重鎮房前に日本琴一面を贈り、神仙趣味の二首の歌をつけてやっていることも、見のがすわけにはいかない(北山茂夫「長屋王」『立命館文学』九三号、後に「白鳳末期の諸問題」『万葉の世紀』所収)。また、旅人と余の明軍の親交も(四五四—四五八)、かれが武智麻呂方の人であること(『家伝』)と考えあわせて、重要である。もちろん、明軍との親交は上京後に限定されるようであるが(五七九)、旅人の関心がつねに新勢力の陣営に向けられていたことは、ほぼ察せられる。新勢力の側も特にそれを拒まなかったようである。だが、池守の死というこの偶然が起きるまでは、だれも、かれを都に迎えることについて、積極的に手を打ってはくれなかった。  かれの一族で、クーデターの立役者の一人として県守と同じ権の参議である、大伴の宿禰道足が下ってきたのは、『万葉集』には「天平二年庚午、勅して擢駿馬使大伴の道足の宿禰を遣はしし時の歌」(九六二)とあるだけで、何月のことかわからないが、やはり七三〇年のことである。駿馬を選び進めるための勅使として、時の権勢家で権の参議、兼ねて右大弁という、離京はなるべくしない方がよい行政上の要職者が、西の方筑紫をさし下ってきたとは、解《げ》せない話。旅人の自邸に饗宴を張って道足を歓迎しているが、その西下には、馬選び以上の意味があったかも知れない。不即不離の関係から、いくらか新権力参加への傾斜を持ってきた。そういう姿勢で、かれは大納言になったのであろう。中央の政治はかれの存在にかかわりなく既定のコースを進むはずであった。  十一月に妹の大伴の坂の上|郎女《のいらつめ》を都へ先発させた(九六三・九六四)。海路を取って進んだ三野|連《のむらじ》石守《いわもり》らの従者も、郎女に従ったものであろう(三八九一—三八九九)。旅人は遅れて十二月に入って出発した。六日、山上の憶良の餞《はなむけ》の宴に招じられ、かれの惜別の歌に接している。 [#ここから1字下げ、折り返して4字下げ] 876 天飛ぶや鳥にもがもや京《みやこ》まで送り申して飛び帰るもの [#ここで字下げ終わり] 旅人にもかつて同じ詠み口の歌があった。 [#ここから1字下げ、折り返して4字下げ] 806 竜《たつ》の馬《ま》も今も得てしかあをによし奈良の都に行きてこむため [#ここで字下げ終わり] 憶良はさらにこうも歌い上げる。 [#ここから1字下げ、折り返して4字下げ] 877 人|皆《もね》のうらぶれをるに竜田山|御馬《みま》近づかば忘らしなむか [#ここで字下げ終わり] 憶良は、「きっと、わたくしどもがあなたを失ってこんなに淋しがっているのに、竜田山に御馬が近づいて、都が眼と鼻の間になると、うれしくてこっちのことなどお忘れになってしまいましょうなあ」という。旅人は、かれが残る自分と帰る旅人の心の隔たりを予想するのを聞きつつ、別の意味でのかれとの心の隔たりを感じていたかもしれない。——都へ帰ることを恐れている旅人の心中を気づくことのない老友。 [#ここから1字下げ、折り返して4字下げ] 879 万代《よろづよ》にいまし給ひて天の下まをし給はね朝廷《みかど》去らずて [#ここで字下げ終わり] 餞の歌は、新大納言の政治的生命の無限をことほぐ。そうなると、旅人はよろこびの心を自分でも新たにして、それを受けたであろう。 [#ここから1字下げ、折り返して4字下げ] 880 天ざかる鄙に五年《いつとせ》住まひつつ都のてぶり忘らえにけり [#ここで字下げ終わり] 最後には、老友の歌は自分の歎きに転じた。 [#ここから1字下げ、折り返して4字下げ] 881 かくのみや息づきをらむあらたまの来経往《きへゆ》く年の限り知らずて 882 あが主の御霊《みたま》賜ひて春さらば奈良の京《みやこ》に召上《めさ》げ給はね [#ここで字下げ終わり] 何という望郷の歎きのはげしさ、深さ。旅人は、この年上の筑前守に、つい先日までの自己の姿を見なければならなかった。  旅人は馬に乗って大宰府を出、水城《みずき》までくると、馬を水城の上にのぼらせて、ふりかえった。 [#ここから1字下げ、折り返して4字下げ] 968 ますらをと思へるわれや水茎の水城の上に涙のごはむ [#ここで字下げ終わり] 大宰府はそのあるじの姿をふたたび見ないだろう。遊行女婦の惜別の歌に答えて、旅人はこの歌をくちずさんだ。去るに及んで、筑紫に今新たな愛着をおぼえたのである。その日から都への旅が始まった。  旅は妻ときた往路をもどらねばならない。 [#ここから1字下げ、折り返して4字下げ] 446 吾妹子《わぎもこ》が見し鞆《とも》の浦のむろの木は常世《とこよ》にあれど見し人ぞなき 447 鞆の浦の磯のむろの木見むごとに相見し妹は忘らえめやも 448 磯の上に根ばふむろの木見し人をいづらと問はば語り告げむか 449 妹と来し敏馬の崎を還るさにひとりして見れば涙ぐましも 450 往くさには二人わが見しこの崎をひとり過ぐればこころ悲しも [#ここで字下げ終わり] 旅人の旅は孤独ではない。孤独で妻を恋うるために、かえって、かれは一刻も妻のおもかげと離れない旅を続けていたのだが、かれにはそういう自覚はない。  郎女と帰った先発の一行がつらい旅の日数が重なり、都へ近づけば近づくほど [#ここから1字下げ、折り返して4字下げ] 3894 淡路島|門《と》渡る船の楫《かぢ》間にもわれは忘れず家をしぞおもふ 3895 玉はやす武庫《むこ》の渡りに天づたふ日の暮れゆけば家をしぞおもふ [#ここで字下げ終わり] と望郷の念を深めていったのと対蹠的に、かれは恐れを深めた。そして、その恐れは的中した。  都は、到着したかれをさいなむ。 [#ここから1字下げ、折り返して4字下げ] 451 人もなき空しき家は草まくら旅にまさりて苦しかりけり[#「人もなき空しき家は草まくら旅にまさりて苦しかりけり」はゴシック体] [#ここで字下げ終わり] 「都なる荒れたる家にひとり寝ば旅にまさりて苦しかるべし[#「べし」に傍点]」という筑紫での予想は実証された。「旅にまさりて苦しかるべし[#「べし」に傍点]」ということばを、「旅にまさりて苦しかりけり[#「けり」に傍点]」とただ一語置き換えればすむ歌の非情さ。 [#ここから1字下げ、折り返して4字下げ] 452 妹として二人作りしわが山斉《しま》は木《こ》高く繁くなりにけるかも [#ここで字下げ終わり] 宜が「奈良路なる山斉の木立も神さびにけり」と知らせてきたのも、まことであった。 [#ここから1字下げ、折り返して4字下げ] 453 吾妹子が植ゑし梅の樹見るごとにこころむせつつ涙し流る [#ここで字下げ終わり] 望郷は裏切られた。妻のいない都は何ものでもなかったのだ……。  七三一(天平三)年正月、大納言旅人は、加階、従二位に進んだ。年六十七。かれが政治の要衝に立ったと思われる点はないが、新権力とも少しもせめぎ合うことなく、位はようやく人臣第一位に進み、一品《いつぽん》知太政官事|舎人《とねり》親王につづいた。  都に帰った旅人は栄誉にひたされている。が、老歌人の歎きはおさまらない。裏切られた望郷は、新たな望郷を生む。都もかれにとってはやはり旅であったのである。 [#5字下げ]三年辛未、大納言大伴卿、寧楽の家に在りて故郷を思ふ歌 [#ここから1字下げ、折り返して4字下げ] 969 しましくも行きて見てしか神名火の淵は浅みて瀬にかなるらむ [#ここで字下げ終わり]  筑紫で「夢のわだ瀬にはならずて淵にあらなも」(三三五)と歌ったかれは、もう、天皇の行幸に従っていった、かつての吉野の夢のわだを思わず、大伴氏の古里の淵ばかりを慕った。「淵は浅みて瀬にかなるらむ[#「瀬にかなるらむ」に傍点]」——もはや、「瀬にはならずて淵にあらなも[#「淵にあらなも」に傍点]」というふうに願望を歌わず、故郷と遠ざかっていた年月の遥けさばかりを恐れていた。 [#ここから1字下げ、折り返して4字下げ] 970 さすすみの栗栖《くるす》の小野の萩の花ちらむ時にし行きて手向《たむ》けむ [#ここで字下げ終わり] 〈都〉に求め得なかった故郷を、大伴氏の里に求めようとするのは、そこに葬られた妻がいるからであったのだ。「栗栖の小野の萩の花ちらむ時に」、旅人が「行きて手向け」ようと願った奥津城は、真に裏切ることのない故郷であり得ようか。裏切られた故郷〈都〉の空のあなたに、さらに故郷を設定し、恋い慕った旅人は、その七月についに没した。萩の花の頃であったが、かれは、それを手向けに帰っていく前に、生命を燃やしきってしまったのだろう。  日本の古代の文学史上に、憶良とともにはじめて老境の文学を開拓した旅人は、老衰が感動を消滅させ、抒情精神を奪い去るという法則を承知していなかった、珍しい人物である。余の明軍が「大納言大伴卿の薨《みまか》りし時」 [#ここから1字下げ、折り返して4字下げ] 455 かくのみにありけるものを萩の花咲きてありやと問ひし君はも [#ここで字下げ終わり] と歎いているのからみると、かれは、死が近づいても、なお、故郷の妻のもとに「萩の花ちらむ時」帰っていこうとしていたのだ。  鄙に放たれたひとりの貴族の、果てしなく都を恋うる〈望郷〉は、都にかれの心を満たすものがないことが次第にわかってくる時、都を越えて、氏族のふるさと、妻の眠る墓辺を恋うる第二の〈望郷〉へ転じた。  そして、かれが〈果てしない望郷〉の心をはぐくみつづけねばならぬ運命に陥ったのは、その体内にわだかまっていた都鄙の差別感を契機としている。 「天ざかる鄙」をめぐっては、そういう貴族独自の心情の歴史も潜んでいるのである。 [#改ページ]  心の極北——尋ねびと皇子・童子のこと——  わたしが皇子・童子《どうじ》にぶつかったのは、これまで、たった一度であった。それから実に長い間、わたしはかれの消息を尋ね回っている。十世紀の頃生きていたはずのひとりのプリンス。それ以外なんの手がかりもないその人物から、わたしは強烈に打ちのめされた経験をもつ。  少年、いやその老[#「老」に傍点]少年の名は、『本朝皇胤紹運録』という天皇家の系図帳にぽつんと出ていた。醍醐天皇の三十九番目の子どもとして。    童子 号嵯峨隠君云 白髪童形云云 「童子 号して嵯峨の隠君と云ふ。白髪にして童形《とうぎやう》、とうんぬん。」の二句は、年老いて頭に白銀を頂きながらも、少年の姿をしている古代の皇子を思わせた。その人は、古代天皇家の尊厳と栄耀の圏内に身を置きながら、生涯を通して童子とだけ呼ばれ、名もなく埋もれて生きつづけた。わたしの脳裏に映じたそういうイメージを人に語ったところ、「白髪童形」とあるが、「童形にして白髪」——少年ですでに白髪、白子《しらこ》の少年で夭折した人ではないかしらん、という意見であった。一応そうかもしれないと思った。が、汎発性先天性白皮症の人に対して、古代では、『日本三代実録』巻十三の貞観八(八六六)年七月二十五日の条の、紀伊の国から白子の男女の写生図を献上した記事に、「白人[#「白人」に傍点]男女二人」とあり、「肌膚鬢髪肩眼、挙身純白なること雪のごとし。よりて、暗夜に見ることを得。白日に向かうこと能はず」とあるように、「白人」という直截的な表現がある。また、「年少にして白髪」といってもよいのに、白髪にして「童形」と、特にわらんべの形[#「形」に傍点]を強調するのは、まぎれもなく、その人がわらんべの年齢でないからではあるまいか。  九世紀・十世紀の天皇の相当大がかりな後宮《ハレム》が、年々歳々|束《たば》になって誕生する皇子・皇女の身の振り方をきめてやるのに難渋するほどであったことは、〈桓武平氏〉〈清和源氏〉といわれるような賜姓源氏の苦肉策を案出せざるをえなかったことからも察せられる。奈良時代の皇親政治の時期は昔の夢、という時代に、皇位継承には縁がない末端の皇子やその子ども、孫たちがどんなにわびしくうらぶれて生きていたかは、たとえば、『宇津保物語』に登場して、作者に愚弄されている、上野宮《こうずけのみや》という「世に数まへられ給はぬ古宮《ふるみや》」(「藤原の宮」)の描写などによっても察しがつく。  いままで探したのでは、醍醐の子女は、三十九人という『紹運録』の数がもっとも多い。室町時代の『歴代皇紀』という歴史年表をみると、醍醐天皇のハレムについては、「後宮、十四人、さらに二十二人を加ふか。以上ことごとくこれを註さず」とある。これだけの人数では、一々のなまえは省略する、というのも、もっともなことである。そして、子女については、「皇子、十六人。皇女、十六人。三十六|人《(ママ)》と云々《うんぬん》。賜姓の皇子、六人」(「改定史籍集覧」)と記している。計三十八人ということになるが、具体的に名が列挙してない。鎌倉時代最末期の『一代要記』(「改定史籍集覧」)は、こまめな本で、皇妃二十人の姓名をことごとく註し、皇子二十人、皇女十七人の姓名も、またことごとく記載している。計三十七人。これより一人多く、『歴代皇紀』と同じく三十八人説で、なまえをすべて挙げてあるのは、『皇胤系図』(「続群書類従」)で、十六親王、十六内親王、四源氏、二女源氏を知りうるにとどまる。しかし、もうひとりの、第三十九番目のx氏について指摘しているのは、『本朝皇胤紹運録』だけであった。 『紹運録』は一四八八(長享二)年の頃作成されたらしいもので、皇子として、克明・保明・代明・重明・常明・式明・有明・時明・長明・雅明・寛明(朱雀天皇)・行明・章明・成明(村上天皇)・盛明・兼明の十六親王と、源《みなもとの》高明・源の自明・源の允明・源の為明の四源氏、皇女として、勧子・宣子・恭子・慶子・勤子・都子・婉子・修子・敏子・雅子・普子・靖子・韶子・康子・斉子・英子の十六内親王と源の兼子・源の厳子の二源氏、計三十八人の名と略歴とが掲げてあり、その末に、童子のことが、前に引いたようにポツンと添えてある。 [#挿絵(img/177.jpg)]  白髪にいたるまで童形で、「嵯峨の隠君」と呼ばれた皇子のことが何かに書き残されていないか。成年の元服礼を拒否しつづけて、年老いて死んだ皇子の消息を追い求めているうちに、わたしは『体源鈔』の中で「嵯峨天皇の隠君子」という人物を見出した。『体源鈔』は、正しくは略字を用いず、『體源鈔』と書くべきもので、十六世紀の頃、音楽の家柄豊原家の豊原の統秋が書いたもの。この本の名は旁《つくり》だけならば「豊原」と読めるように家の名を埋めて隠してある。『江談抄』を、扁《へん》だけ採って、『水言鈔』(醍醐寺本『江談抄』)と呼び替えたのと同種の文字遊びである。この『体源鈔』の五の巻に、太神の景範の『根元集』の抜き書きがあり、雅楽の諸曲の簡単な解説集になっている。そこで「老君子」という曲についてのこういう解題に出会った。 [#ここから1字下げ]     老君子  嵯峨天皇の隠君子の御所作の楽なり、ゆゑに老君子と名づく。隠居久しく、空しく以て衰老におよぶも、王位に至らざるの太子なり。かの所作のゆゑに、以て号となす、とうんぬん。 [#地付き](「日本古典全集」) [#ここで字下げ終わり]  これによると太神家や豊原家では、「隠居久しく、空しく以て衰老におよぶも、王位に至らざる太子」である「嵯峨天皇の隠君子」についての伝承を持っていたらしい。それは、あの醍醐の第三十九番目の嵯峨に隠れ住んだ皇子とは同一人か別人か。  また、『体源鈔』には、歴代親王中の音楽の名手を挙げて、 [#ここから1字下げ]  致平親王笙。隠若子[#「隠若子」に傍点]琴。泰明親王箏。敦実親王笛。貞保親王笛、琵琶。高明親王琵琶。重明親王箏。 [#ここで字下げ終わり] と記している。やはり、作曲家であったこの「嵯峨天皇の隠君子」のことであろう。かれは「隠れ若子《わくご》」と呼ばれ、琴《きん》の琴《こと》のすぐれた奏者であったらしい。しかし、家が変れば伝承にも違いがある。『体源鈔』よりずっと古い、それも一二三三(天福元)年に狛《こまの》近真の書いた『教訓抄』は、老君子の曲について、「此の曲、大唐には、男子誕生の時この曲を奏す。わが朝、本院の六十の御賀の日、退出音声《まかでおんじやう》、これを用ふ」(「日本古典全集」)ということになっている。狛家では日本人の作曲とはいわれていなかったようである。 『体源鈔』の方にもどると、隠君子は文学の面でもすぐれた人物であったらしい。 [#ここから1字下げ]  江談ニ云ハク、嵯峨ノ陰君子名ハ滾、琴ノ上手ナリ。独リ琴ヲヒクニ近習ノ少女ニ元※[#「禾+眞」、unicode7A39]ガ霊託シテ云ハク、琴ノ清美ニ感ジテ来テコレヲ聞クナリ。陰君子、祝シテシバ/\モテ相《あい》談ズ。文談ニヲヨブ。元※[#「禾+眞」、unicode7A39]、詩ヲ作リテ云ハク、「是レ花ノ中ニ偏ニ菊ヲ愛スルニアラズ、此ノ花ヒラケテ後ニ花ノナケレバ」江《ごう》ノ 文時ハ「此ノ花開キ尽クシテ」ト作リタリシナリ。而ルニ開キテ後ト書ケルハ書写ノアヤマリ、ト云ヘリ。 [#地付き](「日本古典全集」) [#ここで字下げ終わり] という記載もある。これは、「江談にいはく」とあるように、『江談抄』に拠って書いたものであるが、これだけでは意味がわかりにくいので、原典の『江談抄』の方から考えていくと、流布の類聚本系『江談抄』(内容が分類整理し直してある本の系統)では、これと少し違った形で、こう書かれている。 不[#二]是[#レ]花[#(ノ)]中[#(ニ)] |偏《ひとへ》 [#(ニ)]愛[#(スルニアラ)][#一レ]  |菊[#(ヲ)]。此[#(ノ)]花開[#(キテ)]後[#(ニ)]更[#(ニ)]無[#(ケレバナリ)] [#レ]花。十日ノ菊花。元。 [#ここから2字下げ]  隠君子の琴を鼓するの時、元※[#「禾+眞」、unicode7A39]の霊人に託《かか》りて称《い》ひて曰はく。「件の詩は『開き尽くす』なり。『後』の字然るべからず」と。  あるひとの謂《い》へらく、「嵯峨の隠君子、この詩を吟じて琴を弾ずるに、天より糸のごときもの下り来りて云ふ。『われ自らこの句の貴きを愛す』と。その霊宿執あるによりて、琴を聞きて甚だ感に堪へざりしならん」。 [#地付き](「群書類従」) [#ここで字下げ終わり]  これによれば、大江の匡房が、中国の詩人元※[#「禾+眞」、unicode7A39]の詩句をめぐって、隠君子に関するふたとおりの伝承を、『江談抄』の筆録者藤原の実兼に談じて聞かせたのである。「不是」は中国語では、……デナイ、be not にあたり、動詞「是」を助動詞「不」で打ち消したものだが、わが国の漢文訓読法では、「是」は動詞ということが遂に発見されなかったので、問題の詩を日本流に読めば、少し仰山であるが、 [#ここから1字下げ]  これ[#「これ」に傍点]、花の中に、偏《ひとへ》に菊を愛するにあらず(なにがなんでも菊が好き、というのではない)、この花開きて後、さらに花なければなり。〔だから愛せずにはおれないのだ。〕 [#ここで字下げ終わり] という意味である。この詩句については、日本の儒者の間に伝承があった。ひとつは、隠君子が琴をひいてこの詩を吟じていると、作者である中国の元※[#「禾+眞」、unicode7A39]の霊が、人に憑《つ》いて、あの詩の文句は、本来は「開き尽くす」だ、日本で「開きて後」と伝えられているのは残念だ、と「尽」と「後」の一字の違いについて訂正を申し入れた、というのである。もうひとつの別伝では、やはり、嵯峨の隠君子がこの詩を吟じて琴を弾じていると、天から糸のようなものが下ってきて、「われ、みづからこの句の貴《たつと》きを愛す」といった、というのである。自分の作品に執念があって、死後も、他国であるのに琴を聞いて感動して出現したりした、という言い伝えである。糸みたいなのがぶらさがってくる幽霊は奇怪で滑稽だが、文筆家のなれの果ては、幽霊となっても、まあ、そんな形かもしれない。しかし、これは元※[#「禾+眞」、unicode7A39]が芸に執することより、日本古代の儒者たちが詩の一字にこだわりぬく執心のほどを示していて、おもしろい。  それはそれとしても、『体源鈔』が『江談抄』の忠実な引用ではないことは、この比較からわかるが、『体源鈔』の記事に、隠君子の名を「滾《こん》」と註記しているのは注目すべきことである。あれは、いったいどこから来ているのだろうか。 『江談抄』には、別に、昔の試験ののんきだった話として、こんな話がある。菅原の道真が課試(文章《もんじよう》得業生の受ける官吏登用試験)に応じた頃は、試問に答えて書く対策の文章も、まだ、中国の科挙のように小屋にひとり籠って執筆する必要はなかった。まず、こんなふうだった、という。「菅家、策を献ずるの時、省(式部省)の門に来たる。かの時、強ひて小屋に籠らず、ただ省の門を徘徊す。広相(橘)、毛沓を着してこの処に到り、微事のところどころ、あひともにこれを勘《かんが》へらる。一事の通ぜざるあれば、広相、馬に策《むちう》ちて、嵯峨の隠君子のもとに到りて、これを問ふ、とうんぬん」(第五詩事)。昔のカンニングの、なんとまあ、のどかなことか。  しかし、ここでややこしいのは、隠君子が菅原道真や橘広相の師匠格ほど偉かった、ということである。道真が対策に及第したのは、『公卿補任』によると、清和天皇の時代、八七〇(貞観十二)年であり、道真は、周知のように、右大臣であった九〇一年、すなわち、醍醐天皇の延喜元年に、大宰府に流された。その時には、天皇はまだ十七歳にすぎないから、第三十九番目の皇子は生まれていなかったであろう。類聚本系『江談抄』には、この話の後に「隠君子の事」という一項があり、「問ひていはく、隠君子の名、いかん。答へられていはく、淳か。嵯峨源氏の類か」とある。それが本来別の話ではなく、つづいたものであったことは、古本系の醍醐寺本『水言鈔』の示すとおりで、『水言鈔』の本文では、「答へられていはく、淳か。字は談ぜられず[#「字は談ぜられず」に傍点]。本集を見るべし[#「本集を見るべし」に傍点]。嵯峨源氏の類か」という註記があったものが、後世の写本では欠落したようである。『体源鈔』の「滾」はこの「淳」の誤写であろう。大江の匡房の話を聞いて、弟子の藤原の実兼(この人は、平治の乱で上皇方の謀将となって殺された学者藤原通憲信西[#「信西」に傍点]の父親にあたる)は、あて[#「あて」に傍点]字で淳と書いたというのだが、字はあたっている。嵯峨天皇の皇子の中に「滾」という人物はないが、「淳」という人物は確かにある。 『紹運録』の嵯峨天皇のところを見ると、驚くなかれ、五十人の皇子、皇女の名が並んでいる。仁明天皇(正良)以下、秀良・業良・基良・忠良の四親王、正子・季子・俊子・芳子・繁子・業子・基子・宗子・有智子・仁子・純子・斉子の十二内親王、次に王として、淳王ひとり。源の信以下、弘・常・寛・明・定・鎮・生・澄・安・清・融・勤・勝・啓・賢・継の十七源氏、源の貞姫以下、潔姫・全姫・善姫・更姫・若姫・神姫・盈姫・声姫・容姫・※[#「山+端のつくり」、unicode37E8]姫・吾姫・蜜姫・良姫・年姫の十五女源氏である。皇子でありながら親王にも列せられず、源氏にもならなかったこの淳王という人は、たしかにふしぎな人物である。天皇の直接の子でありながら、不遇にも、王の位しか持たない。しかし、ごく尋常な考え方をするかぎり、『体源鈔』・『江談抄』に見える、作曲家で琴の名手で碩学の、「嵯峨天皇の隠君子」ないし「嵯峨の隠君子」「隠れ若子《わくご》」は同一人物で、この淳王とみてよかろう。年代的にもほぼ適切である。 「嵯峨の隠君子」と『江談抄』が呼んだ淳王と、「嵯峨の隠君」と『本朝皇胤紹運録』が呼んだ醍醐の第三十九番目の皇子と、時代を隔てて、二人の隠遁者があった。ひとりは隠遁といっても、出家もせず、芸術学問に耽溺して、不遇の身ながら自由人として生きたらしい。遅れて世に出たもうひとりは、隠遁以前に、成年式の通過儀礼さえ受けず、したがって王にも列せられず、終生を「童子」で押し通したらしい。古代天皇制は、被支配者の側においてばかりでなく、天皇の子どもたちの中に〈よけいもの〉を派生させる構造・性格を有していたのであった。そして、とりわけ、わたしが「嵯峨の隠君」すなわち「童子」皇子によって衝撃を受けるのは、その成人儀礼の拒否ということである。 『源氏物語』を読んでいくと、「匂《にほふ》宮」の巻にきて、いよいよ「宇治十帖」の主人公役薫が本格的に登場する。薫は、名目上は光源氏のむすこであるが、実は、女三の宮と柏木の衛門督《えもんのかみ》のもののまぎれ[#「もののまぎれ」に傍点]によって生まれた。その暗い宿命をかぎつけて、薫は、ひたすらに懺悔の日々に生きようとする母、女三の宮の道心に同情し、苦悩の果てに死んだ父の柏木の面影を慕うようになる。作者は少年薫にこう思案させた。 [#ここから1字下げ] 「|あけくれ《(母女三の宮が)》、|勤め給《(仏道に)》ふやうなめれど、はかなくおほどき給へる、女の御悟《おほむ》りのほどに、蓮《はちす》の露もあきらかに玉と磨き給はむことかたし。|五つのなにがし《(女人五障)》も、なほ、うしろめたきを、われ、この御心地を助けて、おなじうは、後の世をだに」と思ふ。かの、|過ぎ給《(柏木)》ひけむも「やすからぬ思ひに、|むすぼほれてや《(世を去られたか)》」など、推《お》し量《は》かるに、世をかへても、対面《たいめ》せましき心つきて、元服は[#「元服は」に傍点]、物憂がり給ひけれど[#「物憂がり給ひけれど」に傍点]、すまひ果て給はず[#「すまひ果て給はず」に傍点]、おのづから、世の中にもてなされて、まばゆきまで花やかなる、御身の飾りも心につかずのみ、思ひしづまり給へり。 [#ここで字下げ終わり]  薫君は、出家入道を願って、元服をきらったけれども、周囲に抵抗しきれないで、心ならずも成年式をすませ、男となったというのである。この書き方に対して、実は、わたしは永い間、ついていけない感じを抱いていた。中村義雄は平安時代の元服礼の年齢を調べて、天皇にあってはだいたい十一〜十五歳ぐらい、皇太子は十一〜十七歳ぐらい、親王もこれに準ずる(『王朝の風俗と文学』)とみているが、薫の厭世観を色濃く描き出そうとするあまり、「元服は、物憂《ものう》がり給ひけれど、すまひ果て給はず」と、抵抗しきれなかったものの、そんな年頃で元服を拒否する人間造型を試みているのは、作者が、この貴公子に、現実ばなれした思想性を付与しすぎていないか。そう感じつづけていたからであった。  人間の人生における抵抗の手段として、百人が百人経験するはずの通過儀礼を拒否する、ということは、結婚式の拒否というような形ではありうるが、まだ少年期の人間が成年式を拒否し、大人になることを拒むということは驚くべきことで、人生に対する徹底した否定ともいえる。少年薫がそれを考えたというだけでも、わたしには驚異であり、疑わしいことであった。しかし、それは、わたしが平安朝貴族社会の精神的風土性を、紫式部のようには熟知していなかったからでしかなかったのだ。  皇子・童子のところには、ごく当然のこととして、父天皇の使者が元服式の挙行の命を携えてきたであろう。側近はそれを喜んだであろう。しかし、皇子は、拒否する。かりに、かれが父天皇の知らない落胤であったとしても、日本中のどこの匹夫も匹婦もそれなりの環境の中で成人礼を受けて、例外なくみな大人になっていくのである。今日では、そういう人生の通過儀礼に対する人々の考えは変り、誕生・結婚・死没は別として、それを通過しないかぎり絶対に大人としての扱いを受けない、成人礼の閾《しきい》などは完全に消滅してしまった。子どもと大人の、服装・結髪などでの厳然たる区別もない。子どもは自然的成長によって大人になる。古代においては、そうではなかった。元服礼をしないかぎり、どんなに歳をとっても、やはり子どもにすぎない。いつまでも子どものままで、皇子を捨て置くわけにはいかない。すねもの[#「すねもの」に傍点]の童子のもとに、幾度も元服の勧めはきたことであろう。しかし、かれはそのたびにこの通過儀礼を拒否しぬいて、年老いていったものらしい。かれは、人間が無意識にそうして男となり、社会人となり、女をめとり、子を生み、親王として、あるいは源氏として、父となり、祖父となり、生涯を過ごすことに対して反逆した。人間一般として生きることを否定した。なにがそうさせたかはわからない。しかし、嵯峨のサロンの五十人の子女、醍醐のサロンの三十九人の子女という状況とともに、元服して「世に数まへられ給はぬ古宮」として、一般貴族からみてもうらぶれたものとしか眼に写らない生涯を、捨て扶持暮らしで飼われて年老いていく、皇胤の運命に対する敏感な状況認識が基礎にあり、その上に、身にふりかかっていたであろうなんらかの特殊事情が、皇子・童子をめぐって推測される。  平安時代の文学作品には、在原の業平をはじめとして、実在の、あるいはフィクションのさまざまな形の貴族社会の〈よけいもの〉たちが登場してくる。かれらが平安時代の文学をささえている、といっても過言ではない。しかし、その中には、ひとりとして人生の通過儀礼である成人礼を拒否し、大人として社会人となることを拒否しぬいた人物を見いだすことはできない。そして、皇子は、そういう時に、第二の道として考えられる剃髪入道をもこばんでいる。皇子の厭世主義は、仏の御手にすがることによっては解消できない、解消してはならないものとして意識されていたに違いない。世間は、それゆえ中国の隠者たちになぞらえて「隠君」と呼んだのであろうが、それが老荘風な隠遁者でもなかったことは、はるかそれ以前の通過儀礼のところでの断乎たる拒否を継続しつづけた事実が、示しえている。成人しないから、正式のなまえさえない、「隠君」と呼ばれるだけの「童子」——みずからを一刻で清算する死や出家によってではない形の自己否定を、老いの坂を越えるまで持続しつづける執念《しうね》さ。その心の境地を、わたしは、平安貴族社会における〈心の極北〉と呼ぶ外に、表現のすべを知らない。なんという荒涼! なんという、それに耐えぬく努力!  原始の夜のとばりにつつまれた、祭の庭の神がかりの恍惚が生んだ、神々の世界の幻想は滅び、古代の人々は、白昼にもの[#「もの」に傍点]に憑かれたようにフィクションをくりひろげる、新しい想像の時代を迎えようとしていた。しかし、なお、人間の運命と格闘し、自己の内部世界の惨酷をありのままに凝視する、『源氏物語』のような文学は、生い立ってきてはいなかった。その前夜、ひとり状況の〈酷烈〉にめざめて、内部世界へ向けられていた「童子」の眸の光——みずからを時代社会の〈心の極北〉に立たせて、あらゆる通俗世界をこばむ時、白髪老醜の皇子「童子」の知性は、なにを望みみ、なにをみつめていたのか。わたしは、それを切実に知りたい、と思う。 [#ここから1字下げ]  付記 「童子」が成人礼を受けなかった理由として、強度の不具者、精神病患者などという場合を一応考えないではなかった。そういう場合だからといって、未完成人間としてしか処遇しない例は、古代の天皇家には他に見られない。まして、世間から「隠君」と呼ばれる人は、自主的隠遁者で、そういう人ではあるまい、と考えられる。  また、淳王の方については、古代末の『今鏡』(「志賀のみそぎ」)に、淳王を童形とし、その理由を不具かと疑う説がある。この書は、次に橘の広相が教えを蒙った説話を『江談抄』から引きながら、内容を誤って読みとり、意味不明にしているなど、信憑度が低い。醍醐天皇の童子の伝承と混乱していないだろうか。しかし、淳王も童形で生涯を終えたとする説が古代にあることはあったのである。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]  日知りの裔《すえ》の物語——『源氏物語』の発端の構造——    〈光源氏の物語〉前史  皇子光君は全宮廷の祝福を浴びて生まれ出たのではなかった。両親たちの期待が、かれを待ちもうけていたのでもなかった。作者によれば、かれの両親、桐壺の帝と桐壺の更衣は、自分たちの愛情を貫こうとするのに精一ぱいで、やがて生まれ出る子どもの将来を空想してみる余裕を持たなかったのである。  紫式部は、光の誕生を描くにあたって、多かれ少なかれ宮廷や外戚のとりどりの願望が皇子に注がれる、当時の現実社会のならいにそむいて、そのような描写を一切しなかった。それは、この古代作家の筆が幼なかったためではなかろう。彼女は、この皇子の誕生を、そのような人々の待望につづく出来事として描くかわりに、親たちの全後宮の非難を浴びて貫こうとする愛情のための苦悩につづく出来事として描く。「とりたてて、はかばかしき後見《うしろみ》しなければ、こととある時は、なほよりどころなく心細げなり」という母更衣の描写につづけて、「さきの世にも、御契《おほむちぎ》りや深かりけむ、世になく清らなる玉の男《をのこ》御子さへ[#「さへ」に傍点]生まれ給ひぬ」と、実に簡略である。作者が「さへ」という助詞を用いて光の誕生を物語るのは、光の誕生が、ここでは、親たちの悲しい思い合いの歴史の一つの深まりの契機としてつかまれていることを、あきらかにする。かれの小さな肉体が生まれ出ることを物語るために、親たちの悲恋が描かれたのではなく——帝と更衣の物語が、かれの出生のとたんに決着をつけるのではなく——母更衣が負う人々の恨みをさらに増し、更衣を死にまで追いやる大きな契機の一つとして、光の出生は描かれた。そして、その親たちの貫きおおせなかった愛情の歴史を継ぐものとして、主人公源氏の生涯の物語は始められるのである。  光という人間の誕生を語るために、作者は、かれの肉体の誕生をこともなげに叙して、しばらく廻り道をした。主人公の登場がその誕生の物語によってなされる古代物語の伝統的な方法の中では、主人公の父母を語ることは、主人公の系図を明らかにすることであり、系図を明らかにする以上に、父母が役割を負うことはなかったようである。たとえば、「昔、式部の大輔左大弁かけて、清原の王《おほきみ》ありけり。皇女《みこ》腹に男子《をのこご》一人持たり。その子、心のさときことかぎりなし」(『宇津保物語』「俊蔭」)というふうに清原の俊蔭の出生は物語り始められた。『宇津保物語』では、俊蔭の出生(登場)を物語るために、父と母の名が語られたが、その父と母がいかに生きたかは、作者のかかわりあわないことがらであった。同じ物語の「吹上《ふきあげ》」の巻の源の涼の出生も、「かくて紀伊の国牟婁の郡に、神南備の種松といふ長者、かぎりなききよらの王にて、ただ今国のまつりごと人にて、かたち清げに心つきてあり。それが妻《め》にては、源のつねありと申しける大納言の娘、よき婿取りなどしたりけるを、ほどもなく、親も夫《をとこ》も失ひて、世の中に住みわづらひたるを、種松たばかり取りて、その腹によき娘一人ありけれど、内裏《うち》の蔵人仕うまつりけるが腹に、源氏|一所《ひとところ》生まれ給ひけり。母、生み置きてかくれぬ。帝、知ろしめさず、母奏せずなりにけり」(「吹上の上」)と語られる。そして、涼がかえりみられない帝の落胤であるという事実は、その後、何ら彼の人間性の内容とかかわりあうことはないのである。  それらに対して、仲忠の誕生に先立つ、その父母、藤原兼雅と零落した俊蔭の娘の物語は、父母たち自体のめぐりあいとその後の悲しいへだたりを、作者が力をこめて物語っている点において、大きな違いがある。それは俊蔭の娘の浄土の音楽を伝えるための数奇な運命が物語られるのであって、そうして誕生した仲忠の人間の質にかかわりあうのではない。古代最初の長篇物語が、俊蔭からその娘、仲忠へと、世代から世代へと音楽の宿縁にひかれて展開して行く物語の形式を採っていることは注目すべきで、そのような家の系譜の物語という形式を、『源氏物語』もまた踏襲したのであるが、それにもかかわらず、両者の間には大きな違いがある。紫式部は、光とその親たちを、もっと内的に、血のつながりや運命以上のもので結びつけたのである。長篇物語を貫く軸として、単なる時間や血縁や宿縁ではないものを打ち出した、といってもよいだろう。  祝福される環境を持たない出生にもかかわらず、皇子は「世になく清らなる、玉のをのこ御子」「光る君」であった。有力な后妃たちの生家の結婚政策が天皇を緊縛していて、桐壺の帝の溺愛が、遂に擁護者もなく、身分も第一級に高貴ではない桐壺の更衣を死に至らしめることになる。——純愛がすなわち殺人でしかない古代宮廷社会の構造の中で、その悲しい出生の事情にそむいて、悲恋の子は光り輝いていた。光源氏の、人を愛し、愛するがゆえに悩む業《ごう》を負った生涯には、かれに先立って進む先行者たち——帝と桐壺の更衣の物語が、前史として横たわっていたのである。  六条の御息所の生霊にとり憑かれた葵の上の死の苦悶の中で生まれた、光の嫡子夕霧。光の子として柏木の衛の門督の子を生む、女三の宮の秘密の懊悩にかげっている、薫の出生。かれらの性格と生涯の歩みが、その出生に先立つ親たちの秘められた歴史とこの上なく深くかかわりあわねばならない、とする『源氏物語』の作者は、それに先立って、光にそのような宿業を負わせることをおそれていなかった。いわば、『宇津保物語』の長篇の方法ときびしく区別されるべきものが、この作品には首巻から横たわっているのである。しかも紫式部が、人の子の出生とそれに先立つ親たちの生き方について、そのように宿業を見る時、かの女は、仏教の、一人一人が前世からの因縁を負って生き、さらに来世では、めいめいがこの世で積んだ諸因の果報を生きねばならない、という観念をはるかにつきぬけてしまっていた。親の業を受けて、子が生きる。それは、もはや仏教の教えたものではない。仏教の教えを媒介にしながら、かの女がみずから到達した文学者としての現実認識であろう。「桐壺」の巻が、光源氏の生涯に先立つ、親たちの悲恋から描かれなければならなかったのは、そのような作者の個性とかかわりあうことであった。  光源氏が自己の生涯に先立つ前史を負うということは、そのかぎりにおいて、古代最初の長篇物語『宇津保』とも、本質的な違いを持つ。俊蔭から俊蔭の娘、さらに仲忠の代におよぶ物語の展開と、桐壺の帝から光、光からその子どもたちの代におよぶ物語の展開とは、外形的には似ていても、その展開の原動力となるものを異にしている。できごとの外的連関を原動力とする立場と、できごとの内的連関を原動力とする立場の違いといえよう。『宇津保』の琴をめぐる宿世《すくせ》は、『源氏』の純愛を求めてもだえさまよう宿世のように、人間存在の内部に深くつき入った文学の方法ではない。式部は自己の個性的な方法でその飛躍をなしとげた。問題は、第一には、それが、貴族階級子女の慰みとしてしか考えられていなかった、当時の物語文学の中で行なわれたことであり、第二には、『宇津保』の伝統的方法の強い制約を受けながら、それを踏み切ってなされたことである。 「桐壺」の巻は他のどの巻のつぎに書かれたか、一時に現在の形にならず、第一次のものにさらに書き加えられたものではないかなど、この巻をめぐる論議は多い。が、一方で、なぜ、『源氏物語』は「桐壺」の巻をいただき、親たちの悲恋の物語からはじめられなければならなかったか。この巻が作者によって『源氏物語』の首巻として構想され、執筆されたことの意味の探究も必要であろう。桐壺の帝と桐壺の更衣の物語を、光の系図を語る前置き以上のものとして、深く描くことによって、紫式部は、光の血の系図[#「血の系図」に傍点]と同時に、生き方の系図[#「生き方の系図」に傍点]を語ろうとしたのであろう。もちろん、親の因果《いんが》が子にたたる、という非仏教的な〈因果〉の俗世間的認識は、古代貴族社会にもあっただろうが、それを、生きていく悩みを人間が世から世へと受けついでいる、という考えに深め、物語文学展開の支柱にすえたのは、式部の個性的な現実認識であろう。そして、それが、前期物語文学の伝統であった〈できごとを語る物語〉を、〈できごとのこころを語る物語〉に飛躍させたのであった。    光の父  光の父桐壺の帝は、古代摂関政治下の天皇として、聖別された存在であった。かれが光の母桐壺の更衣への愛を貫こうとすれば、そこには、実に大きな障壁があった。 「桐壺」の巻の帝は、古代の現実の天皇の性格に即して、神秘のヴェールに身を包んだ古代神聖家族の宗主として描かれており、物語は、その神秘の後宮世界のありさまを文章で公開したというだけでも、斬新きわまるものであった。天皇の特殊な閨房のあり方が後世ではすっかり忘れられて、帝と更衣の物語がひとりの男とひとりの女の愛の物語として読まれることが多くなったのなどは、おそらく、作者紫式部やその読者であった当時の貴族たちにとっては、驚愕に価することに違いない。たとえば、 [#ここから1字下げ]  かしこき御蔭をば、頼みきこえながら、貶《おと》しめ疵《きず》を求め給ふ人はおほく、わが身はかよわく、ものはかなきありさまにて、なかなかなる物思ひをぞし給ふ。御つぼねは桐壺なり。  あまたの御|方々《かたがた》を過ぎさせ給ひて、ひまなき御前わたり[#「ひまなき御前わたり」に傍線]に、人の御心をつくし給ふも、げにことわりと見えたり。参上《まうのぼ》り給ふ[#「り給ふ」に傍線]にも、あまりうちしきる折々は、打橋《うちはし》・渡殿《わたどの》のこゝかしこの道に、あやしき業《わざ》をしつゝ、御送り迎への人の衣の裾堪へがたう、まさなきこともあり、また、ある時には、えさらぬ馬道《めだう》の戸をさしこめ、こなたかなた、心をあはせて、はしたなめ煩はせ給ふ時もおほかり。(「桐壺」) [#ここで字下げ終わり] と物語られる箇所にしても、「あまたの御方々を過ぎさせ給ひて」の「ひまなき御前わたり」は、帝が他の后妃の局《つぼね》の前を通って更衣の住む桐壺へ頻繁に泊まりに出かけていくことなのではない。  古代の摂関政治期の天皇は、神器に禁縛されていた(1)。天皇は、宝剣とともに清涼殿の夜のおとどに寝なければならなかった。源師《の》時の『長秋記』の長承二(一一三三)年九月十八日の条に、次のような記事がある。 [#ここから1字下げ]  今日民部卿と相語らふ。「大裏《(民部卿)》の宝剣の綣緒《まきを》鼠のために喰ひ切らる、とうんぬん。これ、いかやうに行なはるべきや。御剣は必ず夜の殿《おとど》の御所にあり、主上も必ずこの所に寝《い》ねたまふ。しかるに、この二代は夜の殿を捨て置きて、他の所にて御寝あり。このゆゑに、かくのごときの事|出来《しゆつたい》するなり。なほ、夜の殿にいまさずといへども、内侍守護に候すべきか、とうんぬん」予のいはく、「必ず御|卜《うらなひ》せらるべき事なり。御剣に巻くは本のごとくに綣《ま》かるべきか。神璽の緒の損ずる時もかくのごときか、と」。 [#ここで字下げ終わり]  これは、崇徳天皇の時代のことで、権の中納言師時がかれより一歳年長の五十八歳の権の大納言民部卿藤原の忠教から相談を持ちかけられた話であるが、宝剣の巻き緒が鼠のために喰い切られてしまった、たいへんなことだが、どうしたものだろうか、というのである。忠教は太政大臣師実の五男で、毛並みがよいばかりか、蔵人頭《くろうどのとう》や参議を歴任してきた人物であるから、故実については決して暗くない。だから、「御剣は必ず[#「必ず」に傍点]夜のおとどの御所にあり、主上も必ず[#「必ず」に傍点]この所に寝《い》ねたまふ」と、「この二代」(鳥羽・崇徳)以前のことを述べているのは信憑してよかろう。かれは、堀河朝まではそうだった、ところが、「この二代は夜のおとどを捨て置きて、他の所に御寝あり」と、院政期になってゆるぎはじめた天皇のあり方を批判しつつ、下級者ながらこれまた故実家として聞こえの高い、師時の意見を求めたのである。天皇と宝剣は不二一体であり、宝剣を安置したところに就寝しなければならない、というタブーが守られなくなると、鼠が夜のおとどで跳梁しはじめたのであった。 「桐壺」の巻の帝は、もとより、こういうふうなことになる以前の、宝剣から離れることなく就寝する慣わしを厳守していた時期の天皇を描いている。九九九(長保元)年十一月七日というのは、一条天皇のもとへ左大臣藤原の道長の娘彰子が女御として入内した日であるが、 [#ここから1字下げ]  この後、上《うへ》、女御の御方に渡御あり。秉燭におよびて[#「秉燭におよびて」に傍点]還御したまふ。 [#地付き](『権記』) [#ここで字下げ終わり] というふうに、初夜でも、夜になると清涼殿に帰ってくるのが、摂関期の天皇の行動様式なのである。毎年十二月になると、荷|前《のさき》の使の行事がある。内裏の建礼門の外わずか二丈のところに幕屋を建て(天皇は、奈良時代に出雲の国造が代替りの時に貢献する際もそうであったように、服属した地方豪族からの貢納は、宮廷内では受け取らない(2)。東国からの年々の貢献物である荷前も同じ扱いであった)、そこで荷前の使の奉献するものを受納し、十陵八墓へその年の貢ぎ物の初穂を供える荷前の使を立てることになっていた。その門外わずか二丈のところへ出るにしても、宝剣と神璽の筥《はこ》を捧げた内侍らが前と後を進み、天皇は剣と玉に挟まれて行幸するのでなければならない。自分を神聖化しているシンボルから離れることができない——それが天皇であった。 『大鏡』の藤原の師輔伝には、中宮藤原の安子が嫉妬心の強い人で、立腹して、村上天皇が、「ようさり[#「ようさり」に傍点]渡らせおはしましたりけるを」扉をしめて入れなかった話がある。これなども、ともすれば、普通の貴族が女性のところへ夜泊まりに通って行くのと同じようにみえるが、実は、ただ宵の口の訪問で、やはり深更までには夜のおとどにもどってくるのである。『枕草子』の「淑景舎《しげいさ》、東宮にまゐり給ふほど」の段には、一条天皇が中宮定子の登華殿に「未《ひつじ》の時ばかりに、『筵道まゐる』」という、殿舎と殿舎の間の道には筵道を敷かせて、その上を歩いてくるような重々しい方法で訪れ、「やがて御帳に入らせ給へば、女房も南面《みなみおもて》にみなそよめき往ぬめり」というふうな運びになり、「日の入る程に起きさせ給ひて、……かへらせ給ふ」という還御の描写がある。地面を踏ませないために、天皇の前に筵道をひろげ、後からすぐに巻き立てて、何人にもそれを踏ませないようにする特殊な方法で后の御殿にやってくる天皇。午後二時頃にきて同衾、衣ずれの音さらさらと女房たちは一斉に席をはずし、日没に起き出でて帰っていく。天皇の真昼の情事は、暗くなって牛車に乗って女のもとを訪い、まだ明けきらぬうちに起き出でて帰るのが慣習の、暗いうちに来て暗いうちに帰る当時の貴族一般の慣習からすれば、異常である。その異常性をささえているのが、宝剣のある場所で寝なければならぬ、という掟であった。 『枕草子』のこの段では、天皇が清涼殿へ帰った後、中宮の兄の伊周が訪問してきているところへ、「宮のぼらせ給ふべき御使にて、馬の内侍のすけまゐりたり。『今宵《こよひ》はえなん』などしぶらせ給ふに、……のぼらせ給ふ」と、その夜も定子に清涼殿へ来ることを求める使者が来、定子は渋るが、結局は参上する、という描写がある。「桐壺」の巻の「ひまなき御前わたり」と「まう上り給ふ」の関係もほぼこんなぐあいと見てよい。  ある夜は男の方から通い、ある夜は女の方から、……といった描写ではない。前者は、日中もしくは宵の口、要するに当時の考え方では昼の部に属することがらで、後者は夜の部に属することがら、ということである。『枕草子』の中宮定子の記事のように、一条天皇が昼はそちらから「筵道まゐる」仰々しさでやってきて、夜は夜で夜のおとどにお召しになるというふうであると、中宮だから文句のつけようがないが、更衣であったりすれば、当然後宮の大問題にならざるをえないだろう。  宝剣とともに寝なければならなかった、そのためには、夜のおとどという寝所を離れることの出来なかった天皇の性格から、『源氏物語』でも、桐壺の帝は桐壺の更衣のために、「後涼殿にもとよりさぶらひ給ふ更衣の曹司を外《ほか》に移させ給ひて、上局《うへつぼね》に賜はす」というような特別な配慮をし、「そのうらみやらむ方なし」と更衣は同輩のより深い怨みを負うことにもなる。  このように宝剣とともに寝なければならなかったのは、摂関期までの天皇で、院政期に入ると、天皇は宝剣を夜のおとどに置き去りにして他の所で寝るように変ってきたことが、前に引いた『長秋記』の記事からもわかるが、『侍中群要』によると、それがその後どうなったかわかる。『侍中群要』十巻五冊は、蔵人服務手引き全書というべきもので、「延宝六年一校合了」という奥書を持つ架蔵本や「続々群書類従」本は、みな嘉元四(一三〇六)年書写の奥書を有する金沢文庫本の転写本で、そのもとの金沢文庫本は養和元(一一八一)年書写の奥書を伝えているから、平安時代のものであることは、明らかである。しかし、「続々群書類従」第七法制部の例言に、「侍中群要十巻 蔵人の職掌に関することを記せるものにて橘広相の作[#「橘広相の作」に傍点]なり」と寛平期の文献と見ているのは、誤謬である。巻第一の冒頭の [#ここから2字下げ] 一 蔵人式云 寛平二年 [#6字下げ]左大弁橘広相奉 勅作之  凡蔵人之為体也、内則忝陪近習…… [#ここで字下げ終わり] とある寛平二(八九〇)年の「蔵人式」からの引用を見謬ったのである。この書の第一の「格子を上ぐる事」に、蔵人は、朝、清涼殿の格子を上げた後、 [#ここから1字下げ]  昼の御座《おまし》の御|茵《しとね》をひきのべて、大|床子《しやうじ》にある御剣を取りて、御茵の南に、柄を西にして刃を南にして、これを置く。 [#ここで字下げ終わり] という任務の規定があり、「格子を下す事」の方に、夜半、格子を下すと、 [#ここから1字下げ]  御茵をひきかへし、御剣を取りて、大床子の上の御厨子《みづし》に置く。 [#ここで字下げ終わり] という仕事をすることになっている。  宝剣はもう夜のおとどへ持っていかず、昼のおましで、昼は茵の上に、夜は大床子の御厨子に置かれることになっている。天皇が必ず宝剣とともに夜のおとどに寝た堀河天皇までと、宝剣だけが夜のおとどに置かれるようになった鳥羽・崇徳天皇時代、宝剣はもう昼のおましから動かなくなった『侍中群要』の時代——この書の年代は逆に内容からそういうふうに規定できる面がある。  摂関期の天皇は、そのような日知り(太陽の司祭)的神秘的な性格が濃厚にありつつ、同時に、もっと現実的な摂関政治的権力機構の重要な付属機関(3)としての〈天皇〉という側面を持っていた。「桐壺」の巻は、劈頭から後宮における天皇の愛をめぐる妻妾たちの凄烈な憎み合いの状況を描き出しているが、帝が、ただひとりの権勢の後楯のない桐壺の更衣に対する純愛に生き抜こうとするのは、摂関・大臣家から出ている諸后妃たちへの適当な愛の分配を妨げ、ひいては、彼女たちの父兄に外戚たるの望みを断念させる意味をもっていた。 [#ここから1字下げ]  いづれの御時《おほむとき》にか、女御・更衣あまたさぶらひ給ひけるなかに、いとやむごとなき際《きは》にはあらぬが、すぐれて時めき給ふありけり。はじめよりわれはと思ひあがり給へる御方々、めざましきものに貶《おと》しめ嫉《そね》み給ふ。同じ程、それより下臈の更衣たちは、まして安からず。  朝夕の宮仕へにつけても、人の心をのみ動かし、怨みを負ふ積りにやありけむ、いとあつしくなりゆき、もの心細げに里がちなるを、いよいよ飽かずあはれなるものに思《おも》ほして、人のそしりをもえはばからせ給はず、世のためしにもなりぬべき御もてなしなり。 [#ここで字下げ終わり] という紫式部の書き出しが、後宮の女性たちの間の愛情をめぐる葛藤を、すぐつづけて、 [#ここから1字下げ]  上達部《かんたちめ》・上人《うへびと》などもあいなく目をそばめつつ、いとまばゆき人の御おぼえなり。唐土《もろこし》にも、かかる事の起こりにこそ、世も乱れあしかりけれと、やうやう天の下にもあぢきなう、人のもてなやみぐさになりて、…… [#ここで字下げ終わり] と〈世の乱れ〉、すなわち政治問題として受け取る男性貴族たちが出てきたように書き進めているのは、実にその点なのである。古代中国の「後宮三千人」的|後宮《ハレム》の主催者皇帝と違って、適切な愛の分配機関として、摂関・大臣家に対して外戚たりうる機会を閉ざさない帝徳を持たねばならない——摂関政治期の天皇に要求されている主要な人格的要件のひとつは、これであった。物語の帝はそれを拒む。とすれば、それに対する強烈な反撃を蒙らざるをえない。そして、それはすべて、帝へでなく、更衣へ向けられるのが事の当然の成り行きでもあった。作者は、〈怨み〉という他人の感情が、生理にひびいて病気を生じさせる、あの原始以来の人間の精神状況が強く生き残っていた、古代社会の一員であったから、「人の心をのみ動かし、怨みを負ふ積りにや」病みがちとなり、やがて死んでいく女の像を創り出した。女は男の子を生み、そのまだ三つの年に世を去る。母も、しかるべき後見者もない、前途暗澹たる——その悲しい運命の代償であるかのように、光り輝く玉のような容姿と容貌の持ち主である遺児、という作者の空想は、それ以前の物語創造の伝統に背いて飛躍的であり、どれほど、〈霊《もの》のかたり〉のように〈もの〉に憑かれて語り進められた結果であったにせよ、冷徹に、時代社会と、宮廷の特殊事情をリアルにふまえている、もうひとつの側面を持していた。    光の母  その年の夏、御息所《みやすどころ》、はかなき心地にわづらひて、Aまかで[#「まかで」に傍線]なむとし給ふを、暇《いとま》さらに許させ給はず。年ごろ、常の篤《あつ》しさになり給へれば、御目馴れて、「(帝)なほしばしこころみよ」とのみのたまはするに、日々に重り給ひて、ただ五《いつか》、六日《むゆか》のほどにいと弱うなれば、母君泣く泣く奏して、Bまかで[#「まかで」に傍線]させたてまつり給ふ。  かかるをりにも、あるまじき恥もこそ[#「あるまじき恥もこそ」に傍点]と心づかひして、御子《みこ》をばとどめたてまつりて、忍びてぞ出で給ふ。かぎりあれば[#「かぎりあれば」に傍点]、さのみもえとどめさせ給はず。  迫害がさらに深刻になる以前に、女の健康の方が急激に悪化した。里邸へ退出して療養したい、という願い。恋々として引きとめ、身辺から離すまいとする帝。「ただ五、六日のほどに」病気療養のための退出である「まかで」(A)が、急加速度的に永遠の袂別を意味する「まかで」(B)になってしまう、という物語の進め方は迫真性を持っている。古代の宮廷は、帝王以外の者がそこで死ぬことはできなかった。死の穢れが神聖な宮廷にかかるからである。后妃といえども、臨終には里邸へ下って死ぬのがさだめであった。あれほど手離すまいとしたにもかかわらず、「かぎりあれば、さのみもえとどめさせ給はず」と天皇も危篤状態の更衣の退出をはばみえないのは、実は、彼自身のそのような神聖性に基くものであるという矛盾が、そこに鮮かに浮き彫りされている。「かぎりあれば」とはそういう意味のことばである。現代風に訳せば、「不文法ながら、宮廷には厳然たる掟《おきて》のあることだから」というようなところであろう。 「桐壺」の巻では、ここから最初のクライマックスにさしかかる。それは帝が自身を取り巻くタブーと格闘する場面である。しかし、従来、そういう帝のタブーとの格闘を中心に見ていく読み方は、実に長い間埋没してしまっていた。この「かぎりあれば」を「物には限度といふものがあるから」(池田亀鑑「日本古典全書」)とか、「とめても限度がある」(山岸徳平「日本古典文学大系」)というふうに受けとるのは、「かぎりあれば」をすなおに文字に沿って訳してそうなるまでで、では、その限度とはなにか、ということは、一向はっきりしないのである。もし病状の重さが限度というのならば、宮中でより手厚い看病をすればよい道理でもある。その点、玉上琢弥の「いつまでも別れを惜しみたくとも[#「いつまでも別れを惜しみたくとも」に傍点]お互に身分柄、限度がある」(『源氏物語評釈』)は、両者の身分からの限度だということを明らかにしているし、玉上氏の書はこの箇所をめぐって、宮廷では天皇しか死ねない慣習を指摘してもいる点で一歩深いが、実際のこの語については、「いつまでも別れを惜しむ」ことが出来ないという身分上の限度ととるとすれば、それはあくまで、「かぎり」=限度という文字づらの意味にひかれたもので、別れを惜しむ惜しまないの問題ではなく、別れたくないのだが、別れねばならないきまりがあるので別れねばならない、という、このせっぱつまったギリギリの描写をつかみそこねたことになる。  なぜそういうことになるのか。古代の「かぎり」という語には、「限界・限度」という意味だけでなく、「きまり・おきて・さだめ」という意味がある。その点が明確になっていないからであろう。問題になっている『源氏物語』を避けていえば、たとえば、藤原定家の書いた『松浦宮物語』には、主人公の渡唐を母|皇女《みこ》が九州の松浦潟まで見送って、そこで帰国の日まで待つと言いはる場面がある。すると、父|大将《だいしよう》もそれにひかれて、母とともども九州に下ってくるが、そこは、 [#ここから1字下げ]  大将かぎりある[#「かぎりある」に傍点]宮仕へを許され給はねど、住み給はんさまをだに見置かんと、沿ひ給へれば、 [#ここで字下げ終わり] というふうに叙述されている。「服務規定がちゃんとある宮仕え」の身の上なので、三年間わが子を松浦潟で待つ休暇などは、とてももらえないのである。  十二世紀最末期の『松浦宮物語』の「かぎりある」の用例で、十一世紀の『源氏物語』の「かぎりあれば」の意味を推すということは適切でない、ということも考えられるが、古い用例は、七五八(天平宝字二)年にもあるから、『源氏物語』の「かぎりあれば」にそういう用法を考えてみることは、少しも無理ではなかろう。正倉院の古文書中に、 [#ここから1字下げ]  謹啓 安宿広成請事  右人、限有[#「限有」に傍点]私事十箇日間、所請如件、乞照此|伏《(状)》垂処分之、謹啓    天平宝字二年十月六日 [#地付き]判官川内祖足  [#地付き](『大日本古文書』四)  [#ここで字下げ終わり] という、経師|安宿公《あすかのきみ》広成が休暇を申請し、それに基いて上司がさらに上に申請した文書があるが、「かぎりある私事の(休暇)十箇日間」は、「限度がある私事の(休暇)十箇日間」と解しては、意味を成さない。「規定にある私事の(休暇)十箇日間を請うところくだんのごとくであります」の意としなくてはならない。それは、たとえば、別の時に、同じ人広成が自身で書いた、 [#ここから2字下げ] 安宿広成解 申請帙了暇事  合十箇日  右、為私斎食[#「為私斎食」に傍点]、請暇日如件、以申    宝亀二年二月十四日 [#地付き](『大日本古文書』十七)  [#ここで字下げ終わり] といったような解文《げぶみ》の「私の斎食のために暇日を請ふこと、くだんのごとし」を、上司が受け継いで上申しようとすると、「私の斎食」というような具体的理由は、内規に照らして、いかなる休暇か、休暇の種別を問ひ、「限りある私事」とつかみ直して、法的に処理されるのではなかろうか。  同様に、    七夕後朝のこころをよめる [#地付き]内大臣  [#ここから2字下げ] かぎりありて[#「かぎりありて」に波線]別るる時も棚機の涙の色はかはらざりけり [#地付き](『金葉和歌集』)  [#ここで字下げ終わり] などの「かぎりありて」も「いくら愛し合っていても、やはり限度があって別れる時」ではなくて、「そういうさだめになっていて別れる時も」の意と見ねばならないであろう。  こうした古代の天皇の極度に死の穢れを忌む司祭者的神聖性は、院政への移行過程で大幅に変質していったようである。天皇自身がそういう聖別者の重みに耐ええなくなり、それとの戦いを進めていったようである。十三世紀に源の顕兼が編んだ『古事談』は、白河天皇の話として、次のような話を載せている。 [#ここから1字下げ]  賢子の中宮は、寵愛他に異るのゆゑ、禁裏において薨ぜしなり。御悩のため危急たるといへども、退出を許さざりしなり。閉眼の時も、なほ御屍を抱きて起ち避らしめ給はずとうんぬん。  時に俊明卿参入して申していはく「帝者の葬《とぶら》ひに遭ふの例、未曾有にさぶらふぞ。はやく行幸《ぎやうがう》あるべし」とうんぬん。仰せていはく、「例はこれよりこそ始まらめ」とうんぬん。 [#ここで字下げ終わり] ここには、しきたりを破って愛する者の死を看とった、最初の天皇のことが語り伝えられている。  一〇八四(応徳元)年九月二十二日のことであるが、鳥羽天皇が宝剣とともに寝なくなるよりも約二十年前の、白河が愛に導かれてした反則行為こそは、紫式部が、「桐壺」の巻で、桐壺の帝に貫かせえなかったものであった。摂関政治から院政へ、という歴史過程は、単に政治形態の変化を意味するだけではなく、天皇そのものが禁縛から一部解放されて神秘性を失っていくことでもなければならなかった、とみるべきであろう。院政期の天皇は、摂関期の天皇とは、宝剣を離れて愛する妻のもとへ泊まりにもいくし、死んでいく妻を抱きしめて看とってもやる、というふうに具体的に違ったものになっている。院政の時代がくるというのは、そういう天皇の神秘性の稀薄化の意味をも具体的に含んでいる、といってよい。  先に掲げた「桐壺」の本文にもどってみると、更衣は「ただ五、六日のほどにいと弱うな」ったので、「かかるをりにも、あるまじき恥もこそ[#「あるまじき恥もこそ」に傍点]と心づかひして、御子をばとどめたてまつりて忍びて」退出しようとする。これは、諸註釈書によれば、 [#ここから1字下げ]  あろうとも思わぬ(あるはずがないと思う)恥まで、如何にもかく事もあろうかと。 [#地付き](山岸徳平「日本古典文学大系」)  万一、あえて悪だくみをする者があって、あるまじき恥にあった場合、自分一人の恥ならまだしものこと、長い将来のある御子までがまきぞえになってはとりかえしようがない。 [#地付き](玉上琢弥『源氏物語評釈』) [#ここで字下げ終わり] というふうに理解されているが、どうも作者の意図からははずれすぎているのんき[#「のんき」に傍点]な受けとり方といえよう。「絶対にかいてはならない恥」——死ぬ時宮廷を穢したということがあってはたいへんな恥になる、と心づかいして、退出を決意したのである。「母君、泣く泣く奏して、まかでさせたてまつり給ふ」「御子をばとどめたてまつりて、忍びてぞ出で給ふ」と反覆強調する作者の気持は、そのことの重大性を示している。それをやるまいとする帝は、タブーと人間の自然な感情のあわいでもがく男である。いったんは仕方なく更衣の退出を認めて、せめて輦車《てぐるま》の宣旨で厚遇しようとするが、 [#ここから1字下げ]  かぎりあれば、さのみもえとどめさせ給はず。御覧じだに送らぬおぼつかなさを、いふ方《かた》なくおぼさる。いとにほひやかに、うつくしげなる人の、いたう面《おも》痩せて、いとあはれと物を思ひしみながら、言《こと》に出でても聞こえやらず、あるかなきかに消え入りつつ、ものし給ふを御覧ずるに、来《こ》し方行く末おぼしめされず、よろづの事を泣く泣く契りのたまはすれど、御いらへもえ聞こえ給はず、まみなどもいとたゆげにて、いとどなよなよとわれかの気色にて臥したれば、いかさまにとおぼしめし惑はる。輦車《てぐるま》の宣旨などのたまはせても、また入らせ給ひて、さらにえ許させ給はず。 [#ここで字下げ終わり]  しかし、意を翻して、宮廷の鉄則を破り、愛する更衣をわが手で看とろうとするのである。これをもし貫けば、後に白河天皇が遂にやってのけたことを、紫式部が、フィクションの上で、七、八十年もはやく先取りしたことになったかもしれない。しかし、式部は、理想を物語る作家ではない。現実の矛盾に悶えぬく人間から眼を離さない作家である。いったんのその決心がゆらいでいく過程を描いて、冷酷でさえある。 [#ここから1字下げ] 「(帝)かぎりあらむ道(4)にも、おくれ先立たじと契らせ給ひけるを、さりともうち棄てては、え行きやらじ」とのたまはするを、女もいといみじと見たてまつりて、  かぎりとて別るる道のかなしきにいかまほしきは命なりけり いとかく思う給へましかば」と息も絶えつつ、聞こえまほしげなる事はありげなれど、いと苦しげにたゆげなれば、かくながら、ともかくもならむを御覧じはてむ、とおぼしめすに、今日はじむべき祈祷《いのり》ども、さるべき人々承れる、こよひよりと聞こえ急がせば、わりなく思ほしながら、まかでさせ給ふ。 [#ここで字下げ終わり]  このあたり、帝は、かねて死に際もともどもにと誓ったものを、いま自分を見捨てては行けまい、「さりともうち棄てては、え行きやらじ」と、怨みがましくかきくどくが、女は、「かぎりとて別るる道のかなしきに」と運命を諦視し、死を自覚するがゆえに、この愛する人のためにいま切実に生を冀う心持になっていることを歌って、そのくいちがいがあまりにもかなしい。この非常の時の激越の情は、思わず歌のしらべを採ってもいる。帝と更衣の会話の「退出させない」「生きたいと思います」というずれ、日常のけのことばでかきくどくのに対して、必死の声をふりしぼってはれのことば歌で応じるくいちがい——作者は人間間のギャップが真実を尖鋭に現わすことを知りぬいている。 「ともかくもならむを御覧じはてむ」とますます固く決心した帝、そこへまたまた理由を並べて退出をせかす人々。表面の理由は祈祷でもなんでもよい。いまは根本には、「あるまじき恥もこそ」の配慮が働きつづけているのである。そして、遂に帝も折れた。タブーは破られなかった。更衣は里邸に退出して、「その夜中うち過ぐるほどに」息を引き取ったのだ。  後、「野分《のわき》だちて、にはかに膚《はだ》寒き夕暮れ」喪家に帝は靫負《ゆげい》の命婦を見舞いに遣わすが、そこでこの帝の使者に対して、更衣の母が「つひにかくなりはべりぬれば、かへりてはつらくなむ、かしこき御志を思ひ給へられはべる」ともらしたことは、問題の本質をこの上なくあらわしている。更衣の老母のぐち[#「ぐち」に傍点]は単なる逆恨《さかうら》みではない。古代の宮廷では、天皇の愛情が純粋であればあるほど、愛されるものを苦しめる結果になる、という真相にふれえている。作者が生み出した桐壺の帝の人間造型は、そのかぎりにおいて、型破りの帝王描写であった。光源氏をそのような人物の子として物語り、桐壺の帝から光へ——世代から世代へと、真実な愛にひたされて生きたいと悶える心を受けつぐ人間たち[#「たち」に傍点]の像を、物語の世界に息づかそうとした作者は、それ以前に、そのような心の持ち主に共鳴しうる自己と、自己に先立つ同じような人間との心と心の触れあいを、体験しているのでなければならない。単に血つづきというだけでない光の「生き方の親」を設定する心は、自己と自己に先立つもの、父母との生き方のぬきさしならぬ連続性[#「生き方のぬきさしならぬ連続性」に傍点]を実地に体験していなければならないはずだ。  それはそれとしても、それを自己および自己に近いものの状況によって写し取ろうとせず、古代的に聖別された存在である天皇が、数々のタブーとの格闘に苦しみ抜く姿の想像において、人間の愛の問題をより切実に描きうるとする、フィクション設定のかげに潜む式部の認識には、注目すべきものがある。時代の人間性をめぐる問題のもっとも尖鋭な矛盾点を、過敏なまでに的確に感じとっていたのであった。 [#ここから2字下げ] (1)近代に入っても、地方行幸の天皇の御召列車には同じ箱に必ず神璽を捧持した侍従が同乗していた光景は、まだ人々の眼底に残っていよう。 (2)『延喜式』巻三、神祇三、臨時の祭には、「国司、国造・諸の祝部ならびに子弟等を率ゐて入朝す。すなはち京外の便処[#「京外の便処」に傍点]に献げ物を修献して、神祇官の長《をさ》自ら監視し、あらかじめ吉日を卜して官に申して奏聞し、所司に宣示す」と出雲国造の代替りの時の金銀装|横刀《たち》一口・鏡一面・白眼の鴾毛《つきげ》の馬一疋・白鵠《しろきおほとり》二翼等々の貢献物の受理の仕方が規定されている。 (3)石母田正『日本古代政治史序説』 (4)この「かぎりあらむ道」については、諸家  [#ここから5字下げ、折り返して6字下げ] 1 死出の路にも一緒にと。(池田亀鑑「日本古典全書」) 2 たとい定まっているとしても、その道にも。死出の旅路にでも。「限り」は決定している意。(山岸徳平「日本古典文学大系」) 3 死はおのおの前世からあらかじめ定まっているのである。もろともに死ぬなどというには、よほどの因縁が必要だ。(玉上琢弥『源氏物語評釈』) [#ここから5字下げ] というふうに説く。これでよいと思うが、ここを山岸説のように、「『限り』は決定している意」と解く以上、前の「かぎりあれば」も同じ筆法とみるべきであった。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]  フダラク渡りの人々    還らざる渡洋者  太平洋の洋上はるかに乗り出して行った人々——時化《しけ》にでも逢えば、赤道を越えて漂って行ったかもしれない、その古代末の渡航者たちのことを、子孫のわたしたちは、もはやほとんど忘れかけている。  その渡航の企ては、多くの場合、ひとりでしなければならなかった。そして、おそらく、その目的地に到達できた人は、ついになかったろう。それにもかかわらず、渡航を企てる人のたね[#「たね」に傍点]はなかなか絶えなかった(註)。出港地は、主として熊野の那智の浦。めざすはフダラク(補陀落)山《せん》。フダラク渡りと呼ばれるのが、その企てである。  フダラク山は観世音菩薩のいます洋上の島で、経文によれば、天竺(インド)の南の海上にある、と考えられていたらしい。その観音のみもとへ、というのが、フダラク渡りなのだが、熊野から一挙にフダラクへ直進するのが、この企ての特色であった。といって、当時の日本人が天竺の方角を知らなかったわけではない。九世紀の薬子の変で廃太子となった高岳《たかおか》親王は、聖地天竺の巡錫《じゆんしやく》をめざし、まず中国へ渡り、マラヤに進んで、たおれた。インドはその先であり、フダラクはそのまた南ではないか。が、フダラク渡りの人々は、そのようにまず天竺をめざす手続きを望まない。必要でもなかったのだ。  フダラク山は行き着けるところではなかった。多くの場合、フダラク渡りの人々は、そこにたどりつけないことに対する明確な自覚を抱いていた。どうしても彼岸の観音のみもとに達することができないことを知った上で、行き着いてはならず、行き着けないようにさえみずから策を講じて、人々は渡っていった。  一二三三(天福元)年五月二七日、執権北条泰時が、将軍藤原の頼経のところへ一通の書状を携えて来、次のような話をした。 [#ここから1字下げ] 「さる三月の七日、熊野の那智の浦で、フダラク山へ渡る者がござりましてな。智定房と申す者だとか。さすれば、下河辺の六郎行秀法師でござりまするよ。  故|大将家《だいしようけ》(頼朝)が下野の国那須の野の御狩りをなされた折、大鹿一頭、勢子《せこ》どもの中へ馳け下ったことがござりました。旗本の中でも手練の射手が選ばれ、行秀法師を召し、『あれ、射よや』との御下命。それゆえ、厳命に従いまして射かけましたが、矢がそれてござります。鹿は勢子の囲みの外へ馳け出る。そこを小山左衛門の尉朝政が射伏せました。  行秀は、よって、狩りの場において出家を遂げ、逐電いたしたのでござります。それ以来行くえ知れずでござりました。  近年になって、熊野に籠もり、日夜法華経を誦《ず》したてまつっておるよし、ほのかに伝え聞いてはおりましたが、遂にこういうことになりまして、ふびんなことでござります。  いま御覧に入れます書状は、智定房が同法の者に托して、わたくしめに送り届けさせたもの——紀伊の国糸我の庄より取り進め、今日到来いたしました。御|覧《ろう》じませ。在俗の時のことどもから出家遁世の後のことどもまで、何もかも残らず……」 [#ここで字下げ終わり]  おそばの周防|前司《のぜんじ》親実がそれを読み上げると、おりから将軍のもとへ祗候していた男女は、感涙にむせんだ。執権は、「昔、よき弓馬の友であったが、……」と嘆いてやまなかった。  しかも、「かの乗船は、屋形に入るの後、外より釘をもって、みな打ち付けたり。一扉もなし。日月の光を観ることあたはず。ただ燈《ともしび》によるべし。三十箇日の程の食物ならびに油等僅かに用意せりと云々」(『吾妻鏡』)というのが、フダラクへの船出の姿であった。観音のいますフダラクは、すべてを謝絶した常夜の世界で、揺り上げ揺り下げられる船の激動にだけ大洋を感じとりながら、漂い求められるのだった。古代の伝承によれば、〈間《ま》なし籠《かたま》〉は、わたつみの宮への通い船であったが、一矢を射損じた東国男《あずまおとこ》は、生涯、無常を観ずるために身を責めぬいて、その果てに、こういう〈目なし船〉に乗った。フダラクへ——それは深く決意された自殺行にほかならないが、この洋上の死を、単なる生命の否定、肉体の終焉——それだけとみてよいだろうか。    常世《とこよ》への港  わたしは、まだ、わたしたちの祖先の〈日本脱出〉や〈自己抹殺〉の試みの系譜について、くわしいことを知らないが、紀伊半島の南端が、日本のさいはての地として人々の脳裏に強烈に印象づけられていた、非常に永い時代があったことは、ほぼ信じこんでいる。大和の国から、言うに言われぬ辛苦をつづけて、深い山々を踏み分けるか、いったん河内へ出て、長い船旅か海岸伝いの旅の果てに到達できる、この国の極南の地は、古くから民族の〈絶望〉と〈異土に再生を求める心〉とに深く結びついていたらしい。 『日本書紀』の「一書に曰はく」の条によれば、オオナムチノミコトとスクナビコナノミコトの協同の国つくりの伝承は、こういうふしぎな終幕を持っている。「むかし、大己貴命《おほなむちのみこと》、少彦名命《すくなびこなのみこと》にかたりてのたまはく、われらが造れる国、あに善く成れりと謂《おも》へらむや。少彦名命|対《こた》へてのたまはく、或《ある》いは成れるところもあり、或《ある》いは成らざるところもあり、と。この談《ものかたりごと》は、けだし幽深《ふか》き致《むね》あらむ。その後、少彦名命行いて熊野の御崎に至りて、遂に常世郷《とこよのくに》にいでましぬ。また、いはく、淡島に至りて粟茎《あはがら》にのぼりしかば、すなはち弾《はじ》かれ渡りまして、常世郷に至りましき。」  オオナムチとの間に「幽深《ふか》き致《むね》」がある政治上の意見の不一致を生じて、スクナビコナは、熊野の浦から常世の国へ渡ったのである。そういう場合の政治的引退が、伝承が伝えるそのかみの社会で、どのような姿をとらねばならなかったかは、記紀の伝承によってうかがうほかはなかろう。そのひとつの場合。出雲の神々が天孫族に国を譲った時、神々はそれぞれに身の始末をしたが、オオクニヌシの嫡子ヤエコトシロヌシに関しては、「かしこし、この国は天つ神の御子にたてまつらむ」といい、「その船を踏み傾《かたぶ》けて、天《あま》の逆手《さかて》を青柴垣《あをふしがき》に打ち成して、隠」れたとも(『古事記』)、「海の中に八重《やへの》蒼柴籬《あをふしがき》を造りて、船《ふなのへ》を踏んで避」ったとも(『日本書紀』)、伝えられている。スクナビコナの場合は、地をこの国の南のさいはてに選び、そこから常世の国へと向かった。「常世郷《とこよのくに》にいでましぬ」——それをある一種の譬喩的表現と解するのは、近代人のさかしらであろう。神武天皇の東征軍が最初の大和進攻で敗退し、道を転じて熊野から攻め入ろうとした時の伝承にも、「遂に狭野《さぬ》を越えて、熊野神邑《くまののかみのむら》に到り、すなはち、天《あめ》の磐盾《いはたて》に登りて、よりて軍を引きて、ややややに進む。海の中にしてにはかに暴風《あからしまかぜ》に遇ひて、皇舟《みふね》漂ひぬ。時に、稲飯命《いなひのみこと》すなはち嘆きていはく、『ああ、わが祖《みおや》はすなはち天つ神、母《いろは》はすなはち海の神なり。いかにぞ、われを陸《くが》に厄《たしな》め、また、われを海に厄むや』のたまひ終はりて、すなはち剣を抜きて海に入りて鋤持《さひもち》の神となる。三毛入野命《みけいりぬのみこと》また恨みてのたまはく、『わが母《いろは》および姨《をば》は、ならびにこれ海の神なり。いかにぞ、波瀾《なみ》を起こし、もつて溺らすや』といひて、すなはち浪の穂を踏みて、常世郷《とこよのくに》にいでましぬ」(『書紀』)とある。この地は常世への港であったのである。そういう地理感覚は、その後、さまざまな経路を経てに違いないが、ふしぎにフダラク渡りの人々にひきつがれている。  ここで大切なことがらは、熊野という一地点の性格ではない。民族の歴史の中で伏流化している、危機ないし終末に際しての、〈南への脱出〉の傾向性である。〈南への脱出〉は、すなわち、果てしない大洋へ身をゆだねることである。かつて川村|杳樹《はるき》と称して柳田国男が「巫女考」を書いた時、かれは、人柱的な〈志願投水〉の死に方や入定塚《にゆうじようづか》伝説を問題にして、こういうことをいっている。 [#ここから1字下げ]  山路愛山氏は近頃自分に斯んな話をされた。熊野には昔は自殺を奨励する信仰が行はれたのではあるまいか。平家物語の維盛入水の条を見ると、和尚は之を制止しなかったのみならず、平気で念仏の後世に役だつことなどを説聞かせて居る云々。熊野に限ったことか否かは知らぬが、山伏の入定は多く聞く話である。伊勢神領の比丘尼池などにもたしか熊野比丘尼が飛込んだ話があった。 [#地付き](「筬《をさ》を持てる女」『郷土研究』一の十一、 [#地付き]一九一四年一月、『定本柳田国男集』九巻) [#ここで字下げ終わり]  大正のはじめの柳田氏は、山路愛山の疑問をひきとって、巫女入水や山伏入定の信仰にもとづく〈志願死〉一般の論を進めているが、にわかにそこまで普遍化しないで、その間に一段階を設け、愛山の説を受けとめてみる必要がないだろうか。 『異本長谷寺験記』(古典文庫本)には、菅原道真が亡祖菅原清公の「われ補陀落山に生まれんと思ふ。なんぢ、長谷寺においてわがために法華経を講読せば、善願成就すべし」という夢の告げを受けたという話が見えるが、そういう観音信仰の拒絶の上に成り立っているのがフダラク渡りであろう。古代に栄えた京の清水寺や大和の初瀬寺中心の観音信仰のように、生命を全うしつつ、いながらにして、あるいは少々の旅の苦労を代償として、観音の利生に与《あず》かろうとする信仰の無効性が痛感されはじめて、国のさいはての地熊野の信仰が生まれる。熊野の寺院は、「閻浮提守護四神王います。一をば妙徳円満といふ。摩訶陀国の正中にいます。本地弥陀如来。日本国にては証誠大菩薩と名づく。北辰といふは閻浮の北にあり。本地薬師如来なり。日本にては熊野の権現と名づく。三は大天、四には白太といふ。この二神は兄弟なり。補陀落山にありて、本地観世音なり。日本にて那智の権現と名づく。五台山の文殊示していはく、扶桑国に九品の浄刹あり、中品上生の浄土は熊野本宮なり、とうんぬん」(『三国伝記』巻一)というように、中品上生の浄土として自己を規定し、観音の権現としての那智を唱導する。が、その「このところは補陀落山の東門なり。惣じて効験無双の庭、利生殊勝の砌なり」(同)という誇示は、この聖地によってさえも救われえないものどもに、フダラクそのものをめざさせることになったのである。清水から初瀬へ、さらに熊野への、古代の〈観音聖地の南への後退〉が極限に達し、聖地が南海の水際近くに追い下げられても、なお人々の切なる現世苦の救いに対応しきれなかった時、生きることの苦悩を抱く人々は、はるかな昔の祖先たちのように、遠い南海の水平線のかなたの国を夢みはじめたものらしい。  紀伊の粉河寺は観音を祀っている。そして、南のフダラクから潮の寄せてくる所と称される。その証拠に、海岸に潮が満ちる時刻には、堂の礎石がみな一面にぬれてくる。寺内の水はみな塩からい。「このゆゑに、日本国の補陀落に渡る人も、当寺に千日籠もりて祈請するに、霊験を蒙ることいまにあらたなり」(『三国伝記』巻二)というのである。フダラク渡りの人々が粉河寺で千日の参籠をしてから海へ乗り出したとしても、かれらの心中に伏在しているのは、寺院教団の宣伝する意図とは異なったものであろう。遂に粉河も熊野も救いの地でないとし、はるかな南溟の果てにだけ救いを信ずる裏切りが、そこにある。    北風《きた》を待ちうけて  フダラク渡りの説話が、寺院教団の信仰説話と種を異《こと》にしているらしいということは、わたしの特に関心を寄せていることがらである。かれらは往々にして熊野を経由せず、粉河寺の世話にならず、一路フダラクをめざしさえする。慕わしいのは、それらの聖地ではなく、南の海なのである。  鴨長明の『発心集』は、以前に永積安明が論じたように、今日の諸本をにわかにその原型と等しいとみることのできない面を持っているが(「異本『長明発心集』について」「長明発心集考」『中世文学論』所収)、その流布本系本文にも、永積氏の紹介した異本(神宮文庫本)にも見える話に、「ある禅師補陀落山に詣づること」がある。船の帆走術を修得してからフダラクへ出かけていった法師のことである。 「近く讃岐の三位といふ人いまそかりけり。かのめのとの男《をのこ》にて、年ごろ往生をねがふ入道ありけり」——かれは自然死を極度に恐れた。「この身のありさま、よろづの事心にかなはず。もし、あしき病《やまひ》なんど受けて、終はり思ふやうならずば、本意《ほい》遂げんこと、極めてかたし。」臨終の時、不覚にも病気にうち負けて意識を失い、そのため極楽往生を念じて息を引き取れなかったならば、どうなるか。その懸念のため、「病なくて死なんばかりこそ、臨終正念ならめ」と考えて、「身燈せん」と思うようになった、という。〈身燈〉は、わが身を火を点じて燃やし、み仏に捧げまつる燭とするのである。  総身を炎と燃やして仏に供養するために、かれは鍬を二つ真赤になるまで焼いて、左右の脇に挟んだ。すると、しばらくして、肌や肉の焼け焦げはじめたさまは、眼もあてられないすごさだったが、かれは、「ことにもあらざりけり」といって、中止した。身体が炎を放って燃えなかったからである。〈身燈〉にふさわしくわが身を燃焼させるため、かれが「その構へどもしけるほどに」心に思いあたるところがあった。身を殺して極楽へ参るのではどうしようもないではないか。凡夫のことだから、最後に往生を疑う心が生じないともかぎらない。「補陀落山こそ、この世間《よのなか》の内にて、この身ながらも詣でぬべき所なれ。しからば、かれへ詣でん」と、土佐の国の所領へ下っていき、新しい小舟一隻を作り、朝夕これに乗って漁師について梶とる技を修練した、という。その後、その梶取りをかたらって、「北風のたゆみなく吹き強《つよ》りぬらん時は、告げよ」と頼みこんで承知させた。そして、北風がくる日もくる日も吹く季節になった。男はただひとり、小舟に帆をかけて、南を指して走っていったのである。  編者長明は、この話の末に、「これを、時の人、志の至り浅からず、必ず参りぬらんとぞ推しはかりける」と世評に触れ、「一条院の御時とか、賀東ひじりといひける人、この定《ぢやう》にして、弟子一人相具して参るよし語り伝へたる跡を思ひけるにや」と自分の見解をも付している。この時長明が想起したのは、『地蔵菩薩霊験記』(良観続編「古典文庫」本)に、「長徳三年ニ賀登上人阿波ノ国ヨリ来テ、彼《カノ》寺ニ籠《コモ》レリ。一両年ノ間ニ観音浄土補陀落山ニ参ベキ由ヲセメ祈玉《イノリタマ》フニ、感アリテ示現|度々蒙《タビタビカウブリ》テ、ツヒニ長保三年八月十八日弟子栄念ト虚舟《ウツボブネ》ニノリ、午《ウマ》ノ剋ニトモヅナヲトキテ、遥《ハルカ》ナル万里ノ波ヲシノギ、飛ブガ如クニ去リ玉フ。男女貴賤肝ヲ消ス。後《アト》ニノコル御弟子達足ズリヲシテ哀《カナシ》ミケリ。ソレヨリ彼《カノ》トコロヲ足摺ノ御崎《ミサキ》トハ申《マオス》也」と見える、同じ四国の足摺岬を選んだ賀登上人のことであろう。  長明は、十—十一世紀ごろの賀東のフダラク渡りの先例を知っており、また、この近ごろの讃岐の三位の乳母《めのと》の夫のことも聞き知っていた。そういう伝承をうけ伝える流れの中に身を置いていた、と見ることができる。そういう伝承は、寺院教団の側の浄行・高徳の僧侶たちの伝には、たえて姿を現わさないものである。『元亨釈書』に収録された僧侶たちの、それぞれに終わりを全うし、薫香室内にただよって遷化したことを思い合わせても判然とするように、フダラク渡りの人々は、名僧知識でなく、寺院教団からはずれている異端者たちにすぎない。したがって、その伝承をささえていった人々もまた、寺院教団からはずれたところで、独自の信仰説話の伝承を共有していたのだろう、と考えられるのである。いいかえると、フダラク渡りの人々の背後には、そういう数少なくないフダラク渡り予備軍——その挙に踏みきれないまでも、そのこころねをひたひたと理解し、讃嘆する同調者群——がひかえ続けていたらしいのである。鴨長明もそのひとりといってよいであろう。  中世の説話文学を、その宗教文学的側面に重心をかけて、唱導文芸として性格規定しようとする見解がある。また、中世説話文学を宗教文学的なもので代表させようとまではしないが、その中の宗教文学的なものは、唱導文芸であるとする見方がある。この方は、今日ほぼ通説化しているといってよいほどに有力でもある。しかし、中世の仏教説話文学を、「唱道は演説なり」(『元亨釈書』)という定義にしたがい、説教師たちの唱導した説話を対象にひきすえた文字文芸を中心に考えるならば、このフダラク渡りの説話などは、どうも、その系列に入ってくるようには思えない。といって、〈唱導説話〉の性格をどう見定めるか、ということも、まだ十分明らかなわけではない。『法華修法一百座聞書抄』をその典型とみるか、『神道集』をその典型とみるかでも、その性格には相当な違いが生じてくるだろうし、『打聞集』も説経のための聞き書きとみられているのである。が、かりに、それらすべてを包含するような説話圏を考え、説話文学圏をかりに想定してみても、フダラク渡りの説話は、その系列には入ってこないようである。それには、三宝の功徳の宣伝・誇示はない。いかにわが身を責め、いかに救いを求めぬいたかの信仰の実践のプロセスだけが問題になっているのである。わたしは、どうしても、この両者の説話としての異質性を明確に意識せずにはおれない。  わたしが、反〈フダラク説話〉的と感じるものの一例をあげてみると、『三国伝記』(巻八)の次のような話がある。三輪の上人という貴い人があった。この上人は、かつて吉野の勝手の大明神へ百日の参詣を企て、百日満願の日に、吉野川の岸で行き倒れの死人に出会い、人々が参詣途中の触穢を避けて回り路しているので、その不便を除くためそれを取りかたづけて、自分の参詣は断念したようなこころねの人である。ところが、その川で身を潔めて大明神に祈りをささげ、参詣をやめて引き返そうとすると、どうしても進むことができず、反対に、大明神の方へ歩くと足が進む。しかたなく穢れた身で参詣し、願を果たした。その後、紀伊の国で、ある人の妻がもののけ[#「もののけ」に傍点]に取り憑かれて、多くの巫女・陰陽師などを集めて祈祷したことがある。その人の病状は、ますます悪化し、巫女も陰陽師もどうにもできなかった時、この病人が、「わが日本国には、三輪の上人より外には、貴しとも恐しとも思ふ人なし。」と口走った。それで上人を急いで招いたのである。しかし、上人が到着しないうちに、病人はこときれてしまった。しかたなく後世《ごせ》をとむらってもらおうとして、上人に死人を見せると、死人は突然「覆へる物をおしのけて」叫んだ。「この病者や惜しき、宝や惜しき」「やがてまた死にけるほどに、あるじをはじめとして、親類眷属に至るまで、われもわれもと財宝を投ぐることおびただしかりけるを、死人生きて、『これほどの物にて命をば買ふか』といひ、また死にける。かさねてなほも財宝数を知らず、あくほど面々投げければ、病者たちどころに平癒しけり」上人は、それを勝手大明神の神意と考え、その財宝をもって三輪の別所に不動堂を立てた。「この上人、今生の望みを長く捨てたまひて、心に慈悲深く、後世の勤めをひとへに祈り申して、苦行を励みけるゆゑに神慮にあいかなふところなりと云々」というのである(「三輪の上人吉野の勝手に詣づること」)。死者が息を吹き返しては市場のせり手[#「せり手」に傍点]のように、喜捨の額をせりあげていったこの話は、日本の神々の仏法守護、その神々に擁護されての貴僧たちの寺つくり、という明確な結着をもった話で、寺院教団の説話の一つの質的傾向を端的にあらわしていると考えられる。それに対して、『発心集』のフダラク渡りの話には、世間の人の「必ず参りぬらん」という評判はあっても、その成功が問題にされているわけではない。語られるのは結果ではない。行為そのものなのである。フダラク渡りの人々のことを伝承するフダラク渡り予備軍は、その挙に踏みきれないまでも、みずからも、時代の苦悩と仏教の頽廃とにきびしく対立し、信仰の探求者としての実践をつづけていたようである。他方では説話は宣教のための啓蒙に用いられたが、かれらの間では、説話はもっと別なものであった。長明は『発心集』の序でその辺にふれて、こういう。 [#ここから1字下げ]  仏は衆生の心のさまざまなるを鑒《かが》みたまひて、因縁譬喩を以てこしらへ教へたまふ。われら仏にあてたてまつらましかば、いかなる法についてか、すすめたまはまし。(今智者のいふ事を聞くとも、かの宿命智もなく)他心智も得ざれば、ただわが分にのみことわりを知り、愚なるを教ふる方便は欠けたり。所説妙なれども、得るところは益すくなきかな。これにより、短き心を顧みて、ことさらに深き御法《みのり》を求めず、はかなく見る事聞く事をしるし集めつつ、忍びに座の右における事あり。 [#地付き](本文は流布の慶安刊本、( )中は異本(神宮文庫本)。 [#地付き]簗瀬一雄『校註鴨長明全集』に拠る。) [#ここで字下げ終わり]  説話はかれらの〈法〉であり、下根の徒の救いを求めるための生き方の経典なのである。僧綱《そうごう》でも阿闍梨《あじやり》でもない下根の徒、それを一口に〈ひじりたち〉と呼んでもよい。しかし、それは相当に広い意味での〈ひじりたち〉で、南都六宗から天台・真言系、あるいは踊り念仏系までをふくめての広い〈寺院離脱者〉〈無教会主義者〉の群れの総称とみるべきであろう。寺院教団対〈無教会主義者〉という形で、諸宗派の寺を捨てた僧侶・聖《ひじり》・阿弥陀たちの幅広い層があったのが、古代末から中世のはじめへかけての時代的特色であり、かれらの間に〈法〉としての信仰説話の、おのずからにできた相当に幅広い共有状況が認められるのである。三論宗の徒で、山階寺の寺院離脱者である玄賓僧都の話からはじまる、長明の『発心集』などは、その一つのあらわれであると考えてよかろう。  南へ吹く季節風を待ちうけてフダラクへ渡っていった〈身燈〉の男は、讃岐の三位という近ごろの人のめのとの夫であった。簗瀬一雄の『校註鴨長明全集』は、この讃岐三位を、『讃岐典侍日記』の作者の姉で、堀河天皇のめのとであった藤原兼子とみ、「或は又、藤原季行(応保二年八月薨)のことか」としているが、これはおそらく、兼子などよりももっと「近く[#「近く」に傍点]讃岐の三位といふ人いまそかりけり」というのにふさわしい後代の人で、『今物語』に「讃岐の三位俊盛」とみえる藤原俊盛あたりではあるまいか、と思う。この人は一一五七(保元二)年—一一六〇(永暦元)年の間讃岐守を務め、一一六四(長寛二)年に従三位となって、一一七七(治承元)年に出家している。    天王寺の海  ところで、流布本系(慶安刊本などの)『発心集』で、このフダラク渡りの話の次にある、「ある女房天王寺に参り海に入る事」は、「鳥羽院の御時」の話で、前の話より大分古いと思われる話だが、宮腹のある女房が、娘を先立たせた悲しみに耐えかねて、三年目に出奔、天王寺に三七日の間参籠念仏し、「音に聞く難波の海の床敷《ゆかし》きに見せ給ひてんや」と舟をあつらえて出て、「いま少し、いま少し」と沖に出、「とばかり西に向かひて念仏することしばしありて、海にづぶと落ち入りぬ」という内容である。天王寺の沖は、やはり〈志願入水〉の場所であった。『続古事談』(第四)によると、山城の国宇治郡の笠取山の東の峯にある巌間寺の僧が入水している。「叡効が後、この所(巌間寺)行なふ人絶えにけり。信増といふ者来たりて行なひて、その後常住絶えず、その中に誓源といふ常住、難行苦行す。天王寺の海に身投げてけり。久寿元年十月のことなり」——一一五四年である。こうなると、長明には近い時代の話になる。  天王寺の海に身を投げたこの僧は、天台宗も三井寺の叡効の系譜を引いた、園城寺系の人物とみてよかろうが、夢のない死に方——死んで極楽に生まれ変わることを念じても、生きたままでフダラクのような仏の国への到達を夢みていない点に特色がある。同じ海でも、大阪湾と熊野灘とでは人々にとって感覚的に違ったものであり、天王寺の海は仏の国へ通ずるものとしては感じとれないものがあったのであろう。  夢のない死に方などといったが、しかしながら、死んで極楽に往生することを願いながら投身することと、南のフダラクへ向けて船出していくこととは、主体的体験として、一方が〈死〉の意識を抱いてなされ、他方が〈生〉の意識下になされたものとして峻別できない。もう一度、『発心集』の北風を待ちうけて船出した法師にかえってみると、長明は船出のさまを、「妻子《めこ》ありけれど、かほどに思ひ立ちたる事なれば、とどむるにかひなし。空しく行きかくれぬる方を見やりてなん、泣き悲しみけり」と、〈身燈〉の試みの後、土佐の国の所領まで妻子を伴なったことにしている。わが身は生きながら菩薩の国へ詣でるというのに、かれらを同行しようとはしない。妻子たちにもなぜその至上の歓喜の旅を勧めないのか。百中九十九の挫折を賭けて出る冒険の旅であっても、……。そこに熱しきった信仰心の中の冷やかな自覚がうかがえる。主観としての〈フダラクへ(生)〉と、客観としての〈死〉とが微妙に重なり合っている長明の認識がにじみ出ている、と見てよいのではなかろうか。長明だけでなく、フダラク渡航者自身の中でさえも、そういう主観的認識と客観的認識のさまざまな度合いでずれ合いながらも重なる現象があって、それが『吾妻鏡』の行秀法師の〈目なし船〉の形をとったり、『発心集』の〈身燈〉の法師の航行のような、普通の帆走航海の形をとったりさせるのであろう。 『熊野年代記』は、 [#ここから1字下げ]  貞観十年十一月三日慶竜上人補陀落に入る。  延喜十九年二月 補陀洛寺祐真上人、奥州の人十三人と道行渡海す[#「奥州の人十三人と道行渡海す」に傍点]。これ道行渡海の始めなり。  天承元年十一月 同寺高巌上人 [#ここで字下げ終わり] と、古代における八六八年、九一九年、一一三一年の三例のフダラク渡りの事実の伝承を記録している。その中の九一九(延喜一九)年の同行十三人との〈道行き渡海〉の場合などでは、おそらく熱狂的な信仰的陶酔によって、少なくとも出航後の相当期間、船中は法悦歓喜の連続で、〈死〉の意識が薄かったかもしれない。 〈生〉の意識と〈死〉の意識のふしぎな重なり合いについては、わたしたちの民族は、つい二十年ほど前、「死して護国の鬼となる」という自覚のもとでの死で、似通った体験をもっている。「死んで生きるのだ」というあの頃の考え方は、どちらかというと、天王寺の海へ身を投げる方に近かろう。しかし、戦場に駆り立てた側の心理はいざ知らず、駆り立てられて絶体絶命、それ以外に活路がなく、死後の〈再生〉を求め信じる心と、フダラク渡りの絶対的に近い死の契機の中で〈異土での生〉を求め信じる心とは、異なりながら別物ではありえない微妙な共通性がありはしないか。狂信者の盲いた魂がフダラクでの〈生〉をのみ夢みさせていたとみることには、わたしは荷担できない。その〈死〉の意識と〈生〉の意識の複合のぐあいは、違っていただろうが、しかし、どちらも、〈生〉ないし〈死〉の一つの意識でわりきることのできない意識のカオス[#「意識のカオス」に傍点]で、それは日本人の民族的体験として、形を変えてぶり返しぶり返ししたものではないのだろうか。  が、そう考えてみても、天王寺の海へ身を投げることとフダラク渡りは違う。身を投げた女房については、「あないみじとて、まどひして、取り上げむとすれど、石などを投げ入るるがごとくにして沈みぬれば、あさましとあきれ騒ぐほどに、空に雲ひとむら出で来て、舟にうちおほひて、かうばしき匂ひあり。家あるじいと貴くあはれにて、泣く泣く漕ぎ帰りにけり」と往生譚式に語られるのである。フダラク渡りの話には、そういう結末がない。そのかわりに夢がある。〈死〉の意識と重なりながら、なお、それからはみ出す、強烈な〈生〉の意識である。  それは観音菩薩という信仰対象に規定されるものばかりではない。『私聚百因縁集』(第九)には、堀河天皇の死を悲しんだ蔵人所《くろうどどころ》の衆が、「もろもろの仏神に、(天皇の)御生所を示したまへと二心なく祈り申しけるほどに、年をへて、西海に大日になりておはしますよし夢見」たので、「筑紫の方に行きて、東風《こち》の気あらく吹く時、小舟に乗りて出でにけり」という話を伝えている。「しばらくは波間にまがひつつ見ゆる後は、行くへ知れずなりにければ、見る人涙を流して、そのころ、世の語りになんしける」——大日如来を求めて西の海へ進むこの男の場合も、南の観世音をめざすフダラクへの場合も、明確な対象のイメージを持つ点で、死んで生まれかわる天王寺の海の投身と違っている。そのイメージ喪失の史的進行は、どうも浄土教の信仰の深まりと関係があるようにも思われる。末世|濁悪《じよくあく》の感の深刻化は、〈日本脱出〉行を続出させなくて、逆に、そういうパターンによる死、伝統的な型によるもがき[#「もがき」に傍点]の無効性を意識させる。自己の無力の意識に徹底して、ひたすらに、幾万億劫の後の、世の終末の日の弥陀の来迎を希求する、他力念仏のリアリズムへと進ませる。地蔵や観音に現世での救いを求めることではなく、現在には徹底して絶望して、遠い未来の来迎にあずかることを願うのである。法然や親鸞の信仰は、この民族の心に天台浄土教や踊り念仏と異なるものをもたらしたのではなかろうか。生ける観音菩薩の浄土フダラクへ生身で渡ろうとする企てが、末世観進行の過渡的現象として現われ、その終熄が、末世観の克服によってでなく、末世観の深化によってもたらされたらしいところに、一つの重大な点があろう。一向宗はこれらの信仰説話の担い手とはならなかった。村々の道場は、主として、自分に先立つ人々の信仰の体験でなく、他力本願の教理そのものを語り合った。  フダラク渡りについて熱心に語る中世仏教説話の座標点も、そのへんからおのずと明らかになってくる。いわば、古代的仏教の既成の教理と信仰のあり方に身をゆだねきれなくなった人々の、信仰の摸索の所産がそれらの話の素材であり、信仰の摸索のための励まし合いが、それらの話の伝承であった、といえるかも知れない。    長明孤ならず  鴨長明は、〈身燈〉の法師のフダラクへの船出に妻子を登場させた。法師の出家はずっと以前であり、かれは「禅師」で「沙弥」ではないはずである。この話の説話として口承されている段階で、妻子同行のくだりがあったかどうか。船出の別れの情景描写というのは、文字の文学化の段階で混入してきたのではなかろうかとも思われる。それと同時に、長明にとっては、フダラク渡りも天王寺入水もともに同じように尊い話であったことに、注目する必要がある。というよりも、そういう系列の仏教説話ばかりを集めた『発心集』は、『私聚百因縁集』や『三国伝記』などとは、性格的に違うらしい点に注目すべきだ、といった方がよい。『発心集』の〈ひじり〉的性格といおうか。  わたしは、『方丈記』の孤独な生活ぶりの記述にかかわらず、長明が、遁世の生活の中で、離れていながらつながり、寄りそって励まし合ってはまた離れて住む法友を、しだいにみつけていったように考えている。方丈の住まいを始めたころの孤独主義の考え方と違うものが、ひじりの生活の中にあり、ひじりの宗教運動の中にあって、『方丈記』以後のかれはそれに近づいて行き、『発心集』に到着したのではなかろうか、と考える。長明にはなかまがあった、それらのなかまが話し合う信仰談、見せ合う書物もあった——それは『方丈記』の長明の予想しなかった世界であろう。かれは孤独に負けて説話集めの妄念にとりつかれ、邪行に陥ったのではなかろう。「いかが用なき楽しみをのべて、むなしくあたら時を過ぐさむ。……もしくは、これ、貧賤の報いのみづから悩ますか。はたまた妄心のいたりて狂はせるか」という境地とは別の境地である。その文につづく、「ただかたはらに舌根をやとひて、不請の念仏両三遍を申してやみぬ」という箇所の〈不請の念仏〉の意味は、永い間論議の的となってきたが、つい最近、不請とは「三|奉請《ぶじよう》」や「四奉請」の仏を迎える儀礼ぬきで念仏に入ること、とする佐々木八郎の「方丈記私論」のすぐれた新見解が出て、従来の論争と異なる角度から解決のかぎが示されてきた(『国文学研究』第二十五集一九六二年三月)。佐々木氏は、「長明は決して閑居の楽しみを否定したばかりでない。その否定を止揚して、彼自身がより高次の、念仏一筋の修行者に徹する生き方を見出したのである」という。そうであろう。が、その念仏一筋の修行者として生きるということは、かれの場合どういうことであったか、一向念仏的な生き方とどう違っていくか。わたしは、フダラク渡り予備軍としての一念仏者、『発心集』の〈ひじり〉の一員としての語り手という面から、やや具体的にうかがってみることができるように思う。(「偽悪の伝統」参照)    維盛入水  ところで、前に、柳田国男と山路愛山の話し合ったことにふれたが、「自殺を奨励する信仰」に導かれた、平家の嫡々平維盛の那智の船出は、やや特異である。戦場離脱者となって京へ舞いもどった『平家物語』のかれは、高野山へ詣で、海岸沿いの旅をつづけて日本のさいはて熊野に達した。「三重にみなぎり落つる滝の水、数千丈までよぢのぼり、観音の霊像は岩の上にあらはれて、補陀落山ともいいつべし。霞の底には法華読誦の声聞こゆ。霊鷲山とも申しつべし」——しかし、それをフダラク山そのものと認識できなかったか、「三《み》つの御山の参詣ことゆゑなく遂げたまひしかば、浜の宮と申す王子の御前より一葉の舟に棹さして、万里の蒼海に浮か」ぶのである。そして沖の小島に漕ぎ寄せて、岸に上り、大きな松の木を削って、「祖父《おほぢ》太政大臣平|朝臣《のあつそん》清盛公、法名浄海。親父内大臣の左大将重盛公、法名浄蓮。三位の中将維盛、法名浄円、生年廿七歳、寿永三年三月廿八日、那智の沖にて入水す」と書きつけて、また沖へ漕いでいき、あとへ残したものへの心残りとたたかって、「高声《かうしやう》に念仏百遍ばかり唱へつつ、南無と唱ふる声とともに、海へぞ入り給ひける。兵衛の入道も、石童丸も同じく御名《みな》を唱へつつ、つづいて海へぞ入りにける」というふうに死んでいった、と語られる。  熊野灘を選びながら、フダラク渡りの型にのっとった死の道をとっても、かれはフダラク山をめざさなかった。この国の南のさいはてのはるか洋上に、その幻の島が見えなかったのは、維盛の、供びとを伴なう、勇猛心の欠けた信仰のせいか、それとも、『平家物語』の作者の懈怠か。わたしは、むしろ、作者の仏教観と維盛の仏教観の間に隔絶があるのではないか、と疑う。そして、観音を信ずる維盛らは、やはり、フダラクへ、フダラクへと、フダラクを夢みながら船を進めていったのだ、と信じている。 [#ここから2字下げ] (註)橋川正「わが国に於ける補陀落信仰」(『日本文化史の研究』)、堀一郎『我が国民間信仰史の研究』(二)参照。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]  偽悪の伝統    偽悪者たち  わたしの心の中に、ひとかけらでもかれらと共通の因子があったなら、わたしはこれほどまでにかれらを恐れはしないだろう。わたしは、ああ言い、こう言いしはするものの、所詮、偽善者にすぎない。ただ善を行なうがごとく粧おっても、それが成功してくれないので、偽「善者」でもありえていないのだ。ところが、かれらはそうではなかった。自分をつねに背教者として陥れつづけた。そして、世の人を欺くことに成功したばかりでなく、みずからをも欺くことに成功した。その自己の背教の事実に励まされて、信仰の再生産をはかっていた。古代の末期に多数いた、それらの偽の背教徒たちのことを、自己との異質性のゆえに、わたしは語らずにおれない衝動を覚える。ふしぎな時代のふしぎな人たち!  高野《こうや》のあたりに、年来|行《ぎよう》に励んでいた聖《ひじり》があった。もとは伊勢の国の人だそうな。いつかそこに住みついてしまったのだ、という。行の徳を積んでいたばかりでなく、帰依する人もあって、貧しくもなかったので、弟子などもあまたあった。年ようやく老いた後、特に信頼している弟子を呼び寄せて、「ぜひ打ち明けたい、と思うことが日頃からありましたがな、あなたの思わくが気がかりで、言い出せずにおりました。どうか、ぜひともかなえさせて賜われ」と頼んだ。弟子は、師の折りいっての頼みに違背せざらんことを誓った。と、師は、「かく人を憑《たの》みたるさまにて過ぐす身は、さやうのふるまひ、思ひ寄るべき事ならねども、年高くなりゆくままに傍《かたへ》もさびしく、事にふれてたづきなく覚ゆれば、さもあらむ人を語らひて、夜の伽《と》ぎにせばや、となむ思ひたるなり」と切り出した。なんの事はない梵妻の御所望なのだ、年甲斐もなく。ついては、あまり年の若い女もまずいだろう。自分のような老いぼれにも思いやりのありそうな女性を、こっそり見つけてきて、わたしの伽ぎに置いてはくれまいか。そうすれば、この坊の何もかも、そっくりあなたに進ぜよう。あなたは、この坊のあるじで、人の依頼してくる祈祷なども沙汰してやってくれ、わたしは奥の離れにさがって、……まあ、それで、わたしら二人の食い料だけを出してほしいのだが。こういう申し込みであった。そして、師は、ことばを継いでいった。「さやうになりなむ後は、そこの心の内も恥づかしかるべければ、対面なむども、えすまじ。いはんや、そのほかの人には、すべて世にある者とも知るべからず。死に失せたる者のやうにて、わづかに命継ぐばかり、沙汰したまへ。これをたがへ給はざらむばかりぞ、年来《としごろ》の本意なるべし」  かきくどいていう師を、弟子はあさましいと思いながらも、遂に承諾した。そして、後家の四十歳ほどの女をうまく見つけてきた。人も通さず、われも行かず、約定通りにしはしたものの、心には懸かっていて、六年たった。すると、その女人が、ある日、うち泣いて、「この暁、はや終はり給ひぬ」と告げてきた。驚いて行ってみると、破戒の師は、持仏堂の内で、仏の御手に五色の糸を掛けて、それをわが手にも持ち、脇息によりかかったまま。念仏していた手もそのまま。鈴《れい》をそばに懸けてあるのも、生きている人がまどろんでいるようすと変らなかった。壇には行の用具を如法に置き、鈴の中には、音が洩れないようにと、紙が押し込んであった。弟子の聖は、たまらなく悲しくなって、ことのありようを細かに尋ねると、女人のいうことに、「年来《としごろ》かくて侍りつれども、例の夫婦《めをとこ》の様なる事なし。夜は畳を並べて、われも人も、めざめたる時は、生死《しやうじ》のいとはしきさま、浄土、願ふべきさまなむどをのみ、こまごまと教へつつ、よしなき事をばいはず。昼は阿弥陀の行法三度、事欠くことなくて、ひまひまには念仏をみづからも申し、また、われにも勧め給ひて、……」という暮らしぶりであったのだ。(『発心集』第一「高野辺上人偽儲二妻女一事」)  一体、この聖はだれを欺こうとしたのか。かれ自体、すでに世捨て人ではないか。妻帯の事実は世間に知らさないように、すでに策を講じてある。とすれば、かれが六年の年月、鈴振る音も聞こえぬようにして欺き通そうとした、その相手は、弟子たち以外にはない。ここがすでに遁世の場所である。念仏三昧にひたるのに、弟子たちに何の気がねのいることか。ふしぎな心理といわねばならない。ところが、この異常心理は、決してかれひとりのものではなかったらしい。この聖の話を書き綴った最晩年の鴨長明は、つづいて、こんどは、こういう話を記している。  美作《みまさか》の守藤原の顕能の邸に、まだうら若い僧が入ってきて、世にも尊げに経を読んだ、という。あるじが聞きつけて、なにを望んでの御托鉢ですか、と尋ねたのは、読経の声の美しさにひかれて、喜捨の心が動いたのだ。すると、僧が近く歩み寄っていうことに、乞食でございます、ただし、門ごとに乞い歩くということはしておりません、西山の寺に住んでおりますが、少しお願いの筋がありまして、……というしだいであった。で、顕能が事情を聞くと、「申すにつけて、いと異様《ことやう》にははべれど、あるところの生《なま》女房をあひ語らひて、物|濯《すす》がせなむどしはべりしほどに、はからざるほかに、ただならずなりて、この月にまかり当りてはべるを、……」けっ! きゃつめ破戒僧であった。臨月の女をかかえ困っているのだ。が、考えてみると、かわいそうでもある。そこで、物を当座困窮しないだけ与える気になって、下人ひとりに担がせてやろうとすると、人に知られたくない、と固辞して、自分で担いでいった。  かれはいささか不審も感じて、わが家の下人にこっそり後を見え隠れに追わせてみたところが、西山とはうそで、北山の奥にはるばると分け入って、人も通わぬ深い谷に入っていった。ただ一間だけの柴の庵《いおり》。それに入って、持ち帰った品物をうち並べ、「あな苦し。三宝の助けなれば、安居《あんご》の食《じき》設けたり」とひとりごとして、足を洗って、ひっこんだ、という。すべて、人の口から口へと渡ってきた話というものは、念のいっているもので、この尾行の下人は、「日暮れて、こよひ帰るべくもあらねば、木蔭にやはら隠れ居にけり」というわけである。ところが、夜ふけるままに、僧は法華経を夜もすがら読む。その声の尊さに、聞く者は涙がとまらない。その報告をえて、顕能は「さればよ、ただ者にはあらず、と見き」と再度の贈り物を持たせた。が、うら若い僧は経を読みつづけて、ふり向かない。何日もたって、また使者を立てた(これも、話の語り手の状況設定のしつっこさ[#「しつっこさ」に傍点]なのだが)。すると、二度目の贈り物はそのままで、鳥獣が食い荒らし、夏安居《げあんご》にひとり精進していた僧は、すでに逐電していた、という。(同「美作守顕能家入来僧事」)  みごもった女をかかえて困っておりますなどといえば、へたをすれば、安居の料を入手できないではないか。これも不審な偽悪者である。古代末から中世初頭にかけての説話集には、こういう偽悪者たちの話が少なくない。この話にしても、『古事談』(第三)にも見え、後の『沙石集』(巻第七)にも見える。他の説話で、明らかに『発心集』が『古事談』に拠った徴証があるから(付記参照)、同根とみてもよいが、『私聚百因縁集』に載せている前の方の話は、どうも『発心集』と同根とは考えがたい。たとえば、『私聚百因縁集』の方では、あの妻帯した隠居の聖は、林慶上人という実名で題名に登場する。話の内容そのものは、長明の『発心集』と酷似しているから、関係も認められようが、「高野林慶上人偽—二語妻一事」(第九)という題をつけた編者住信は、明らかに別の経路から、話の内容には出てこない聖の名を知っていたのだ。偽悪者たちの話は一筋にでなく、幾筋もの経路で広がっていったらしいのである。    偽悪の根拠地  永い間、こういう偽悪者たちの説話にぶつかるたびに、わたしはギクリとさせられてきた。けれども、わたしは迂濶な人間だから、それらの偽悪者たちの住んでいる場所のことを考えてみたことがなかった。ただ、漠然と、かれらが聖《ひじり》法師という、一種の〈無教会主義者〉であって、寺院教団所属の正規の僧侶でないことだけしか、考えていなかった。わたしは、かれらの保有する説話と寺院の正規の僧侶の伝承する説話の異質性を問題にし、教団側の人々が話によって三宝の功徳の宣伝・誇示をするのに、聖たちの話は、いかにわが身を責め、いかに救いを求めぬいたかの信仰の実践のプロセスが中心で、その結果浄土に往生したかどうかは、不問に付される場合が多いことを、述べてみたことがある(「フダラク渡りの人々」)。そして、いわゆる唱導文学である寺院系仏教説話よりも、聖系の仏教説話の方が文学的価値が高く、人間の時代社会における精神状況・行動状況を実によく表現しえている、と考えていた。その点では、文学の観点から、この時代の仏教系の説話や説話文学を論じる人々が、その本質を目してまず唱導文学といい、唱導性を説くのを、仏教教団内部からの観点からの物言いならいざ知らず、不審なことだ、と思ってもいる。折口信夫がいいはじめ、筑土鈴寛が継承して広めた、〈唱導性〉という仏教説話の機能も、もう万能時代は終らせる必要があるように、感じてきている。聖たちの話は寺院外の話である。  が、わたしは、その聖たちを、聖たち[#「たち」に傍点]と呼びながら、主として、単数において考えていた。さきほどの話でなら、後の方の、女をはらませてしまった、といった偽悪の聖だ。かれは、北山の深い谷間にひとり隠れ住んでいた。そういう孤独な人同士の間にも信仰心の交流があり、信仰を温めるための往来《ゆきき》があったろう、わたしは、漠然とそう考えてはきた。どこにも、実際はどうだった、ということを媒介させない考え方である。ところで、人の集まる市へ飛び出していった踊り念仏の阿弥陀聖たちと違って、遁世者であるかれらも、かならずしも独居していなかった。前の方の話の、年たけて妻がほしくなった聖の方は、「弟子なむどもあまたありける」聖であり、「人の帰依にて貧しくもあらざりければ」という暮らし向きだった。「人の祈りなむども」していたのである。そして、その住むところは、高野山ではなくて「高野のあたり」なのである。かれは、聖でありながら、暮らし方は寺院の僧侶とかわらない。師の聖は、その生活の覊絆を脱したくて、欺瞞行動をとったのだ。俗世を捨てて寺に入ったものは、寺を捨てて聖となることができる。再度の出家だが、その聖の生活にとらわれはじめた時、かれらは、さらにどういう脱出をはかればよいか。かれらの懊悩は、出家の身の、さらに出家する方途如何にかかっていたのではないだろうか。生き物であるがゆえに、人間にどこまでもつきまとってくる生存のための俗務、それをきれいさっぱり振りはらいはできないが、かりに振りはらおうとして、一途に念仏に打ち込めば、人はみな、尊げな聖よ、とあがめる。あがめられる時、それに無関心でいようとも、ほんとうにすべてを振りはらっていないのにそう見られる、といううそ[#「うそ」に傍点]が、すでに客観的に生じてきている。わが身がうそ[#「うそ」に傍点]を作り出していくのだ。偽善!  高野でなくて、高野のほとり[#「ほとり」に傍点]に住む聖のことだ、と気づいた時、わたしは、その「ほとり」に執心しはじめた。同じ『発心集』に、こんな話がある。摂津の渡辺という所に、「長柄《ながら》の別所」という寺がある。そこに、近年のことだが、暹俊《せんしゆん》という僧があった。若いおりは、比叡山で学問をしていたのだが、自然ここに住みつくようなことになってしまった。この人が、比叡の禅瑜僧都から皇慶阿闍梨に伝わった、文殊菩薩のものであった、という蓮の糸で作った袈裟《けさ》を所持していた。暹俊は年八十になるまで弟子がなかったが、近くの「柳津の別所」というところにいた、六十歳あまりの相真という人が弟子となり、その袈裟の一部を譲り受けた。ところが、若い相真の方が先立って死ぬはめ[#「はめ」に傍点]になった。かれは、尊い袈裟を自分とともに埋めよ、と弟子に遺命した。が、後にあの世から悔いてもどしにきた、というのである(第二「相真没後返二袈裟一事」)。この話の内容は二の次にしても、一体、こうして本拠の寺院の比叡山から流れ出てきた僧たちの流れ行く先である、別所というのはどんなところか。そして、別所と別所の間に往来があるのは、どんな意味を持つのだろうか。  そこまで考えてくると、わたしたちの前には、聖と別所を結ぶ切っても切れない関係が浮かび上ってくる。わたしは、それを圭室諦成《たまむろたいじよう》の不朽の論文「浄土思想の展開」(西岡虎之助編『日本思想史の研究』収録、一九三六年)で学んでいたはずであった。圭室氏は、そこで、わが国の浄土思想の展開について、顕密諸宗内の浄土思想・遁世者の浄土思想・法然の浄土思想という発展段階を主張したが、その中で、聖とか遁世ということを、その時代の実態に即して、歴史的に定義してこういっている。 [#ここから1字下げ]  顕密諸宗より分離することを普通遁世すると言ひ、分離した者を一般に、上人、聖などと称んでゐた。遁世の動機は、或ひは顕密諸宗の修道生活に対する不満、或ひは顕密諸宗が立身出世の希望を断つたことに対する不満等、必ずしも同一ではなかつたが、遁世して以後の彼等は一様に、真実の宗教生活を思慕してゐた。  遁世者の多くは、顕密諸宗寺院の附近に閑静な土地を求めて、そこに草庵を結び、新しい宗教生活に入つたのであつた。時代の下降とともに遁世する者の数は多くなつたので、従つて草庵の数もふへ、後には聚落を形造るやうにさへなつてゐた。別所といふのは、実にかかる聚落に名附けられた名称であつた。各地に散在してゐたこれら別所の中心ともいふべきものが、叡山、南都、高野等の巨刹の附近にあつた。かうした所には、それぞれの土地の大寺院を離脱した遁世者が集つたばかりでなく、地方からも多く集つて来てゐた。かかる別所での遁世者の宗教生活は、浄土思想に立脚するものが絶対多数を占めてゐた。そしてかかる遁世者のもつ浄土思想の特質は、清貧の高唱と信仰の強調とにあつた。 [#ここで字下げ終わり]  本寺と別所——それを、信仰内容において、「次第に他力的な、民衆的な傾向を深めつつも、しかもなほ大局から見れば、依然として自力的であり、遊戯的であり、また貴族的であることを免れなかつた」顕密の付属物として、顕密諸宗の内部で最澄・円仁・源信の線上に成熟してきた浄土思想と、前述の遁世者の浄土思想との、発展段階的に相違のあるものが空間的には隣接している姿、とみるのである。氏は、次の『日本仏教史概説』(一九四〇年)になると、「別所中心の浄土教」と呼んで、この遁世聖たちの浄土思想を、日本における浄土教発展史上に、傍流としてでなく、本格的に主流の一段階として位置づけようと努力している。  わたしは、このような圭室氏の考察に、寺院教団系の仏教説話と聖系の仏教説話の対立を番《つが》えていくことができる、と考える。一方の唱導性に対して、一方の証言性(キリスト教でいう〈あかし〉のような、信仰のための励ましあいの機能を持つもの)があり、さらにいえば、一方の善根のすすめに対して、一方には偽悪への尊敬がみられる。自分の作り出した〈罪〉の意識にささえられて、悪人なるがゆえにひたぶるに浄土へ救い取られることを願いつづける。そういう偽悪の捨身行が讃嘆されるのが、聖たちの集落である別所とみてよかろう。すなわち、寺院僧侶の生き方、布教の仕方に潜む偽善性にきびしく対決していく者の〈解放区〉ともいえよう。  そう考えると、あの「高野のあたり」に住んで、鈴に紙を押し込んで、法友となった妻と念仏を励んだ老いた聖の住んだ場所も、だんだんと推測できてくる。井上薫氏の「ひじり考」(『ヒストリア』創刊号、一九五一年九月)は、高野山別所に関しての残存史料上の初見、『扶桑略記』寛治二年条に記録されている、堀河天皇の高野山行幸に別所の聖人たちが小袖の類を賜うた記事をまず掲げ、高野山の真言道場三箇院の外部の一定地域の提供を受けた聖たちの集落、東別所・西谷の中の別所・千手谷別所の存在を指摘している。ここが〈高野聖〉の本源地となり、重源聖人の新別所の経営が、さらにそれを拡大していった、という。「高野のあたり」は、それらの別所のどの一地区かに違いない。が、大切なことは、この〈解放区〉別所にもまた偽善性は注いでいく、ということであろう。老聖のように、妻をもうけて、弟子たちを欺き、みずからも罪を犯しつづけている意識を持たねば、厭離穢土の徹底と欣求浄土の徹底はない、状況が現出するのである。しかし、別所は新しい浄土信仰の渦巻く土地であった。別所は各地に作られていった。  わたしは、聖たちが、自分たちの信仰の励ましのために育てて、伝承していった説話の群れの故郷を、この各地の別所に求めたい。京の郊外日野山の方丈の庵に独居する鴨の長明のところへも、これらの別所から説話が運ばれてきたに違いない。圭室氏の「別所中心の仏教」に対応して、それらを〈別所の説話〉とも呼ぶことができる。わたしたちが、〈唱導の説話〉に対して、そう呼んで区別していくことが、今日の説話および説話文学研究の未発達な段階では有効であろう、とも考えられる。しかし、それにしても、〈偽悪の説話〉は、その敵に対立し、味方に対立する内容の孤独性において、〈別所の説話〉の中でも独特な地位を占めるものであろう。  ところで、別所について、こう考えてきた以上、別所というものをもっと違った存在としてみてきた、もう一つの研究の系統についても、触れないわけにはいかない。それは、別所をずっと古くからの賤民の部落とみる見方である。その源は、おそらく柳田国男の「聖と云ふ部落」(『郷土研究』二の六、一九一四年)あたりで、菊池山哉の『日本の特殊部落』(一九六二年)あたりにまでおよんでいる。柳田氏は、聖をヒジリの語義通り「日の善悪を卜する」職にあった者の裔とみて、空也一派について、「聖が念仏を学び終に阿弥陀聖となつたのは、此時などが始めであらうが、聖其者はそれよりも尚以前から略似たやうな生活をして全国を遊行して居た一種の階級であつた」と考えた。もっとも、氏自身は、聖と別所を無関係とみ、別所は、別府・別符・別納などと同様な新開墾地と考えていた(『地名の研究』)。が、その後、喜田貞吉の研究をはじめとする賤民史研究の展開の中で、聖と別所の不可分性がしだいに明らかになり、全国の地名に残る別所と長吏部落の一致を説く、菊池氏の説のような見方が出てきた。おそらく、仏教史の側の別所=遁世聖の集落という見方と、賤民史の側の別所=長吏部落という見方は、ひとつのものの発展段階的な違いなのであろうが、その過渡期の様相が明確でないため、近世・近代の被差別部落であった別所を、どこまでもそのまま溯らせて、本来別根のものと見ようとしているのではなかろうか。  それはともかくとしても、古代末から中世初頭にかけての遁世者たちが、かならずしも孤立していなかったらしいことは、説話の発生や流布が人間の集団を予想しなくては考えられないことからいえば、大切なことに違いない。しかも、各地の遁世者たちのセンターである別所では、偽悪の精神の継承と、その質的組み替えが進捗していったらしい。    偽悪への階梯  聖たちの間で語られていたこの種の話は、『法華修法百座聞書抄』のような実際の法華講の説経の摘録、『打聞集』のような説経用説話の覚え書、あるいは、一種の説経の範話・範文集である『澄憲作文集』や『普通唱導集』などの、唱導的なものには、ほとんど出てこない話である。  聖たちが深く尊敬していたのは、まず、八世紀の後半から九世紀初頭にかけての人である玄賓僧都であったらしい。かれの話は、『発心集』にも、『古事談』にも、『三国伝記』にも語られている。遁世聖の元祖ともいうべき人で、興福寺を出て、三輪川のほとりの草庵で遁世の生活を送っていたが、桓武天皇に呼びもどされて律師となり、僧都となった。平城天皇が大僧都に任じようとした時、いずこともなく逐電して、北国の方で永年身分を秘して渡し守をしていた、という。また、伊賀の国で郡司の家の馬飼いに傭われて働いていたともいう。前の方の話などは、佳話として広く流布していたらしい。大江の匡房が語って、『江談抄』にも記録されている。が、長明の『発心集』が描く玄賓僧都は、それだけではない。玄賓を取り巻いて尊崇している人々の間に、ある大納言があった。玄賓がどこが悪いともしれない永《なが》の病いになったので、見舞いにいって容態を聞くと、「近く寄り給へ。申しはべらん」といって、かれの美貌の妻を見てから、心の悩みにとり憑かれた、と打ち明けた。その大納言はおそろしく寛大な男で、「さらば、などかは夙《と》くのたまはざりし」といって、僧都の宿念を遂げさせるようにとりはからう。僧都は、密室で美貌の貴人の妻を一時《ひととき》(二時間)ばかりもつくづくとみて、弾指《たんじ》をたびたびして、そのまま帰っていった、という(第四「玄賓係—二念亜相室一事」)。弾指は魔を払う時にする爪はじきである。玄賓は逐電と苦行で身を責め、心中の邪念とたたかった、と伝承され、尊ばれているのだ。大納言の妻が欲しい、といった。しかし、それは、ほんとうにそう感じた自分をいつわるまい、としただけで、偽悪ではない。  それに倣ったのは、十世紀のはじめの比叡の平等|供奉《ぐぶ》で、この人は、ある朝|厠《かわや》に入っていて、そのままにわかに出奔して伊予の国へいって乞食していたが、偶然に弟子に発見されると、またどこへともなく逃げていった。四国では、いつも人の家の門の前の露地に寝て、「門《かど》臥し」の乞食と呼ばれていた、という。平等が叡山を出奔した時のことを、『古事談』は、「或日|朝《あした》に河屋に居たりけるが、足駄ばかり踏み脱ぎて、跡をくらましをはんぬ。弟子ども、天狗などの取りたるやらんとて、しばらくは求めけれども、みえざりければ、七々仏事など修して、後世を訪《とぶら》ひをはんぬ」と語る。『発心集』は、「ある時、隠れ所にありけるが、俄に無常を悟る心起りて、『なんとして、かくはかなき世に名利にのみほだされて、厭ふべき身を惜しみつつ、空しく明しくらす処ぞ』と思ふに、過ぎにし方もくやしく、年来《としごろ》の栖《すみか》もうとましく覚えけれど、さらに立ち帰るべき心ちもせず。白衣《びやくえ》にてあしださしはきをりけるままに、衣なんどだにきず、何地ともなく出でて、西の坂を下りて、京の方へ下りぬ。いづくに行きとどまるべしとも覚えざりければ、行かるるに任せて淀の方へまどひありき、下《くだ》り船の有りけるに乗らんとす。顔なんども世のつねならず、あやしとてうけひかねども、あながちに見ければ、乗せつ。『さても、何なる事によりていづくへおはする人ぞ』と問へば、『さらに何事と思ひわきたる事もなし。さして行つく処もなし。ただいづ方なりとも、おはせん方へ、まからんと思ふ』といへば、『いと覚えぬ事のさまかな』とかたむき合ひたれど、さすがに情なくあらざりければ、自らこの舟の便に、伊予の国に至りにけり」と語る。内道場供奉という帝室お抱えの僧でありながら、ここにいると人を欺くために厠の外に足駄だけ残して、はだしで出奔した『古事談』の平等は印象的で、衣《ころも》は着けず、下の白衣のままで足駄をつっかけて山を下った『発心集』の平等よりも心をうつものがある。その後の淀での船頭との長問答も、鴨の長明の説明過剰は、源の顕兼の簡潔にかなわない。しかし、この二人の心を一様に撃ったのは、自分を全く知らぬ異郷の人の中に身を置き、名利と離れた別の境涯を生きようとする、きびしい自己の否定、自己からの脱出のための行であろう。  が、十世紀から十一世紀にかけての人、多武峯《とうのみね》の増賀聖になると、名利の厭い方はもっと変ってくる。かれは、比叡山にいたころ、論議が行なわれる時、乞食・非人に施しとして、庭に食い物が撒かれると、その中に紛れこんで拾っていたし、老齢におよんで、后の宮の御出家という折に呼び出されると、不承不承大和の多武峯から入京したが、いよいよ大切な御落飾の儀式がすんでの出がけに、声をあげて泣く侍女たちを尻目に、大声で、「増賀をしも召してかく髪を挟ましめ給ふはいかなる事ぞ。さらに心得侍らず。もし、乱り穢《きたな》き物の大きなる事を聞こしめしたるにや。あらはに人よりも大きに侍れども、今は練絹のやうにくたくたとまかりなりたるものを」とわめき散らし、「年まかりて、……堪へがたくなりて候へば」というなり、簀の子に走り出て、人々の前で下痢便を庭上に音高くひり散らかした(『今昔物語集』)。増賀のもの狂いは、はげしい権威への厭悪と、それから生じる抵抗でもあった。かれは偽悪者である。しかし、注意すべきことは、伝承されているかぎりの増賀の偽悪行為では、かれは自分の内部に〈罪〉の意識を積み畳んでいかねばならないような、また、そうしていったような形跡はない。かれは無疵でしかない。それは後の仁海僧正が、僧正の位に坐っていて、雀を火ではらはらとあぶって、それを食べながら、粥をすすった、というのとは(『中外抄』『古事談』)、外面的には見分けがつかない行為である。仁海はそれでも祈祷の効験のある人として尊ばれていた。  しかし、増賀聖の弟子仁賀の行状は、師にまさって悲しい。世人があまり貴い僧とあがめるので、一人の寡婦に語らいつき、その家にはまりこみ堕落して人々に見放された。だが、事実は、かれは、その女の家で、「まことには、片隅にて、よもすがら泣き」明かしていた、という(『古事談』)。仁賀は、すべての人々に見放され、名声から解放されたところで、ほんとうの自己を確認したかったのであろう。  このようにして、だんだんと偽悪の道が開拓され、偽悪の伝統が形成されていった。そして、偽悪は、自己をとりめぐる社会からの追放をもとめ、どこにもとりつくしま[#「しま」に傍点]のない境涯に身をつき落とし、女をみごもらせたといって、夏安居《げあんご》の資を騙《かた》り取った若い僧のように、悪事を犯した、という自分にはねかえる罪の意識をもささえとして、そこで浄土渇仰に徹し抜こうとする道となった。そこまでくると、人に悪人とみせて、自身を自由に解放しようとするだけではなく、みずから、悪人という意識をはっきり持たざるをえなかったろう。偽悪は、ようやく、単なる偽悪でなく、ほんとうの悪を生産しつづけて、その悪人意識によって信仰に結びついていく道となってきた。といって、わたしは、必ずしも、これらの玄賓にはじまる偽悪の各種の伝承を絶対年代にあてはめて、物を考えよう、としているのではない。むしろ、古代末、中世初頭の説話集になって、これらの平安時代を通じていろいろと変えられながらも、語り伝えられてきた話が、一挙に表面に出てくる方を主として問題にすべきだ、と思っている。    負の〈悪〉と正の〈悪〉  しかし、この古代末の偽悪者たちの大切に積み上げてきた罪の行為とその伝承は、やがて、新しい徹底した他力信仰の登場とその普及によって、存在の基盤を喪失してしまったようである。  徹底した無力感を出発点にすえた法然から親鸞への他力信仰の深まりにおいて、罪の意識は一変してしまった。罪人である、悪を犯しつづけてきている、という「罪業深重」の意識の徹底によって、〈悪〉はしだいに負から正へと転じていったのではなかったか。懸命に〈悪〉をみずから創り出し、それにすがって念仏につながろうとした〈別所的〉な浄土思想は、負としての〈悪〉を、罪の自覚、信仰への自己鞭撻のエネルギーとしていた。しかし、〈悪〉が負として、しかも信仰のエネルギー源としてありうるのは、やはり自力的契機がその信仰の中から払拭できていないからでしかなかった。他力的意識からすれば、それは矛盾であったし、いわば徒労であった、といえないこともない。が、わたしは、やはり、こうして負としての〈悪〉の意識を身をもって積み上げていった人々や、その同盟軍として、そういう行為を称讃して伝承し、憧憬して、自己の信仰のエネルギーとしていた人々の歴史的意義を全く無視することはできない。  別所の浄土教を越えていった、法然・親鸞らの浄土信仰は、「罪業深重」に居直るところから出発している。しかし、唯円の『歎異抄』の「善人なほもて往生を遂ぐ、いはんや悪人をや」の一句をめぐって、悪人正機説の親鸞の教えとしての正統性が問題になって紛糾してきたように、あけっぴろげな悪人思想は、親鸞の段階でもまだ出現していなかったらしい。だから、法然・親鸞らの正としての〈悪〉の意識といえども、負い目としての〈悪〉の意識に上積みされているものであることは変りない。すでに武士の世界で成立していたような、「悪源太義平」とか「悪七兵衛景清」とかいうような〈悪〉への賛嘆と共通する意味での、正としての〈悪〉の意識の成立は、仏教信仰の面では、なお年月を要したのであった。  別所の浄土教が、ひとつの歴史的過渡的形態であったように、別所の説話も、したがって、そこで育った偽悪の伝統も、古代の体内から生まれた自己克服の営みとして以上の存在を、主張することはできなかった。新しい浄土思想の普及とともに、別所の説話は、顕密寺院教団側の説話と運命をともにすることもなく、一足先に姿を消していったようである。が、それにもかかわらず、その偽悪の伝統が、今日のわたしに切実な問題意識を喚起しつづけることをやめないのは、主として、わたしと社会とのかかわりあい方にかかっているものらしい。 [#ここから1字下げ]  付記 『発心集』と『古事談』の前後関係について——両書の関係については、種々議論があるが、わたしは両書の直接関係を認め、『古事談』の方を先出と考えている。詳述するいとまがないが、『発心集』第三の「伊予入道往生事」は、『古事談』第四の「伊予入道頼義者」の条と「義家朝臣依無懺悔之心」の条を合併したものであるので、『古事談』を『発心集』の出典とみるべきだと思っている。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]  飢えたる戦士——現実と文学的把握——    忘 却 『平家物語』の作者はこの物語を作るあいだじゅう、大きな忘れものをしていた。思うに、かれはいつも腹がくちかった[#「くちかった」に傍点](満腹だった)。したがって、あの飢餓時代に武士たちが体験した、さもしいひもじさなんどは、思い出せなかったのだった。わたしは、民族の芸術のためにそのことを残念がりつつも、一方では、ひそかに喜ばねばならないようにも思う。というのは、日本の貴族社会の文学者たちは、まだ、飢餓とたたかう人間に人間らしさを見いだすような修練を、十分に積んではいなかったからである。  あの、源平大動乱の日々の現実は、というと、たとえば、一一八三(寿永二)年五月の加賀の篠原合戦の平氏敗北の状況を記したものに、「平家の勢三万余騎とうんぬん。大略存する者少し。わづかに山に入り谷に逃《のが》るる輩《やから》の、死を遁《のが》るる者十分の一なり、とうんぬん。存命の類は大略裸形飢餓の質なり。」(『歴代皇紀』巻四)というのがある。戦争の実相は、まず、このようであった。『平家物語』では、「次に平家の方より高橋の判官長綱、五百余騎ですゝんだり。木曾殿の方より樋口の次郎兼光・おちあひの五郎兼行、三百余騎で馳せ向かふ。しばしさゝへてたゝかひけるが、高橋が勢は国々の狩り武者なれば、一騎もおちあはず、われ先にとこそ落ち行きけれ[#「われ先にとこそ落ち行きけれ」に傍点]」「又平家のかたより武蔵の三郎左衛門有国、三百騎ばかりでおめいて駆く。源氏の方より仁科・高梨・山田の次郎、五百余騎で馳せむかふ。しばしさゝへて戦ひけるが、有国が方の勢おほくうたれぬ。有国ふか入してたゝかふ程に、矢だね皆射尽くして、馬をも射させ、徒《かち》立ちになり、打ち物抜いて戦ひけるが、敵《かたき》あまたうちとり、矢七つ八つ射立てられて、立ち死《じに》にこそ死ににけれ。大将軍がかやうになりにしかば、その勢[#「その勢」に傍点]、みな落ち行きぬ[#「みな落ち行きぬ」に傍点]」(覚一本系本文。「日本古典文学大系」本に拠る)と敗北して逃走したことは物語っても、その敗残の軍隊が北陸路からどのようにして京にたどりついたかには、触れていない。  敗走する軍隊の悲惨、それは言語に絶するものであるが、合戦ごとに、毎度くり返されるその悲惨に、作者は眼を向けようとしない。当時、もし、それを物語らなければならない、とすれば、これはまたたいへんなことであったろう。一方で、鴨長明が、養和の飢饉の状況を、 [#ここから1字下げ]  はてには、笠打ち着、足引き包み、よろしき姿したるもの、ひたすらに家ごとに乞ひ歩く。かくわびしれたるものどもの、歩くかと見れば、すなはち倒れ伏しぬ。築地のつら、道のほとりに、飢ゑ死ぬるもののたぐひ、数も知らず。取り捨つるわざも知らねば、くさき香《か》世界に満ち満ちて、変りゆくかたちありさま、目も当てられぬこと多かり。いはむや、河原などには、馬・車の行き交《か》ふ道だになし。……  また、いとあはれなる事も侍りき。さりがたき妻・をとこ持ちたるものは、その思ひまさりて深きもの、必ず先立ちて死ぬ。その故は、わが身は次にして、人をいたはしく思ふあひだに、まれまれ得たる食ひ物をも、かれに譲るによりてなり。されば、親子あるものは、定まれる事にて、親ぞ先立ちける。また、母の命尽きたるも知らずして、いとけなき子の、なほ乳《ち》を吸ひつつ臥せるなどもありけり。 [#地付き](『方丈記』) [#ここで字下げ終わり] と記し、ようやく、餓え死ぬ人々の間の肉親愛を描く小径を、開拓しつつあったにしても、全体としては、たとえば、決戦を前に、将軍たちが、空腹に耐えかねて戦場離脱を企てつつあった、というようなことのリアルな描写に、芸術的意義を認めるところには至っていなかった。芸術的表現の伝統はそのような状態であった。しかし、事実は飢餓の時代であり、飢餓との戦いはすべてに優越さえしていたのであった。  源平最後の決戦期における、源氏最大の危機は、一一八四(元暦元)年の冬から翌五年三月の壇の浦の決戦までの間の、主力軍の兵粮《ひようろう》欠乏であった。『吾妻鏡』によれば、四年九月に平家攻撃に出発した源範頼は、十一月には、「兵粮闕乏の間、軍士等一揆せず、おのおの本国を恋ひ、過半は逃れ帰らんと欲す」と、兄頼朝のもとに急報の脚力を仕立てている。脚力は、翌年正月六日鎌倉に到着した。鎌倉では、すでにそういう情報を入手しており、数日前から論議した結果、東国から兵粮米を送ろうとしていたところでもあった、という。頼朝は、弟に返書を送って、「また路々の間、兵粮なくなりたるなど、京より方々へうたへ申せども、さほどの大勢の軍《いくさ》粮料にて上らざりしかば、いかではさなくてあるべき、とおもふなり」といっている。今度の場合、まあ当然なことで、仕方があるまい、という見解である。  が、その当時の第一線の状況は、というと、「参州(範頼)、周防より赤馬が関(下関)に到る。平家を攻めんがためなり。そこより渡海せんと欲するのところ、粮絶え、船なし。不慮の逗留数日におよび、東国の輩《やから》すこぶる退屈の意あり。多く本国を恋ふ。和田小太郎義盛のごとき、なほ潜《ひそ》かに鎌倉に帰参せんことをはかる。なんぞ、いはんや、その外の族においてをや」(十二日)といった状態である。この状況の悪化は、まず、関門海峡を渡って進軍できない、という事情から生じている。源平の合戦が後半になって、島から島への戦争であることがはっきりして来はじめた時、東国からきた源氏の連中は、日本が島国であること、しかも〈島々《しまじま》〉の国である峻厳な事実に、具体的に遭遇したのだった。現在、おもしろいことに伊豆の大島の人々は、自分たちの島を除いて利島《としま》・新島・式根・神津等々の島を一括して、〈島々〉と呼んでいる。わが国の各地には、そこそこでそういうふうに〈島々〉と呼ばれている地域、〈先島《さきしま》〉と呼ばれている地域がたくさんあるが、実は、日本全体が、その〈島々〉以外ではないのである。長門の国一帯がその年ひどい凶作であった、ということを考慮に入れても、島から島への戦い、というもう一つの条件がなければ、源氏の主力軍は、あるいは、大陸での騎馬民族の来襲のように、嵐のごとくその地帯を馳け抜ける、という術があったかもしれない。しかし、日本では、戦争もまた日本的ならざるをえなかった。  ——船がない。進めない。とりわけ空腹には勝てない。月末も近い二十六日、範頼の画策していた工作、豊後の緒方《おがた》抱きこみがようやく成功した。緒方から兵船八十二艘が来て、足が出来た。また、周防宇佐那木から兵粮米の献上があった。源氏は海を渡って九州に進出する。その時、下河辺の庄司行平がとった行動は、軍のそれまで陥っていた窮状を推測させるに充分であろう。「行平は粮尽きて度を失ふといへども[#「粮尽きて度を失ふといへども」に傍点]、甲冑を投じて小船を買ひ取り、最前に棹さす。人怪しみていふ。『甲冑を著けず。大将軍の御船に参らしむべし。身を全うして戦場に向はるべきか』とうんぬん。行平いはく、『身命においては、もとよりこれを惜しとせず。しかれば、甲冑を著せずといへども、自身進退の船に乗り、先登《さきがけ》意にまかせんと欲す』と、うんぬん」——『吾妻鏡』の作者が、「粮尽きて度を失すといへども」といわずにはおれないほど、行平の行為は並みはずれているが、船は足りない、あとに残っては困る。捨て身になって進軍したいほど、飢餓地帯にとどまることは苦しかったのであろう。  二月十三日に、伊沢五郎の書状が頼朝に届いている。「平家追討の計をめぐらさんがため、長門の国に入るといへども、かの国飢饉にして粮なきによつて、なほ安芸の国に引き退かんと欲す」というのである。翌十四日には、大将軍範頼からの飛脚。「たまたま長門の国に渡るといへども、粮尽くるの間、また周防の国に引き退きをはんぬ。軍士等やうやく変意あり、一揆せざるのよし」を嘆き申す内容である。もちろん、その時、前線はすでに渡海をはじめているから、ことは旧聞に属するが……。それに対して、頼朝は、範頼と御家人一同にあてた書を送る。「このたびの合戦を遂げず、帰洛せしめば、何の眉目あらんや。粮を遣はすのほど、堪忍せしめ、これを相待つべし。平家の故郷を出でて旅泊にある、なほ軍旅の儲けを励ます。いはんや、追討使として、なんぞ勇敢の思ひを抽《ぬき》んでざらんや」しかし、豊後の国に入った範頼軍の前途は少しも明るくない。三月八日、やはり範頼からの報告が来る。「平家の在所近々たるに就きて、相構へて豊後の国に著するの処、民庶ことごとく逃亡するの間、兵粮その術なきにより、和田太郎兄弟、大多和二郎、工藤一臈|以下《いげ》の侍数輩、推して帰参せんと欲するの間、枉《ま》げてこれを抑留し、相伴ひて渡海しをはんぬ」……  一方、二月十六日に、第二次の支隊が義経に率いられて畿内から進発している。こちらは、海の向こうの敵に対して遠吠えしつづけた、主力軍の編成とことなり、舟艇を持っていて、一挙に四国の敵をめざす。この新手《あらて》の別働隊の奮戦が、三月二十四日の壇の浦の平家滅亡への道を加速度的に切り開いていったのである。が、そのような急速な戦争終結は、その直前まで、源氏主力軍にとっては想像できないことであった。  ところで、『平家物語』では、このような一一八四年末からの主力軍の飢餓線上の彷徨は描かれない。語りもの系の覚一本では、(語りもの系のより古い形の屋代本でも)九月の備前児島の合戦のくだりで、「平家は八島へ漕ぎしりぞく。源氏心はたけく思へども、舟なかりければ、追うても攻め戦はず」といい、その少し後で、十一月の都の大嘗会のことを語った後、ひきつづいて、 [#ここから1字下げ]  参河守範頼、やがて続いて攻め給はば、平家は滅ぶべかりしに、室・高砂にやすらひて、遊君遊女ども召し集め、遊びたはぶれてのみ月日を送られけり。東国の大名・小名多しといへども、大将軍の下知に従ふことなれば、力及ばず。たゞ国の費《つひ》へ、民の煩《わづら》ひのみあ(ッ)て、ことしもすでに暮れにけり。 [#地付き](巻第十「藤戸」「日本古典文学大系」本に拠る) [#ここで字下げ終わり] というふうに語られる。増補本ないし読みもの[#「読みもの」に傍点]といわれる系統の本だと、たとえば「延慶本」では、九月の主力軍の京都進発のところで、 [#ここから1字下げ]  同廿一日参河守範頼、大将軍として、軍兵数万騎また西国へ平家追討のために発向したりけれども、急ぎ屋島へも責め寄せず、西国にやすらひて、室・高砂の遊君遊女を召し集め、遊び戯れてのみ月日を送りけり。国を費し、民を煩はすより外の事なし。東国の大名小名多かりけれども、大将軍の下知に従ふことなれば、力及ばず。 [#地付き](巻十「参河守平家の討手に向ふ事|付《つけたり》備前小島合戦の事」) [#ここで字下げ終わり] と述べ、さらに児島の合戦・大嘗会のことなどを述べた後で、 [#ここから1字下げ]  十二月廿日ころまで参河守範頼は西国にやすらひて、しいだしたる事もなくて、年もすでに暮れにけり。 [#地付き](同「大嘗会遂げ行はるるの事」) [#ここで字下げ終わり] と、範頼の無為を、ふたたび「やすらひて」という表現で強調している。  現実は「やすらひて」というようなものではなかった。長門へ攻め入った兵站線を持たない源氏主力軍の窮乏は、深刻きわまるものであったのだ。水軍の誘致や舟艇の徴発に成功しえなかった範頼の不手際は、責められても仕方ないかもしれない。しかし、かれの軍隊が経験した窮乏そのものは、大軍が一地に相当期間駐屯して徴発の限度にぶつかった、一長門地方での現象だけではなく、慢性化して、この戦乱の時代をおおう問題でもあったはずである。基本的には、源氏・平家のわかちなく襲いかかっていたものであった。古代末の戦争は、徴発に徴発を重ねて続けられねばならなかった。農民からの徴発はいつの場合でも、十分ではありえなかった。だから、軍隊はとどまってはならなかった。一一八三(寿永二)年北陸道から入京した源の義仲が、京都で顰蹙をかったのは、掠奪のせいであったが、事実かれの軍隊も餓《かつ》えていた。勝利者も腹をすかしきっていたのだ。進撃しつづけなければならない。それが、この時代の軍隊の近代の軍隊との決定的な違いであろう。来る日も来る日も、糧食の徴発を一方で講じながら進んでいかねばならない。蝗の大軍と同じで、立ちどまれば自滅する。そういう戦争の性格を、作者は忘却していた。というより、そういう肉体の問題としての〈戦争〉が、ようやく忘れ去られようとしつつある日々に、作者はこの戦争の物語を語りはじめたのであった。忘れられないほど、その〈戦争〉を、からだで覚え込んでいる階級の人物ではなかった。 『平家物語』は史実そのままではない、ということは、これまでにもくりかえして言われて来たことである。しかし、大切なのは、どう史実そのままではないのか、ということであろう。腹のくちい[#「くちい」に傍点]作者は、戦争の中での人間の心のくずおれ[#「くずおれ」に傍点]や不覚な行為を忘れてしまっていた。そこでは、戦争は、顔色土色の兵士たちがあえぎあえぎ進軍したり、糧食絶えて、勝利者が必死で戦場脱出をはかるものではなく、生気に満ち満ちていたのだった。人間の〈病《やまい》〉であるはずの戦争は、作者の脳裏では健康であった。かれは、そこにさまざまな全身的・全力的な人間の行動と人間性の吐露を夢想したのである。    虚[#1字下げ]像  源氏にとっての最大の危機であった、範頼の主力軍の苦悶の状況を記憶していない『平家物語』の作者は、少なくとも同軍に従軍した人ではないし、鎌倉に残って戦局全体の推移を見守っていた人でもないだろう。おそらく、作者は、この間の範頼らの動静を知らなかったのであろう。知らなかったから、まちがって描いたのだ、と考えてもよい。しかし、なぜ、「遊君遊女ども召し集め、遊びたはぶれてのみ月日を送られけり。……たゞ国の費《つひ》へ、民の煩《わづら》ひのみあ(ッ)て、ことしもすでに暮れにけり」という方向へまちがえていくのだろうか。 『吾妻鏡』によれば、範頼軍の鎌倉出発は、一一八四年八月八日の午《うま》の刻であった(この出立の時刻というものは、陰陽師の卜定するもので、当時は重視されていたものである)。北条義時・足利義兼ら一千余騎。頼朝は、稲瀬河のほとりに桟敷を構え、それを見送った。そして、範頼は、その月の二十七日に京都に着き、二十九日に平家追討使の官符を受け、九月一日に京都を出発する際、兄に報告の使者を立てた。しかも、十一月の十四日には、前に触れたようにすでに兵粮尽きた危機を兄に報じてきている。平曲の中で、「遊君遊女ども召し集め」室・高砂にやすろうている参河守範頼は、すでにはるかに周防まで進出、苦闘していたらしいのである。が、『平家物語』の作者は、戦争の中に横たわっている忍苦を必要とする日々[#「日々」に傍点]の困難を忘れて、激闘の面においてのみ戦争を回想した。ずっと後世、近代に入って、第一次大戦後に、戦争の徒労性・虚無性がヨーロッパ文学の主題に登場してくるまで、戦争の回想とは、そもそもそういう性格のものであったらしい。したがって、大きな合戦をしないでいる源氏主力軍は、作者の脳裏では無にひとしかった。作者はその空白を埋めるために、作者の範頼像をかつぎ出して来たらしい。であるから、そういう範頼がそこにあったから、それを描くのではなく、作者の内部に、そのような範頼像を要求するものが別にうごめいていた、と考えるべきなのであろう。  一体、『平家』の作者が得意の手法とするものの中に、彼我交互描写法と対蹠的人物比較法がある。かりに、範頼軍の京都進発を描く、覚一本巻十の「藤戸」あたりを例にとってみると、まず、「さるほどに、平家は讃岐の八島へ帰り給ひて後も、東国より新手の軍兵数万騎、都に着いて、攻め下るとも聞こゆ。……」と平家方を描写し、その後、一転して「同じき二十八日、新帝の御即位あり。……八月六日、蒲冠者範頼参河守になる。九郎冠者義経、左衛門尉になさる。……」と京方・源氏方に転じる。そして、さらに「さるほどに、荻のうは風もやうやう身にしみ、萩の露もいよいよしげく、……物思はざらんだにもふけゆく秋の旅の空はかなしかるべし。まして平家の人々の心の中、さこそはおはしけめと推しはかられてあはれなり。……」と反転し、「同じき九月十二日、参河守範頼、平家追討のために西国へ発向す。……」と三転し、四転して、「平家の方には、大将軍小松の新三位中将資盛、……五百余艘の兵船にとり乗って、備前の児島につくと聞こえしかば、……」と、いよいよ両軍遭遇する藤戸合戦の叙述に進むのである。この交互に双方の描写を重ねて、やがて両者の出会いへと持っていく描法は、『平家』の発明した一種の〈時間的な道行き〉の文章ということができよう(別の箇所で平家のその手法を析出したものに、益田「平家物語・橋合戦」〈『日本文学』五の七、一九五六年七月〉がある)。そういう〈対比〉の視角が人物描写に持ちこまれると、作中の主要人物はいつでも、一対の人物として、対比させつつ描かれ、そのことによって、その性格が、説明ぬきでも、行動の上で明確になってくる仕組みになっている。範頼は弟の義経とたえず対比され、義経の勇猛果敢さをきわだたせるために相手役を務めさせられることになる(別の箇所で平家のその手法を析出したものに、益田「知盛・教経」〈『国文学』三の一〇、学燈社、一九五八年一〇月〉がある)。  作者は、勇猛な義経の像をくっきり描き出すために、空想の範頼を思うままに駆使する。そういう歴史離れ[#「歴史離れ」に傍点]があえてできるほどに、世紀の大動乱の日々は遠ざかりつつあったのである。藤戸合戦の範頼は、そういう作者の手法を典型的にあらわしている、といってよいだろう。  が、「藤戸」での範頼を問題にするためには、一度先へ行って、巻十一の巻頭の「逆櫓《さかろ》」までみた方が、ことがはっきりするだろう。巻十の終りの「藤戸」は、遊君遊女どもと室・高砂で遊びたわぶれ越年した範頼を叙して、結ばれているが、次の巻の冒頭の「逆櫓」では、年あらたまって元暦二(一一八五)年正月、義経が後白河院の御所へ参上して、「平家は神明にもはなたれ奉り、君にも捨てられまゐらせて、帝都を出で、浪の上に漂ふ落《お》ち人《うど》となれり。しかるを、此三箇年があひだ、攻め落とさずして、多くの国々を塞《ふさ》げらるること、口惜しく候へば、今度義経においては、鬼界・高麗・天竺・震旦までも、平家を攻め落とさざらんかぎりは、王城へ帰るべからず」との決意を奏聞する。それで、範頼の驕惰と弟の真剣さが対蹠的に浮かび上るのである。一転して語り手は、「さる程に、八島には、……」と平家方の都を出て三年目の正月を迎えた嘆きを語り、ふたたび「同じき二月三日、九郎大夫判官義経、都を発《た》って摂津の国渡辺より船揃へして、八島へすでに寄せんとす。参河守範頼も、同じき日に、都を発って、摂津の国神崎より兵船をそろへて山陽道へ赴かんとす」と源氏側の描写に反転し、「同じき十六日、渡辺・神崎両所にて、この日頃揃へける船ども、ともづなすでに解かんとす。おりふし、北風木を折つて烈しう吹きければ、大浪に船どもさんざんに打ち損ぜられて、出だすにおよばず」と語り進める。——渡辺では、義経と梶原景時が逆櫓論争の果て、義経だけがわずか五艘を率いて阿波の国への渡海を強行することになる。神崎では……とは語らないが、神崎の範頼がこの重大な時機を逸したことは、言わず語らずに語っていることにもなる手法である。しかし、その時、範頼がすでに関門海峡を渡って九州へ進出していたことは、『吾妻鏡』と『平家物語』のこのあたりの内容の史料的性格を比較検討すれば、明らかというべきだろう。『平家』によれば、義経は渡辺の党の本拠である武骨な[#「武骨な」に傍点]渡辺の港から、範頼は遊女の名所である妖艶な[#「妖艶な」に傍点]神崎の港から競って出帆しようとしていたことになるが、実際には、範頼はすでに播磨あたりにはいなかったのである。 『平家物語』の作者は、義経の舟艇部隊の急進撃がはじまる序曲の部分において、蒲の冠者を狂言廻しとして思うがままに用いている。それを、すでにしばしば言われてきたように、作者の判官びいきとみてもよい。しかし、これは、単に判官びいきだけでなく、より多くを、作者の対蹠的な二人の人物を並べて語り進めて行く手法に負っている、とみるべきであろう。そのために、作者の空想は、縦横に作中の人物を頤使してやまない。 「逆櫓」でのそういう作者の手法を知った上で、「藤戸」にもどってみよう。事をむやみに複雑化しないために、いまは覚一本系の本文から考えられることを、まずはっきりさせていくと、それでは、範頼は、前年九月の末には、佐々木盛綱や土肥実平を率いて、備前で藤戸合戦を戦っていたことになっている。『吾妻鏡』の方では、範頼は、すでに十月の半ばに安芸の国へ進出して、勲功のあった武士たちに「これ、武衛(頼朝)の仰せによるなり。その中、当国の住人|山方介《やまがたのすけ》為綱ことに抽賞せらる。軍忠、人に越ゆるのゆゑなり」と論功行賞を行なっているし、これから問題にする備前児島の藤戸の合戦は、十二月の七日頃に、範頼とは別行動をとっている佐々木盛綱の部隊の奮闘した戦闘であるのだが、『平家物語』の方では九月のこととされている。これは、おそらく、作者が範頼ら主力軍の西進を、武将たちの名を連ねて語り上げ、その勢いで、「平家の方には、大将軍の新三位中将資盛、同じく少将有盛……」と備前児島への平家の進出を、それに対抗させる形で語ってしまったためであろう。作者の執筆の時、一々の合戦の月日は明らかにしがたいものもあり、それが作者には逆に幸いであったのかも知れない。『平家』の作者は、自己胸中の物語進行の時間の流れの中に歴史的事件の時間を移し植えることを、さまで躊躇しなかったらしく思える。かれにとっては、胸中の人物たちによる歴史の展開過程の想像が、実際の歴史の年代記的追跡よりも優位を占めていたらしい、とも考えられる。  史実の穿鑿が好きで、わたしは、そういうことを言ってみたいのではない。そうした作者の作為によって、実は『平家物語』の芸術性が生み出され保証されていっているところに、十三世紀の軍記物の一つの特色を認めねばなるまい、と思うからである。作者は腹くちい[#「くちい」に傍点]だけでなく、独自の想像の方法を抱いている奔放な空想者であったらしい。    微視の眼  不在の範頼が、なぜ『平家物語』では藤戸合戦に登場してくるか。種々の原因があるに違いない。しかし、その一つに、作者が空想する〈戦争〉というものが影響していることも挙げてよいだろう。かれは、〈戦争〉をまず大会戦という形で想像する癖がある。小人数のせりあいではなくて、巨大な群れと群れとが、そこで激突するのだ。むしゃこうじ・みのるは、『平家』の諸系統本の「橋合戦」を史実と比較して、「頼政の軍にしても事実の六倍、もしくは二十倍であるが、追討の平家は九十倍、百倍にまで誇張されている。平氏の軍が圧倒的であればあるほど、頼政らの奮戦が勇ましいものになり、その敗死が悲しいものになるからである。」(『平家物語と琵琶法師』)と指摘したことがあるが、それは作者のねらう美的効果の問題でありつつ、さらに、その前提条件として横たわっている作者の戦争観の問題でもある。わたしは、作者は、巨大な集団と集団のぶつかりあう戦闘というものに対して、一種の驚異と憧憬を抱いており、数の驚異、群れの重量感に対して、強烈な美感をそそられていたのではなかろうか、と思う。ということは、小集団が必死になって戦う、もっとも通常的な戦闘の渦中に立ちまじって、その中を生き抜いてきた体験者ではなかった、ということでもあろう。常に巨大な集団を背景においた上で、英雄的に戦う一人もしくは数人の勇士たちの活動を想像していくところに、かれの新しい〈人間集団〉に対する感覚がのぞいており、それは、描写における単なる誇張の問題ではすまない、〈集団の美〉への傾倒を秘めている、とみるべきだろう。  先にも触れた『吾妻鏡』の翌年正月の頼朝から範頼あての書翰には、「さては佐々木三郎、筑紫へは下《くだ》りさがりたるに|よて《(ママ)》、下して備前の児島をば責め落としたるなり」という条があり、鎌倉の兄の方から、逆に十二月の藤戸合戦の戦果を範頼に教えて励ましている。そしてそれは、同書十二月七日条の「平氏左馬頭行盛朝臣、五百余騎の軍兵を引率し、城郭を備前の児島に構へたるのあひだ、佐々木三郎盛綱、武衛の御使として之を責め落さんとす」とも符合する。範頼の合戦不参加のアリバイは堅固である。  このような事実に背いて、『平家』の作者の胸中に、作者流に頼朝→範頼→盛綱という指揮系統が成立しているのは、作者の武士に対する常識が、鎌倉における頼朝権力の体制確立以後のものをふまえており、動乱期の頼朝の権力確立過程で、頼朝の連枝である範頼、義経と御家人との関係がどうであったかを、想像できなくなっているためであろう。直接範頼の隷下に入っている御家人たちも、『吾妻鏡』によれば、常に、別に直接親書を送って、頼朝に戦果を報じており、その指揮関係は、決して一系列のちゃんとしたものではない。盛綱らが中国路で戦っているからには、範頼の隷下でかれに直接率いられて戦ったはず、というのが作者の考え方であろうが、そういう形には、まだかならずしもなっていなかったらしい。藤戸合戦より五日ほど前、同じ書に、「武衛、御馬一匹(葦毛)を佐々木三郎盛綱に遣はさる。盛綱平家を追討せんがため、当時西海にあり。しかして、折節乗馬なきのよし、言上せしむるにより、わざわざ雑色を立てて、これを送り遣はさる、とうんぬん」(二日)とあり、その馬がまだ道中にいる間に、この合戦になったのである。両者の関係はそういうふうであった。  そして、児島(いまは児島半島になって、陸続きで、おまけに児島湾の大規模な干拓が湾をもなくしつつあるが)に拠った平家は、『平家物語』では、「大将軍小松の新三位中将資盛・同少将有盛・丹後侍従忠房・侍大将には飛騨三郎左衛門景経・越中次郎兵衛盛嗣・上総五郎兵衛忠光・悪七兵衛景清をさきとして、五百余艘[#「五百余艘」に傍点]の兵船にとり乗つて、備前の児島に着く、と聞こえしかば、……」となっているが、『吾妻鏡』では、行盛の率いる五百余騎[#「五百余騎」に傍点]でしかない。  同書はいう。「行き向かふといへども、さらに波濤を凌ぎがたきの間、浜の潟《ひがた》にくつわを案ずるところ、行盛朝臣しきりにこれを招く。よつて、盛綱武意を励ませども、乗船を尋ぬるあたはず、馬を乗りながら藤戸の海路(三町余)を渡す、相具するところの郎従六騎なり。いはゆる志賀九郎、熊谷四郎、高山三郎、与野太郎、橘三、橘五等なり。遂に向ふ岸に著せしめ、行盛を追ひ落とす、とうんぬん。」平家は海を隔てて、来るなら来てみよ、と招く。渡れる道理がない。ところが、部将佐々木が海を馬で乗り渡って攻撃に成功したのだが、この場合、『平家』の作者の方は、両大軍の対峙、戦線の膠着、少数の勇者による勇猛果敢な戦局打開、という戦闘経過を想起せずにはおれない。「源平の陣のあはひ、海のおもて五町ばかりをへだてたり。舟なくしてはたやすう渡すべきやうなかりければ、源氏の大勢、向かひの山に宿して、いたづらに日数を送る。平家の方より逸《はや》り男の若者ども、小舟に乗つて漕ぎ出ださせ、扇をあげて『ここわたせ』とぞ招きける」という膠着状況の下で、佐々木は味方の軍勢の思いもかけなかった突破口を作った、というふうに語るのである。かれは、浦の男をひとり呼び寄せ、小袖・大口(袴)・白鞘巻などをやってすかし、「この海に馬にてわたしぬべきところやある」と問うた。すると男は、この浦の人々も多くは知らない、隠れ瀬のあることを告げた。「たとへば河の瀬のやうなるところの候ふが、月がしらには東に候ふ。月じりには西に候ふ、両方の瀬のあはひ、海のおもて十町ばかりは候ふらん。この瀬は御馬にてはやすう渡させ給ふべし」と教えられたかれは、その男とただふたりで、裸になって夜中の海峡で瀬踏みをする。 [#ここから1字下げ]  肩に立つところもあり。鬢のぬるるところもあり。深きところをば泳いで浅きところに泳ぎ着く。男申しけるは、「これより南は北よりはるかに浅う候ふ。敵、矢先を揃へて待つところに、裸にてはかなはせ給ふまじ。帰らせ給へ」と申しければ、佐々木げにもとて帰りけるが、「下臈はどこともなき者なれば、また人に語らはれて案内をも教へんずらん。わればかりこそ知らめ」と思ひて、かの男をさしころし、頸かき切つて捨ててげり。 [#ここで字下げ終わり]  諜者や道案内に土民を用い、かれによって、逆に敵に情報が洩れることを恐れて殺すというのは、しばしば用いられるやり口であるが、佐々木盛綱の場合の、「人」に知られたくない、という「人」は、味方の他の人々であり、一番乗りをしたいばかりに男を殺すのであるから、武士の勇猛と背中合わせになっている、仲間ぜり[#「仲間ぜり」に傍点]の狭量、名誉心を、作者が描いているわけである。しかも、その漁師は思慮分別のある男で、海中では、途中の問題の箇所を教えると、前進をやめ、盛綱の身の安全をはかる配慮をしてくれているのである。手柄をたてたいばかりに、盛綱は、そのわが身のことを案じてくれる土地の男を、造作もなく「さし殺し、頸かき切つて捨て」てしまう。これは、もし事実とすれば、佐々木に従った人々だけが、後に知って語り広めることのできるはずのことがらであろう。作者はそういう戦闘細部の状況、エピソードを聞くことができた点で、『吾妻鏡』の作者より運がよかったのか。そうであった、としておいてもよい。しかし、たとえば、読みもの系の「延慶本」には、男に案内させたことはあっても、殺したとはない、というふうだから、むしろ、そうでなかったかもしれない。が、藤戸の合戦という事実にこだわらずにみれば、この漁師の思いやりと武士のそれに対するむくい方こそ、〈中世〉であり〈中世的人間関係〉の一角である。それは、児島合戦での事実であろうとなかろうと、戦乱の時期に、小異はあれ、武士たちが反覆用いた手口であり、その意味において普遍性があり、まぎれもなく真実なのであろう。細部の描写において、史実ではないフィクションの導入によって、事実以上にリアルな中世的真実がみごとに物語られていく、という経過が、『平家物語』にはあったように思われる。  翌日、「平家はまた小舟に乗つて漕ぎ出ださせ、『ここを渡せ』とぞ招」いた。「佐々木三郎、案内はかねて知つたり。滋目結いの直垂に黒糸|威《をどし》の鎧着て、白葦毛なる馬に乗り、家の子郎等七騎、ざつと打ち入れて渡しけり」ということになる。大将軍範頼は、「あれ制せよ。とどめよ」と命じ、土肥の次郎実平が、鞭鐙を合わせて追いついて、「いかに佐々木殿、物の憑いて狂ひ給ふか。大将軍の許されもなきに[#「大将軍の許されもなきに」に傍点]、狼藉なり[#「狼藉なり」に傍点]。とどまり給へ」というが、耳もかさず、土肥の実平もあとについてとめながら、とうとう海を渡ってしまう。留め男が、戦友を見捨てるにしのびないために二番乗りの功名をする皮肉——「馬の草脇《くさわき》、胸懸《むながひ》づくし、ふと腹につくところもあり、鞍つぼ越すところもあり。深きところは泳がせ、浅きところに打ち上がる。大将軍参河の守、これを見て、『佐々木にたばかられにけり。浅かりけるぞや。渡せや渡せ』と下知せられければ、三万余騎の大勢[#「三万余騎の大勢」に傍点]みな打ち入れて渡しけり」——範頼という凡骨は、いつも「浅かりけるぞや」といった調子で驚きの声を発する以外に能のない総司令官であるのか。  ここでは佐々木と土肥の人間関係、七騎と後につづく三万騎など、作者の描かねば気のすまなかったらしい〈戦闘〉と戦闘の中の〈人間〉とが、みごとに浮かび上っている。細部の真実のためにフィクションを奉仕させることを、少しもいとわぬ作者の傾向性が、この物語を貫いている。    フィクションとリアリティ  巨視的にみて、『平家物語』は、古代から中世への歴史的大転換期を生きた人の、自分たちの生きた時代に向かっての歴史的把握の試みであった。それを貫くものが、古代的世界の没落への惜しみない悲傷であり、その中に横たわっているものが、中世的な新しい人間群像と新しい人間関係に対する鮮烈な驚嘆であることが、この語りものを特色づけている。この物語のことを考えようとすれば、なによりも、大きな歴史の力を感受しての強い抒情と、歴史を構成する人間的事実に対する深い関心とが、作者をゆさぶり、作者の物語る意欲を掻き立てている点に、眼を注がなければなるまい。語りものとしての『平家物語』の成立に関する研究は、歳月を追って細密化し、複雑になりつつあるが、この点を逸することが出来ない。たしかに歴史的事実は作者の体内に強烈に射《さ》し込んできている。それを逆に、作者が歴史的現実に眼を見開いていた、と表現してもよい。しかし、事実の認識がすぐに、このように物語らずにはおれない思い、物語りはじめる心を生むのではない。その点をたえず考慮に入れつつ研究を進めなければ、いわゆる〈原平家物語〉の想定にあたって、誤謬が生じよう。十二巻本に成長するまでの最初の形がどのように小さくても、それは物語る心にささえられたもので、実録であったとは考えにくい。よし、そうであったとしても、それがそうでなくなったところからが『平家物語』なのではあるまいか。  古代末にあって、資料を忠実に集成して事実としての歴史をめざした人には、たとえば膨大な『本朝世紀』(いまは残闕本としてしか存しないが)を編んだ、保元・平治の乱の中心人物藤原の通憲のような学者があった。かれの歴史にはフィクションがない。厳密に編年史であろうとし、年代記であろうとしている。史実の物語でありながら、『平家物語』は、はじめからそういう史書とは違ったところから出ているのではあるまいか。『本朝世紀』の純客観の史書に対して、慈円の『愚管抄』は、語り手個人の主体を前へ突き出しながら、歴史への詠嘆に身を委ねない点において、個性的な史書であった。そして、その態度からするならば、貴人が語る〈故事談〉の系列に属するもので、作者の体内に流れ込み、そこに定着している歴史知識と説話的伝承が繰り出されていく。それに対して、『平家物語』の作者は、九条・藤原家の出である〈天台座主の目〉というような特定の個人の歴史への眼[#「歴史への眼」に傍点]を設定しない。鏡もの[#「鏡もの」に傍点]と呼ばれる『大鏡』や『今鏡』は、慈円のような顕著な歴史・故事を語るべき長老ではないが、架空の古老を借りてきて、その眼で歴史を語ろうとする点、〈摂関政治史〉として歴史を語ろうとする点において、やはり、本質的に異るものがある。  それらに対して『平家物語』の作者は、主体的な抒情の表出をはばからず、歴史の細部におけることさらに人間的な人間行動を重視する文学的方向をとりながら、語り手としての自己の眼をある個人の眼として設定していないところに特色がある。詠嘆性の濃い点で、〈物語の眼〉で歴史を見ようとする物語的手法といえるかもしれないが、史実に基く歴史の大観をめざしつつも、歴史の中の人間たちの個々の細かい行動に強く固執するところは、中国の司馬遷の『史記』が確立した〈史記の眼〉というべきであり、歴史叙述が大筋において事実でありつつも、筋の進め方、個々の細部描写において、フィクションをはらみ、フィクションによって真実性を保証していくところは、その血を受け継いだものというほかない。『平家物語』が大局的に事実を追い、細部の人物の形象、人間関係の描写においてフィクションを操作しつつ、時代人の行動・心理として真実性を描出しえた点、作者は、心ひろやかに戦乱の日々を生きた人々の体験を熟知し、その回想(戦《いくさ》がたり)に共鳴しうる素質を持っていた、と考えねばならない。そこには文字を十分に操りうる、すなわち貴族社会に属する、しかも、本質的には敵対的な新興武士階級に対して、歴史の動きに対して、そういう開かれた心を具ええた人物を想定しなければならない。それは大江の広元たちのような頼朝の幕府創設に直接参加した貴族たちではなく、平家の専横を憤りつつも、その栄華につぐ没落を哀傷措くあたわざる貴族でなければなるまい。  歴史学者石母田正は、「平家物語はこれほどの長篇でありながら、生活というものについての感覚が実に鈍いことが注目される」といい、その例として、「たとえば都落ちして海上に浮んだ平家の公達《きんだち》は、明け暮れ都を偲んで涙を流しているばかりで、彼らが海上でなめたであろう辛酸が物語になんら出てこないことは驚くべきほどである」といった。さらに、「灌頂の巻」の「六道の沙汰」の「浪上にて日を暮らし、船の中にて夜を明かし、貢物もなかりしかば、供御《くご》を備ふる人もなし。たまたま供御を備へむとすれども、水なければ参らず、大海に浮かぶといへども、潮なれば呑むこともなし、これ、また餓鬼道の苦しみとこそ覚えさぶらひしか」という女院の述懐をあげ、「せめて右の女院ののべた程度にでも、物語の本文に生活[#「生活」に傍点]が書かれていたならば、平家物語の叙述がどれほど生彩を帯びたかわからないのである」(同氏『平家物語』)という見解を提出してもいる。 「灌頂の巻」は『平家』成立論では種々問題のあるところで、特に「六道の沙汰」は後から入り込んできた部分と考えられているから、〈平家的なもの〉といいにくいところである。〈眼〉が違うのである。現代の歴史学者としての石母田氏の要求は、もっともな点があり、わたしもまた、『平家物語』にそういう批判をつきつけたい気持もする。しかし、そのような生活の日常性のリアリティを保証する形では、まだ、作者の生み出そうとする〈人間〉と〈人間の世〉のリアリティを保証しえない文学的状況下に、作者は立っていた。自身はどうしても困苦欠乏の中の人間の日常心理を解しえないところに身を置きながら、なおかつ、〈飢えたる戦士たち〉の世界に眼を向け、時代の動きを見つめようとしていた人物を、わたしたちはそこに発見するのである。そのような形で古代的支配の側の人間の内部に新しい時代は浸透していったのであった。 [#改ページ]  あとがき  ここに並べた十一の小編には、その第三番目の文章の題を借りてきて、『火山列島の思想』という名を冠したが、自分の心中の考えをありていに言えば、≪日本陸封魚の思い≫と名づけたかった。万が一、生物学の本として分類され、そちらの人々に迷惑をかけては、という一|分《ぶ》の分別が、それを思いとどまらせた。  この弧状の火山列島の各地の渓流には、イワナやヤマメのような、大洋から溯ってきて、もどっていく術《すべ》を忘れ、形質も矮小化してしまった魚たちがいる。中流のハヤなどもそうである。大井川や早川の最上流地帯を歩きながら、多摩川の岸辺に坐りこんで、わたしがいつか感じとるようになったのは、かれらとわたしとの運命の類似性であった。とりわけ、数年前、そこからは一本の川も流れ出ていない本栖湖で、小アユをつかんで、思わず引き込まれた陸封の生涯の感慨は、深く心に刻み込まれている。ここのアユは、小さいながら腹に美しい朱色が浮かび上り、成熟して産卵期に近づいていることを示していた。一生海へ下ることはないが、それはそれで完熟し、発展もあろう。小さいくせに、アユ特有のスイカの匂いがプーンとした。  陸封の生涯——とわたしがいうのは、国外へ旅する、しないの問題ではない。実に長い間この列島上に暮らしてきた日本人の子孫として、いやおうなしにわたしの精神が何をその歴史から受けとっているか、それに規制されているかのことであり、そして、自分の体内に眠りこけているさまざまな可能性に、どんなに気づこうとしていないかのことである。  わたしは、日本の歴史の中に、自分に通じるものと、自分とはまるで違うものとを、探り出してみたかった。こんど集めた十一の文章は、われながらその脈絡を求め出すことも容易でないほど、バラバラであるが、それらの文章によってわたしがまさぐりつづけていたものは、巨視的にいえば、天皇制を中核とする日本的オヤカタ・コカタ制の問題といえよう。日本人が日本に生まれたがゆえに避けえなかったものとして、わたしは、まず、それをめぐって考えあぐねてきた。ここで相手どっている原始・古代の日本に関していえば、それは何よりも、日本的古代支配と、その下で生じた精神の諸問題といえようか。  近年、さまざまのコースから、さまざまな方法を用いて、〈日本的〉ということが考察されてきている。しかし、どのような手つづきで析出される〈日本的〉なものが、真に日本的なものの析出でありうるか、わたしは迷いつづけてきた。わたしは、文学の面から、自らに課したその課題に立ち向かおうとしたが、対象のもつ複雑さに、終始気押され、実証の方法のくふうに困りぬいた。結局のところ、神の日本的な祭り方に規制された人々の精神のこと、その神の祭り方を専有していく者たちの専有の仕方のこと、そうして作り上げられた権力階級の中に醸し出される、精神的苦悶の様相を、明確にしたかったのである。別の言い方で、原始の日本人の呪術的想像力が古代的社会機構によって変質させられつつ、古代の散文的想像力に復讐していくプロセス、といってもよかろうか。こういう歴史のプロセスが、支配者側の問題でありつつ、それにとどまらずに、実は、民衆一般の精神を、さまざまに歴史的に規定してきているところに、深い問題を感じている。  十分に書き込み、そこそこで考えを展開する力が足りなかったいま、弁解がましいことをいうべきでないが、いまのわたしには、まだ手にあまるために、大和の天皇家の固有性を追求せず、古出雲の豪族的支配(国造家以前の出雲の支配者の支配)の分析で置き換え、その段階での〈日本的〉なものを考えようとしたのは、やはり不徹底だった。そこから転じて、大和の天皇家の側の問題によりかかって、古代的支配下の精神の状況を考えていっているところが、どうも心ゆかない。はじめ一時もくろんだことがあったように、古出雲の問題は、それだけで一冊にすべきであったかもしれないし、ここで伏せてしまった大和の日知《ひじ》り家のことは、いつかきちんと調べ上げて書かねばならない、と肝に銘じている。十一の文章のうち十には、どんなに小さくはあれ、資料の面か考察の面かで、とにかく、自分なりになにか新しく提出した、と思われるもの一、二があるが、「王と子」にはそれがない。鑑賞に流れている。しかし、全体の流れという点からそれを挿入したが、新見のかけらもないことを恥じねばならない。  わたしは国文学の徒であり、これらの文章も、多くは古典文学を素材に用いている。問題意識と問題処理の方法において、それが文学研究になりきっていないのは、未熟のせいである。真淵・宣長の国学の伝統をもつ国文学研究が、もういちど他の文化諸学とあいわたるものとなりうるには、あくまで最も文学研究らしい文学研究として徹するほかない、と考えている。「いまの国文学」的ではない問題意識を抱き、いろいろな素材・方法によってかぎりなく雑駁化しつつも、文学の研究としての純化の道をたどる、ということがありはしないのか。他の諸学が、とにかく、文学を文学として扱おうとするその研究から、影響を蒙るようになったとすれば、それがその時代の新しい国文学というものだろう。わたしはそう考えるのだが、現実にはわたしたちの時代の国文学は、他の文化諸学に対してたえず受け身であり、なにかを受けとらされる側にだけ回ってきた。そうでないものにしたい、それがわたしの念願であり、その意味での文学研究に徹したいのだが、その境地にはほど遠いところにある。わたしたちの国文学もまた、学問における日本陸封魚の一種ではないのか。  十一の文章はここに達するまでにいろいろな経路をたどってきている。そこそこで、みな、多くの人々のお世話になった。 [#ここから1字下げ] 黎明——原始的想像力の日本的構造—— [#2字下げ]『文学』三四の九、一九六六年九月(「黎明——原始的想像力の日本的構造——」)。 幻視——原始的想像力のゆくえ—— [#2字下げ]未発表。主として「日本文学の発生——序説の序説——」(『日本文学』一二の九、一九六三年九月)によって、書き直した。 火山列島の思想——日本的固有神の性格—— [#2字下げ]『文学』三三の五、一九六五年五月 廃王伝説——日本的権力の一源流—— [#2字下げ]前の文章と同時に書いた。一九六六年秋の早稲田大学国文学会で発表(「日本の神がかり」)。 王と子——古代専制の重み—— [#2字下げ]『国語一(高等学校用総合)学習指導の研究』(一九五六年三月、筑摩書房)のために書いた(「文学作品としての古事記」)。 [#2字下げ]その後、臼井吉見編『現代教養全集』26(一九六〇年一二月、筑摩書房)に収録(「倭建命—文学作品としての古事記」)。さらに、山岸徳平・稲垣達郎・服部四郎ほか編『高等学校現代国語二』(一九六四年三月、大日本図書)に転載(「倭建命の形象」)。同教科書『新版現代国語二』(一九六七年三月)にも。 鄙に放たれた貴族 [#2字下げ]前半は、『国文学』(学燈社)三の一、一九五八年一月(「大伴旅人——梅花の宴前後——」)。 [#2字下げ]後半も同時執筆だが、発表は、『日本文学誌要』(法政大学国文学会)一六号、一九六六年一一月(「鄙に放たれた貴族」)。 心の極北——尋ねびと皇子・童子のこと—— [#2字下げ]未発表。一九六二年一〇月。 日知りの裔の物語——『源氏物語』の発端の構造—— [#2字下げ]「桐壺の院」(『日本文学誌要』復刊二号、一九五九年三月)に、「絶望と絶望のその先と」(『国文学解釈と鑑賞』三〇の八、一九六五年七月)と「帝王の生き方——古代貴族生活史と精神史の境界域から——」(同三一の一三、一九六六年一一月)を加えて、書き直す。 フダラク渡りの人々 [#2字下げ]西尾実・小田切秀雄編『日本文学古典新論——近藤忠義教授還暦記念論文集——』(一九六二年一二月、河出書房新社)。 偽悪の伝統 [#2字下げ]『文学』三二の一、一九六四年一月。 飢えたる戦士——現実と文学的把握—— [#2字下げ]『文学』三〇の八、一九六二年八月(「『平家物語』作者のおもかげ」)に手を入れた。 [#ここで字下げ終わり]  これらの文章をめぐって忘れられないことを、ついでに記せば、「幻視」については、早稲田大学国文学会で話した時に、岡一男氏から、天《あめ》の石屋戸《いわやと》の前でのアメノウズメノミコトの神がかりは密室的でないが、あちらはどう考えるべきか、という宿題をいただいた。これには、神がかりのもうひとつのあり方をささえる基盤を明らかにしていかねばならない。いつか、お答えを持って参上できたら、と思っている。 「廃王伝説」の着想をえた奥多摩の月夜見山にすぐつづいた、鞍部の風張峠を、数年後に、横断自動車道路が檜原村から奥多摩町の小河内へ越えるという。測量もすんだらしい。やがては、あのあたり、熊もいなくなるだろう。 「鄙に放たれた貴族」の前半の梅花の宴を、文人の風流の催しでないとするのが、わたしのここでの主張点のひとつだが、それに関連する三十二首の梅花の歌の性格については、ずいぶん議論がある。はやく高木市之助氏の「二つの生」(『吉野の鮎』所収)には、人々が「吾家《わぎへ》の苑《その》」というのは、自分の家で詠んだ歌で間に合わせた、と見られなくもない、という指摘があり、わたしは、それを念頭において、対案を出したのだが、その後原田貞義氏の「梅花三十二首の成立事情」(『万葉』五七号、一九六五年一〇月)は、三十二首の用字法から、「この梅花歌三十二首は決して単純に宴の席で興に乗じ悦に入り次々に誦詠されたものではないことがわかる」と主張されている。三十二首の中、二十首の用字法は、二、三の例外があっても整然とした用字法で、残り十二首はそうではない。それは予め用意してきたものや、後から送ってきたものがある証拠だ、とされた。しかし、事実調査とその上にのせる推測の隙間に問題がある。その後、吉永|登《みのる》氏は、「梅花の歌三十二首に見える『我』について」(『万葉』六六号、一九六八年二月)において、他の人が今日の宴席である長官旅人の宅の庭を「我が園」と歌うことが、当時として不自然でないことを説かれ、原田氏を駁された。「それにわたしは用字法だけで作者を論じるのは危険でないかと思っている」とも付言しておられる。 「フダラク渡りの人々」は、執筆中に井上靖氏の創作「補陀落渡海記」(『群像』一九六一年八月、ついで作品集『洪水』一九六二年四月[#「一九六二年四月」に傍点]に収録)が出て驚いた。フダラク渡りは、「子孫のわたしたちは、もはやほとんど忘れかけている」どころか、世間周知のこととなった。しかし、井上氏のここに素材を求められた慧眼に敬意を表しつつも、あえて書き改めなかった。氏は、フダラク渡りの慣習が桎梏と化した、末期の時代を描かれた。わたしは、それがまだ救いの道であった時代を問題にし、フダラク渡りと説話文学史の交渉を語ろうとした。その後、フダラク渡海については、尾畑喜一郎氏の「補陀落渡海」(『国学院雑誌』六五の十・十一、——続熊野学術調査特集——一九六四年一一月)のような詳しい調査報告も出ている。  ことに忘れがたいのは、この文章でも引用した〈身燈〉説話が、南ベトナムで、政府の仏教徒弾圧に抗議する相継ぐ教徒たちの焼身自殺として、現代に突如として復活したことであった。壮絶とも惨酷ともいいようがなかった。  こんな小さな本であるが、わたしには間歇的に、自分のやっていることへの根本的懐疑が襲ってきて、まとめることには気おくればかりし、遅々として進まなかった。多年にわたって、筑摩書房の原田奈翁雄氏が慫慂を越えた鞭撻を与えられたおかげで、やっと形になった。元来、どこまで行ってもまとまりようのない、茫茫とした自分の仕事の進め方であったから、最終段階で、柏原成光氏の鮮かなタクトによって、事が急速に進み、そこで小さくまとめる決心がついたのも、いま考えれば幸いであった。陰の演出家であるおふたりの友情に、心から感謝したい。  一九六八年五月一九日 [#地付き]益田勝実  [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] [#2字下げ]新装版あとがき [#ここで字下げ終わり]  初版のとき、「心の極北」の皇子・童子と並べて書きたかったのは、 [#4字下げ]朱雀院の御時入内の後、いかなる事かありけん、清慎公のもとへ遣はしける [#地付き]女御藤原慶子  [#2字下げ]身の憂きに思ひ余りの果て果ては親さへつらきものにぞありける [#地付き](『玉葉和歌集』巻第十三)  という、親を深く怨む歌を残している人のことだった。うまく書けず、投げ出したままになっている。  朱雀院の女御になった人だが、夫の天皇は、わずか二十四歳で、弟の村上天皇に譲位させられてしまった。祖父藤原忠平・父実頼らの画策と思われる。退位後も、除目の夜、弟の天皇とともに任免を行なおうと望んで、参内を門前ではばまれるなど、この人が親を怨んだことの内実を想像させることがあるが、どうも満足できる資料が揃わない。摂関政治期の、政策の道具として結婚させられた后妃のことが書ききれないでいるのが、残念だ。  この歌が、ずっと後、中世の『玉葉和歌集』になってやっと出てくること、それまでどこにどうしていたか、恋の歌のなかに紛れ込んでいるのも気にかかる。   一九八二年一二月七日 [#地付き]益田勝実  益田勝実(ますだ・かつみ) 一九二三(大正一二)年一月、山口県に生れる。東京大学文学部国文学学科卒業。元法政大学教授。国文学に民俗学的方法を応用し、日本人の精神生活の古層を掘り起こしたその業績は高く評価されている。また実証性と豊かな想像力とが融合した文体が多くの読者を魅了している。主な著書に『説話文学と絵巻』『秘儀の島——日本の神話的想像力』『記紀歌謡』『古事記』などがある。 本書は一九六八年七月、筑摩書房より刊行され、一九八三年二月、新装版が刊行された。一九九三年一月、「ちくま学芸文庫」に収録された。